第25話 森が動かなくなった日

 午前の鐘が二度、控えめに鳴った。

 桜精院の大講堂は、いつもより椅子の脚が静かだった。音を立てないよう、人が息を合わせている。


 アストは黒板の前に立つ。昨日の白墨の跡は残したまま、新しく三つの語を上から重ねた。


 水/音/境


「西丘は、鳥の層が消えかけている。足跡は途中で軽くなり、倒木の樹液は黒く粘る。地面に、鼓動がある。……事実は以上だ」


 短く言い終えると、講堂の扉が重たく開き、鎧の金具が一つだけ鳴った。

 入ってきたのは、灰鉄の大盾を肩に担いだ男——ガルド・レヴァン。市防衛局長兼冒険者局長。元傭兵の巨人は、場の空気を壊さずに笑える稀有な人間だ。


「森が呼吸を忘れたってんなら、俺たちが思い出させてやる番だろうが」

 冗談めかした声に、張り詰めた肩が数人ぶんだけ下がる。


「ガルド局長」ユーマが立つ。「二次調査隊の編成は?」


「二筋で行く。アスト、お前の先遣はそのまま。俺は合同隊を後から入れる。前線維持と撤退護衛が役目だ。街は動き続ける、森は測る、どっちも怠けさせない」


 彼が指を立てるたび、名が呼ばれ、足音が増える。


「《赤糸団》——ドラン、レイナ、オルド、カム」

 槍を布で巻いた長身の男が一歩。「前へ」

「《白灯組》——ノア、リュス、タリス」

 白衣の袖を短く縛ったヒーラーが会釈。「了解」

「《風切り》——セラ、ミナ、ゼル」

 同じ顔の弓手が二人、同じ角度で顎を引く。罠師が背籠を指で叩いた。


 ミレイが淡々と言葉を継ぐ。「目的は原因の確認と退路の確保。戦闘は回避、記録を優先。笛は四拍で合図——一拍待機、二で集合、三で離脱、四で撤退」


 祈祷師長エシルが香の小皿を差し出す。「恐れを否定する祈りはしません。恐れを手順に落とす祈りを配ります。四拍で息を整え、最後の吸で動け」


 ブランカは腕まくりのまま、木箱を足元に置いた。

「装備の油は薄塗り。森の膜を拾いやすい。継ぎ目は乾いて動くくらいでちょうどいい。盾の革紐は半寸刻みで締め直せ。弓弦は一本余計に巻いてけ。……死ぬな、仕事が増える」


