第27話 沈黙の森に、境界線を引く
朝一番の桜精院は、まだ少しひんやりしていた。
講堂ではなく、奥の小さな会議室。
ユーマは、板に貼った数字の列をじっと見ていた。
兵の増員、桜盾の装備更新、市警の拘束小屋、民兵への手当。
全部“必要経費”だ。
その一方で、パンの小麦、油、灯、紙、教材、本の束。
「……うん、ぎりぎり黒字」
ため息とも安堵ともつかない息を吐き、チョークで線を引く。
教育文化税と市場環境税のバランスを整え、備蓄基金税の内訳をわずかに動かす。
“守るための支出”は増えた。だが同時に、“暮らしを太らせる支出”も守らなければならない。
窓の外から、訓練場の掛け声がかすかに聞こえてくる。
アストの低い声と、若者たちの息。
きちんとした拍で続く声は、不思議と数字の列の横で“筋”のように重なった。
「……森次第、か」
ユーマは独りごちた。
今、この街の計画でいちばん大きな空白は、“森側”だ。
森が沈黙した。
それは一見、良いことに思える。だが“何も起きない”というのは、時に一番不気味だ。
扉がノックされた。
「入っていい?」
ミレイの声。続けて、ガルドの重い足音。もうそれだけで、ただ事ではないとわかる。
「戻った?」
「戻った。——ちゃんと、全員」
ミレイが先に入ってきて、汗の匂いのする外套を脱ぐ。
その後ろで、背の高い男が片手に巻いた布を押さえながら頭を下げた。
銀髪を後ろで束ねた弓使い、《風切り》の隊長レンだ。その横には、地図板を抱えたノア、後衛の癒やし手リュス。
ガルドはいつも通り無口だが、表情が固い。
「話、聞かせて」
ユーマが椅子を引くと、レンたちは簡単に挨拶を済ませ、すぐ本題に入った。
◆
「まず、森は“静かすぎる”」
レンが言った。
広げられた地図には、森の中に薄い灰色の輪が描かれている。
サクラリーヴから見て西北。
いつもなら小型の魔物や獣の出る辺りだ。
「獣道には足跡がない。鳥の声も少ない。
代わりに、一定の地点から先で、急に空気が重くなる」
ノアが指先で灰色の輪をなぞった。
「ここから先です。耳鳴り、吐き気、目の奥が圧される感覚。
魔物の気配は……ゼロではないけど、“寝たまま”に近い」
リュスが続ける。
「あのまま進んだら、多分、隊員のほうが先に倒れます。
なので、境界と判断して引き返しました」
ガルドが短く言葉を足した。
「獣の骨が、線のこちら側にだけ散らばっていた。
内側にはいない。……踏み込んだ者だけが、ここまで来て死んだ形だ」
「結界、みたいなもの?」とミレイ。
ユーマは眉をひそめた。
「結界というより、『森の都合で止められている』感じだったな」
レンが腕を組む。言葉を探しながら。
「誰かが術を張っている気配は薄い。もっと……そうだな、
川が増水した後に、ここから先は流されるぞ、って本能が警告してくるみたいな」
「物理的な障壁はない。けれど、進むほど体が拒否する。
魔物も、きっと同じものを感じている。だから内側からこちらへ出てこない」
ノアの言葉に、ガルドが頷いた。
ユーマは板に簡単な図を描いた。
街、畑、牧草地、森。
その間に、灰色の輪。
森が息を止めたように、沈黙している帯。
「内側に何があるのかは、まだわからない。けど——」
ユーマはチョークを置いた。
「今は『内側に入らず』『外側を固める』ほうがいい。
森の都合で動いているものに、こっちから喧嘩を売る必要はない」
「喧嘩を売らなくても、向こうから来るかもしれない」
ミレイが言う。
「来たときに備えるのが、こっちの仕事」
「だから、線を引こう」
ユーマの声は静かだった。
「『ここから先は、街として“立ち入らない”』っていう線を。
森が自然と作った帯に合わせて、こっちも都市計画の境界線を重ねる」
アストがいれば、きっと頷いただろう。
だが今、アストは訓練場で若者たちの姿勢を直している。
そこはそこ、ここはここで動く。
街は、同時にいくつも“呼吸”している。
◆
午後、桜精院の大講堂には再び人が集まった。
今度は、市全体の会議だ。
猟師、木こり、薬草採り、農家、冒険者、商人、母親たち。
森の縁で暮らす人たちの顔が多い。
ユーマは黒板に大きく描いた。
サクラリーヴの簡略地図。その外側に、グレーの輪。
「森の調査の結果です」
ざわめきが起きた。
子どもの頃から森で遊んできた者、祖父の代から猟をして来た者たちにとって、
“境界線”という言葉はあまり良い響きではない。
「まとめると——」
ユーマは指で板を叩きながら、ひとつひとつ区切った。
「一、森の内側に異常な『静けさ』が広がっている。
二、その帯から先へ進むと、人も魔物も体調を崩す。
三、今のところ、森の内側からこちらへ出てくる危険はない。
——だから、街として“こちらから内側に踏み込む”のを禁止したい」
手が何本も上がる。
最初に声を上げたのは、年配の猟師だった。
「おめぇ、うちらの猟場はそこから先だべや。
今までだって、魔物に追い回されながら獲って来たんだ。
なんで今さら、立ち入り禁止なんて言われなきゃいけねぇ」
ユーマは頷いた。
「あなたたちの仕事を奪いたいわけじゃない。ただ——」
「ただじゃねぇだろ」
別の若い猟師が被せる。
「『森が静かだから』って?