 笑いが小さく起きる。

 アストはそれを止めず、代わりに黒板に印を描いた。丸の中に桜枝、点がひとつ。

「倒木の皮に、これに似た焼印があった。桜精院の封に似ているが違う。街の印が、森の中で勝手に増えている意味を考えろ」


 ユーマが台帳を広げる。

「水路は流しっぱなしにする。井戸は一刻ごとに検査。膜は採取して乾燥させ、称量する。市場は開ける。人の速度は落とさない。『いつも通り』を、制度で強制する」


 ガルドが大盾をひと叩き。「聞いたな。笑いがあるうちは街は生きてる。行くぞ」



 出陣の列が市場の脇を抜ける。朝のパンの香りが、走らずに歩く隊の速度に寄り添ってくる。

 子どもが柵の外から手を振り、母親に袖を引かれる。

「怖いの?」

「怖いよ。でも怖いって言えるなら大丈夫。怖くないって言うほうが危ない」


 リナは短槍の節を握り直す。節のざらつきは、昨日ブランカが付け直したばかりだ。

 隣でセラとミナが、同期した足音で囁き合う。


「矢筒、軽いわ」

「軽くない。心が見てる」

「どっちにしても、心を軽くしときな」


 《白灯組》のノアが前を見たまま言う。「戻るときの怪我のほうが治りが悪いから、行きは怪我しないで」

 《赤糸団》のドランが苦笑した。「無茶言うな。俺たちは毎回、戻る道を作りながら行ってる」


 ミレイが笛を短く鳴らし、列が締まる。

 アストは最後尾から、背中が固まる若い者の肩甲骨に、指一本を置いて落とした。


「首が浮いてる。顎を引け」

「……はい」


「怖いなら、段取りを増やせ。怖くなくなるまでじゃない。怖くても動けるまで」


 リナは四拍で息を整える。吐いて、吸って、吐いて、吸う。

 足裏に土。土の硬さは、街より半分だけ柔らかい。



 西丘のふもと。

 空は薄く青い。白が一枚、剥がされたように。


 手順通り、先遣のアスト隊が入る。合同隊は谷地の手前で扇に展開して待つ。

 《風切り》の双子が風を測り、ゼルが罠道具を広げる。

 《白灯組》の獣人リュスは耳を伏せ、「……森が喋ってない」と呟いた。

 《赤糸団》のオルドが土を指で撫でる。「踏み返しがない」

 ドランが短槍を地に突き、音を聞く。「空洞じゃない。踏み返しだけが無い」


 やがて、先遣の合図が来た。青符が短くひるがえり、接触なし・進入可。

 合同隊は幅を保ったまま、ゆっくり森へと入る。


 空気の層が、一枚、厚くなる。

 音はある。だが、閉じる。

 弓の弦がわずかに鳴ると、その音が自分の耳のすぐ横で止まる。

 セラが矢を半引きにし、囁く。「矢が、音を引く」

「引かせるな。離すな」というミレイの声も、半歩先で止まった。


 谷地。

 倒木。

 黒い樹液。

 アストの示した焼印に、全員が目を凝らす。丸の中の枝と点。桜精院の封に似ている、似すぎている。だが、この森の誰が、いつ、何のために。


 ノアが倒木に掌をかざし、すぐに手を引いた。「生きてる。でも、触れさせてくれない。癒しを拒む感触です」

 タリスが杖頭で空を撫で、低く呟く。「拍が遅い。止まる前の拍だ」


「ドラン」アストが呼ぶ。

「いる」

「撤退線は三つ。いま来た道、丘の稜線沿い、そして——」

「水だな。下流に逃げる線。わかってる」


 ガルドは隊の最後尾で大盾を立て、静かに周囲を見ていた。

 彼は、見えない敵との間に冗談を挟まない。冗談は人に向けるものだ。見えないものには、沈黙が効く。


 その時だ。

 森の奥から、声がした。


 「……かえれ」


 誰かが、言葉を吐いたのではない。

 幹と枝、皮と皮の擦れが、言葉の形を作って空気に投げた。

 高さが揃いすぎている。左右から同じ高さ、同じ間合いで耳に刺さる。


 セラとミナが同時に弓を下ろす。

 ゼルが罠の杭を腰へ戻し、ガルドを見る。

 ガルドは頷いた。頷きだけで、殿の意思が隊に染みる。


 もう一度、声。


 「まもったのに」


 リナの胸が詰まる。兄の笑い声と、土間に落ちる雨の音が、瞬き一回分だけ重なって外れた。

 守った、のに。

 誰が、誰を、いつ。


 アストが低く言う。「撤退。記録を残せ。走るな。森の拍に足を合わせるな」


 笛が一度、浅く鳴った。四拍の、一拍目。

 列は粘土の上で滑らないよう、斜めに後ずさる。後ろを向かない。向けば、速度が崩れる。


 《赤糸団》が前方の空間を押さえ、《白灯組》が呼吸を読む。

 《風切り》が矢を番えたまま、放たない。

 ガルドは大盾を斜めに立て、見えない何かに角度で「ここまでだ」と伝える。


 谷地の縁まで下がったところで、拍が途切れた。

 風が戻る。

 虫が、少し遅れて思い出したように鳴き始める。


「……抜けたぞ」ドランが息を吐く。「全員いる」

「いい撤退だ」ガルドが短く言い、最後に一歩、遅れて土を踏んだ。殿の音は、隊の神経をほどく。



 街に戻るまでの道で、会話は必要な量だけあった。

 無理に黙らず、無理に喋らない。速度はいつも通りに保つ。


「今の声、誰に似てた?」ミナが問う。

「似てない。似せられてる」セラが答える。

「人の言葉を借りて、森が伝えてる?」

「借りてるのは形だけ」


 リュスが耳を押さえ、首を横に振る。「違う。借りてるのは間。人と同じ間合いで近づいてくる」


 ノアは掌を握ったり開いたりしていた。

「癒しが拒まれるなんて……傷じゃない。変質」

「治療じゃ届かないなら、製法だ」タリスが呟く。「ユーマに膜のサンプルを渡そう」


 リナは短槍を肩に置き、肩の上で節のざらつきを確かめる。

 怖い。でも、節はここにある。

 兄が持って行ったのも、こういう節の感触だ。

 道は敷ける。怖さは、段取りの数に置き換えられる。



 城壁が見える。

 水路の舟が、底を一度だけ軽く叩く。

 対岸の笛が、四拍の二拍目を返す。

 集まれの合図。街は、隊を迎える手順を忘れていない。


 広場に入ると、ユーマが待っていた。ブランカとエシルも並び、掲示板には新しい紙が三枚、綺麗に揃えて貼られている。


「報告を」ユーマ。

 アストが簡潔に、ミレイが補足し、ドランが現場の癖を言葉に変え、ノアが手の感覚を述べ、リュスが音の穴の位置を指で描き、セラとミナが矢の鳴りを言葉にし、ゼルが罠の効かなさを短く言った。

 ガルドは最後に、「見えねぇ敵ほど怖い。だから殴らないで戻ってきた」と締める。


 ユーマは台帳に、水/音/境の欄を増やした。

「水は膜。音は閉じ。境は印。三つとも『止まる前』の挙動に見える。街は動き続ける。いつもの速度で。……市場は開け。灯は増やしすぎるな」


 ブランカが顎で鍛冶場を指す。「盾の革紐、半寸ずらす所が増える。隊、順番に回せ。油は薄塗り、忘れるな」


 エシルが小さな祈りの器を掲げる。「香を薄く。終わりを与える儀式を続けます。恐れを否定しない。終われるようにする」


 掲示板にもう一枚、紙が増えた。


《第壱警戒・運用》

・笛は四拍。——一待機/二集合/三離脱/四撤退。

・井戸の膜は触れない。採取は網で。

・橋の下で止まらない。舟は流しっぱなし。

・夜間の灯は高低差を作る。均一にしない。


 市警の詰所から少年が走り込み、ボードを掲げて声を張る。

「井戸二、膜の厚み二指。水は濁り薄。採取に成功——」


 街が動いている。

 恐怖は消えない。

 けれど、手順は増えた。

 増えた手順が、道幅を少しだけ広げる。


 アストは深く息を吸い、吐いた。

 ガルドが大盾を立てかけ、にやりと笑う。


「いい顔になったな、団長。怒鳴らない指揮は、一番強ぇ」


「怒鳴る前に、線を引く」アストは答えた。「引いた線を街が踏み直す。……それが、守りだ」


 その時、広場の井戸の水面で、薄い皺が一筋、走った。

 風ではない。

 水路の舟が底をもう一度叩き、対岸の笛が四を返す。

 撤退の合図ではない。

 準備の合図だ。


 夜になる前に、もう一度集まる。

 森は動かない。だから、街が動く。


――制度と心を揃える夜――


 報告を終えたあとも、街はしばらく喋らなかった。

 喋らないというのは、静かという意味ではない。水路の舟は底を軽く叩き、対岸の笛は二拍を返し、パン窯は火を落とす音を小さく繰り返している。いつもの音ばかりだ。けれど、人はその「いつも」を確かめるように耳を澄まし、余計な会話をはさまなかった。


 冒険者たちはそれぞれの宿に戻った。

 《赤糸団》は道具の手入れをしながら、矢柄の節を爪でなぞり、《白灯組》はノアが指先の温度を確かめるように掌を開閉し、《風切り》の双子は弓弦を一本ずつ張り替え、ゼルは罠の麻縄を巻き直す。彼らは互いに冗談を言えたが、笑いが大きくならないところで止めた。大きな笑いは、夜にとって眩しすぎる。


 アストは詰所で地図を前に座った。線はすでに引いてある。巡回の順、笛の四拍、舟の速度、橋の下の禁止。足す線はもう多くない。あとは、人の動きを線に合わせるだけだ。

 ミレイは窓を開け、外の灯の高さを目で拾って閉めた。「高さ、揃いすぎないように」

 「わかってる」アストは短く返す。揃いすぎた灯は、影の形を一定にする。一定の影は、潜む者にとって道になる。


 ガルドは大盾を壁に立てかけ、革手袋を外した。指の根元に古い傷がある。彼はその傷の端を親指で押し、確かめるみたいに痛みを呼び出してから、灯を弱くした。「寝ろ」と言う代わりに、部下の背を軽く叩いて回った。


 ユーマは桜精院の奥で台帳を開き、ブランカは鍛冶場の火床を燻らせ、エシルは祠の香を薄くして、四拍の祈りを短く結ぶ。誰も「怖くない」とは言わない。怖さは作業の順に落としておく。夜はそうやって越える。



 深夜、最初の異常は小さかった。

 水路の舟が底を軽く叩く音が、一度だけ遅れた。遅れるはずのない拍が、半拍分ずれ、すぐに戻った。夜番の舟子は合図を流し、対岸の笛が二拍を短く返す。次の舟は遅れない。だが、橋の腹の石がわずかに湿り、井戸の手摺に細い膜が張る。指を近づけると、空気が冷たく締まる感触があった。