静かなのはいいことじゃねえのか? 魔物がうじゃうじゃいるほうがよっぽど——」
その言葉を、ガルドの低い声が断ち切った。
「静かすぎる、というのは、“動かない”ということだ」
視線が集中する。
ガルドは腕を組んだまま続けた。
「森は本来、うるさい。鳴き声、羽音、木の軋み。
それが消える時は、たいてい“何かが大きく動く前”か“何かがもう動いた後”だ。
俺は後者だと見ている」
祠で香を焚いていたエシルが、静かに言葉を添える。
「森の“気配”が変わっています。
祈りの時に感じる、風の流れや地の熱が、少し内側へ引かれている。
今はまだこちらへ向いていません。……だからこそ、今のうちに線を引くべきです」
「線、線ってよ」
猟師の一人が舌打ちした。
「そんなもん引いたって、森が守っちゃくれねぇだろ」
今度はレンが口を開いた。
「森に守ってもらうための線じゃない。
“こっち側の人間が、自分で守るための線”だ」
会場の空気が少し変わる。
レンは続けた。
「俺たち冒険者は、危ない橋も渡る。それが仕事だ。
でも、全部の橋を渡るわけじゃない。
“ここは踏み込まない”って決めた場所があるから、戻ってこられる。
街にも、それが必要だろ」
しばし沈黙。
やがて、前列に座っていた中年の女が手を挙げた。
森の端で薬草を摘んできたという彼女の手には、細かな傷跡がいくつもある。
「……線を引く場所を、話し合って決められないかね。
全部禁止じゃなくて、『ここまでは昔通り、ここから先は今だけ我慢』みたいに」
ユーマは待っていたと言わんばかりに頷いた。
「そのつもりです。森の帯全部を“聖域”扱いにする気はない。
調査隊の報告では、特に圧が強い場所と、まだ薄い場所がある。
“強い場所から先”は完全立ち入り禁止。“薄い場所”については、
・猟、採集は昼のみ
・二人以上で行動
・桜盾か冒険者ギルドへの事前申告
・戻ったら必ず報告
という条件付きで認めたい」
黒板にルールを書いていく。
ユーマの字は淡々としているが、一本一本の線に迷いはない。
年配の猟師が唸る。
「……まぁ、全部禁止よかマシか。
だが、稼ぎが減るのは困る」
「そこは市で補う」
ユーマは即答した。
「森側の仕事が一時的に減る分、街の側の仕事を増やす。
水路の堀化、堤の補強、北側の新しい倉庫建設。
体を動かせる人には、優先的に日雇いと短期の仕事を回す。
賃金は平均労働賃金の九割を保証する」
「なんで一割減るんだよ」
若い猟師がすかさず噛みつく。
ユーマは苦笑した。
「街全体の財布が一つだからです。
安全のための支出が増えた分、どこかを“我慢”してもらわないと回らない。
ただし——
一割は“我慢してもらう分”ではなく、“未来への貯金”に回します」
黒板に新しい行が増えた。
・森緩衝帯基金(仮)
——森の帯が落ち着くまでの間、森と街の間に“緩衝地”を作るための基金。
木を植え、祠を作り、小さな畑と牧草地を繋ぐ帯。
「森と街のあいだに、一本の“桜の帯”を作るつもりです」
ユーマは続けた。
「そこは誰も家を建てない。
森が暴れたときに受け止める緩衝地であり、
同時に“帰ってくる時に目印になる道”でもある」
「桜、か」
誰かがぽつりと言った。
「また増えるんだな」
「増やします。——街の名前、サクラリーヴですから」
笑いが少し起きた。
完全な賛同ではない。けれど、完全な反発でもない。
そのあいだに浮かんでいる空気を、ユーマは“議論が成功している状態”と呼んだ。
「今日のところは方針決定まで。
細かい『どこからどこまで』は、猟師・薬草採り・冒険者代表を交えた小委員会で地図に落とし込みます。
——出てくれる人」
何人もの手が上がった。
ガルドも、レンも、その輪の中に手を伸ばす。
森の話を、森のことをよく知る人間抜きで決めるわけにはいかない。
◆
会議が終わったあと、広場の掲示板の前には人だかりができていた。
新しい紙が張り出される。
《森緩衝帯案(叩き台)》
地図の森側に、薄い桜色の帯が描かれている。
子どもたちはそれを見て、「新しい散歩道?」とはしゃいだ。
「違うよ」
ベレッタの娘が、小さな額に皺を寄せる。
「ここは『家を建てちゃいけない道』なんだって。
でも、桜は植えていいんだよ。
だからね、帰るときに迷ったら、桜をたどるの」