 市警の小旗が三度、低く振られる。

 詰所の鐘が一度だけ鳴り、次いで鳴らない。鳴らさない。浮き足立つ合図ではなく、集まれの印だ。


 アストとミレイが最初に井戸へ入った。蓋を半分だけ外す。水面には、昼間の採取で見た膜と似たものが、薄く文字の形に寄っては離れ、寄ってはほどける。文字といっても、読める文字ではない。丸と枝と点。

 ブランカが金具を持って駆けつけ、採取網を水に触れさせず掬う。「触れるな。水は守る。膜だけを取る」

 ミレイは笛を一度息だけ入れて止めた。四拍の一拍目。合図が街の巡回に渡る。


 もう一ヶ所、井戸。もう一ヶ所、水路の屈曲部。

 採取班が駆け、記録班が板に描く。描かれた形は、やはり桜精院の封に似ている。

 「似せてるのか、似てしまうのか」アストが呟く。

 エシルが水面に手をかざし、祈りの言葉を短く落とす。「終わりを与える祈りです。流れに蓋をしない。終わらせ、次へ渡す」

 ユーマは台帳に「膜/音/印」の欄を増やし、採取時刻と厚さを記す。「厚さは薄い。けれど、街に届いた」


 その時、川底の石が一度だけ、逆に転がった。

 わずかな逆流。

 ガルドは走った。詰所から水路までの距離を、彼は歩幅で覚えている。

 「止めないぞ!」彼の声は大きいが、必要な分だけ大きい。「舟、流しっぱなし! 橋の下で止まるな!」

 舟子が頷き、櫂は決して止まらない。水は流れているという事実そのものが、街の呼吸になる。



 臨時会議は、夜半を少し超えて始まった。

 桜精院の大講堂。椅子は輪に。緊急の席でも、輪は崩さない。崩した座り方は、議論を先に荒らす。


 ユーマが最初に口を開く。

 「森の沈黙は、街へ形で届き始めています。水の膜、逆流、印の“逆描き”。こちらの印とよく似ているが、同じではない。封印の反転の可能性がある」

 ブランカが机に金具を置き、素材の唸りを静かに示す。「油は薄塗りで正解。べたつきが増えると、膜が噛む」

 ノアが手を挙げる。「癒しの術をかけると、呼び出される感じがします。こちらの力が“向こうへ”引かれる」

 タリスが補う。「こちらが近づくほど、あちらは“こちらの形”を真似る。印も、呼吸も」


 《赤糸団》のドランが腕を組んだ。「閉じるか、開くかで迷う場面だ。俺の経験では、全部閉じると何も見えなくなる。だが開きすぎれば、中まで持っていかれる」

 《風切り》のセラが言う。「境界に目を増やすのは必須。その上で、目の高さをずらす。あの声は左右から同じ高さで来た」

 ミレイが頷く。「灯を揃えすぎないのはすでに運用中。今夜は観測塔を仮設する。丘の稜線に二基、水路の曲がり角に一基。夜明けまでに」

 ネス(市警隊長)が手短に。「市内はもめ事が増えかけてる。酒の勢いで“森のせい”にする輩も出る。市警に拘束の即日権限、今夜から運用する」


 議論はここでぶつかった。

 「門を閉じるべきだ」という声と、「生活を止めないで回すべきだ」という声。

 母親代表は震える声で言った。「門が閉まれば、子どもは怖がらないのでは?」

 商会のマリルは首を振る。「閉じれば、物が止まる。物が止まると、心が止まる。止まった心は、怖がらないのではなく、何も感じなくなる」


 ガルドは笑わなかった。

 「壁は要る。だが、壁だけじゃ生きられない。盾に変えろ。動く壁に。俺たちの巡回と、舟と、笛と、観測塔が“動く壁”だ」

 アストが立ち、輪を一度見渡した。「閉じない。閉じれば息が止まる。動けば拍が保たれる。街は閉じない。ただし、境界は増やす。目も増やす。手順も増やす」


 誰も拍手はしない。

 しかし、頷きは輪を一周した。

 ユーマが黒板へ項目を増やす。


夜間運用の再設計(第壱警戒・夜更)

・丘稜線に仮設観測塔二基/水路曲がり角に一基(夜明けまで)

・観測班:冒険者持ち回り+市測量局(記録は板+模写)

・舟は常時運行。橋下停止禁止。底打ち合図は一→異常、二→集合、四→撤退

・市警:拘束即日権限。罰金/共同労働刑は翌朝から執行

・灯は揃えない。高低差で影を散らす

・膜採取は網のみ。素手厳禁。乾燥後、重さ記録

・祈りは終わりの儀を維持(恐れを否定しない)


 書かれた字は整っている。整った字は、夜にとって良い。乱れた字は、手順を壊す。



 会議のあと、街はすぐに動いた。

 フォージベルの工房から観測塔の柱が運び出され、釘の入った箱が肩渡しで渡り、縄が地面に蛇のように伸び、若者たちが足で踏んでまっすぐにする。《風切り》の双子は塔の位置を指で示し、ゼルは地中の石の向きを見分ける。

 ブランカは「打つな。合わせろ」と短く言う。木と木は殴って繋ぐより、合わせて繋ぐ方が長持ちする。


 水路では舟子が交代を早め、合図の底打ちが規則正しく街を渡る。

 井戸の周りでは、子どもたちが親に抱かれて眠っている。眠りは深い。深い眠りは良い。朝に起きられる眠りは、街の力だ。


 《白灯組》のノアは、観測塔の根本で膝をついた。

 「癒しの衝動が、向こうから呼ばれる。……距離が縮むと、こっちの“良さ”が吸われるみたいで嫌だ」

 タリスが杖に顎を載せる。「嫌悪は大事だ。避けるべき方向を教える。術を出すな。記録だけ」

 リュスは耳を動かし、風の筋を追った。「森の間が、街の間に入り込もうとしてる。音の間合いが似てきてる」

 ノアは頷いた。「だから終わりの祈りを続ける。終わりがあるって、身体に思い出させる」


 《赤糸団》は塔の立つ丘を一周して、退路の草を踏みならす。「帰り道は太くしておく」とドラン。「太くしすぎると、向こうも使う」とオルド。「なら、人だけがわかる目印にする」とカム。草の中に石を三つ、三角に並べる。遠目には気づかない。だが、昼に通った者の足だけが、角度を思い出せる。


 桜盾隊は巡回の幅を広げ、ミレイが笛で二拍、三拍を使い分ける。

 アストは遠くまで見ようとせず、近くの足と肩と呼吸だけを見た。近くの整いが遠くを守る。遠くばかり見る指揮は、近くを穴だらけにする。



 夜半も過ぎ、空がわずかに白む手前。

 観測塔のひとつで、ゼルが息を止めた。「見ろ」

 丘の向こう、森の端から白い息がひと筋、ゆっくりと吐き出された。もやのような、霧のような、夜明けの前にだけ見える吐息。

 セラとミナが弓を下ろし、その白に矢を向けないと決める。白は敵ではない。兆しだ。

 塔の下で聞いていたアストは、肩の力をわずかに抜いた。「呼吸が、ある」


 街では風鈴が一度だけ鳴った。

 エシルが祠で香を消し、終わりの祈りを結ぶ。

 ユーマは板書の最下段に日付を書き入れ、薄い笑みを浮かべる。「記録は、戻る道だ」


 ガルドは大盾を背に掛け、観測塔を見上げた。

 「人間の怖れは、壁にすれば固まる。盾にすれば、前に出られる。今夜は、前に出られた」


 ミレイが笛を四拍で短く鳴らし、最後の拍で止めた。

 「終わり。——朝だ」


 街が一斉に息を吐く。

 パン窯に火が入る音が増え、水路の舟はいつもの速度に落ち着き、掲示板の前に新しい紙が三枚、揃って貼られた。


《第壱警戒・朝運用》

・観測塔は昼も継続。記録は午前と午後に写し替え。

・市場は開ける。偽薬・偽香の巡回検査を常設。

・学童へ避難訓練の指導(四拍呼吸と集合場所)。

・市警は夜の拘束者を朝に労働割当。戻すための罰を続ける。


 アストは広場の真ん中で立ち止まり、白む空を見た。

 森は動かない。けれど、聴いている。昨夜の声は、命令ではなかった。報せだ。

 「守ったのに」

 森は、何かを。誰かを。いつかの形を。守って、それが止まったのだろう。


 「閉じずに、聴く」

 アストは小さく言い、列の先頭に歩み出た。

 彼の背で、旗が静かに揺れた。白地に桜枝、芯に小さな灯火。

 消えない火は、誰かの肩に偏らない。街全体で持つ。持てる重さに割って持つ。


 パンの香りが朝の通りに戻り、子どもが走る音が石畳に跳ねた。

 舟は底を軽く叩き、対岸の笛が二拍を返す。

 切れない音が、街の背骨をまっすぐにした。


 森はまだ、聴いている。

 だから街は、話すことをやめない。

 制度の言葉で。

 人の言葉で。

 そして、暮らしの音で。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る