「じゃあ、“迷子防止の道”だな!」
隣の子が笑う。
大人たちは苦笑しつつ、その会話に救われていた。
難しい言葉よりも、そういう一言のほうがよほど腹に落ちる。
◆
夕方、ユーマは桜精院の小部屋で、一人黙々と“新しい台帳”を書いていた。
税の項目の横に、森緩衝帯基金の欄。
平均労働賃金に、桜盾・市警・民兵の三層を加味した新しい“安全手当”。
猟師の日雇い仕事、薬草採りの採集許可制、市場の品質検査の強化。
「数字だけ見てたら、絶対にやりたくない計画だな……」
つぶやきながらも、ペン先は止まらない。
安全を買うのは高くつく。
だが、街ひとつを失うことを考えれば、安い。
ノック。
「ユーマ、入るわよ」
ミレイが顔を出した。
「さっきの会議、お疲れさま。……怒鳴らなかったね」
「怒鳴ったら、多分、森より先に人間が壊れるから」
ユーマが冗談めかして言うと、ミレイはほっとしたように笑った。
「猟師のおっちゃんたち、後で『まあ、しょうがねえ』って酒場で言ってたわよ。
文句は言うけど、飲み込めないほどじゃないって」
「それならいい」
ユーマはペンを置いた。
「隊のほうは?」
「ガルドもレンも、異常なし。……ただ、見張りは増やしたいって。
森が“こちらを見ている”って感覚は消えないらしい」
ユーマは窓の外、森の方向をちらりと見る。
夕闇の向こうに、黒い線が続いているだけだ。
視界には何も見えない。
けれど、確かに“そこにある”気配は、彼にもわかった。
「線を引いたのはこっちだ」
ユーマはゆっくりと言った。
「それを向こうがどう見るかは、まだわからない。
——でも、境界を曖昧にして飲み込まれるくらいなら、
最初から『ここまで』って決めておいた方がいい」
「ま、あとは現場の仕事ね」
ミレイが肩をすくめる。
「地図に線を引いてくれれば、あとは私たちが歩くわよ。
歩きやすい線にしておいてね?」
「努力するよ。足がもつれない程度には」
二人は笑った。
笑い終わると、部屋に静けさが戻る。
でも、その静けさは森の沈黙とは違った。
人が息をひとつ吐いて、次に吸う前の、小さな間。
“動き出す前の落ち着き”だった。
◆
夜、ユーマは一人で街の外れまで歩いた。
水路に沿って、西の丘のほうへ。
桜精院の灯が遠くなり、代わりに見張り台の灯が近づく。
「止まらないって、大変だな」
誰にともなく呟きながら、足を運ぶ。
道の脇には、まだ小さな桜の苗木が等間隔に植えられていた。
森緩衝帯の“芽”だ。
丘の上まで来ると、森の影がよく見えた。
黒い塊。
まるで街とは別の生き物のように、沈黙している。
「……聞こえてるか?」
ユーマは森に向かって話しかけた。
「こっちは、こう決めた。
そっちは、そっちの都合で動くだろう。
できれば、うちの街を潰さないでくれると助かる」
返事は、もちろんない。
代わりに、夜風がひとつ吹いた。
森の方から、冷たい空気が流れてきて、桜の苗木の葉を揺らす。
その風は、以前の“白い息”ほど重くなかった。
押しつける気配ではなく、“様子を見ている”風。
「……ああ、そうだよな」
ユーマは苦笑した。
「こっちも、お前を見てる。
おあいこ、ってことで」
見張り台の上で、斥候が片手を挙げた。
四拍のリズムで笛が鳴る。
それに応えるように、水路の舟が底を二度叩いた。
街は動いている。
森も、どこかで動いている。
そのあいだに引いた一本の線。
その線の上に立つのが、サクラリーヴという街だ。
ユーマは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
四拍には満たない、三拍半くらいの、不格好な呼吸。
それでも、その息はきちんと胸の奥まで届いた。
「さあ……数字の続きと、明日の会議だな」
踵を返し、街へ戻る。
背後で森は沈黙を続けている。
だが今は、その沈黙が“絶対の恐怖”ではなく、
“考える時間”として受け取れるくらいには、街が動き始めていた。
沈黙のあとに、街は動き出した。
森の向こうを完全に理解できなくても、
こちら側でやれることは、まだ山ほどある。
ユーマの歩調は、街の灯のリズムとゆっくり揃っていった。
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