第24話 小さな盾が前に出た日

 朝の湿りは残っていたが、訓練場の土はよく締まっていた。

 団長アストは号令を張らず、右手をわずかに上げるだけで列を動かす。新しく志願した若い者が多く、足の裏に力が溜まりすぎて歩幅が大きくなる。


「歩幅半分。かかとから着地しない。土の硬さを確かめて、前ではなく斜めへ」


 声は低く、繰り返さない。

 二列が土の上を滑るように進む。木製の盾は胸より少し上、短槍は肩から前へ。穂先は互いの肩の外をかすめる角度。足音は抑えるが、完全な無音にはしない。無音は、恐怖に飲まれた時に崩れる。崩れた時の足取りを、最初から身体に覚え込ませる。


「前列、そのまま。後列、半歩遅れて追い越す。交差で肩をぶつけない」


 わずかに、木の擦れる乾いた音。

 アストは列の後ろを歩き、肩甲骨の位置、視線の高さ、握りの硬さを指で示して直す。声で叱れば固まる。固まった体は縦に倒れる。縦に倒れた体は、救う手が入らない。


「お前は首が浮いてる。顎を引け。……そうだ」


 柵の外では子どもたちが背伸びして見ていた。パン職人ベレッタの娘――リナが、小石で小さな道を並べ直している。彼女の視線は、人の喉より少し上、空白になりやすい高さを見ていた。


「槍、いったん置け。——今度は盾だけ。左足を半歩前。腕で止めるな、体の向きでいなす」


 副団長ミレイが笛を四拍で短く鳴らす。

 教練のガルドが木棒で軽く小突く。真正面ではなく、わずかにずらして叩く。受け止めるのではなく、肩を少し開いて流す。若者の一人が腕で受け止め、体が後ろへ弾かれた。


「腕で止めるな。肩を半枚だけ開け」

 アストがすぐ横に入り、同じ角度で木棒を押し出す。青年は今度、肩をわずかに開いた。棒は盾の縁を滑り、脇の外へ抜ける。

「できる。繰り返せ」


 リナは列の端で、短槍を握りしめるだけでまだ前へ出られていなかった。指が白くなる。息が浅い。アストは近づき、穂先を二寸下げてやる。


「狙うな。届かせろ」

 リナはかすかに頷き、握りを直した。


 訓練場の脇ではユーマが台帳板に細かく書き込んでいる。新兵の名、年齢、得意な作業、夜勤の可否。暮らしを壊して戦うのではなく、暮らしの中に守りを差し込む——その考え方が、もう街の骨になっていた。


 そこへ、斥候の笛が遠くで二度、短く鳴った。

 アストは空気の温度が半段落ちるのを感じる。西丘、外縁三。合図の意味は身体に入っている。


「訓練、ここまで。装備、急いで詰所へ」


 槍を並べ、革紐を締める音が一斉に始まった。ブランカが走り込み、束ねた短槍を渡す。穂は片翼をわずかに立てた新型。跳躍への横薙ぎが通る角度に調整されている。


「柄は前より一尺短い。振り上げるな。払え」

「了解」


 ミレイが巡回図を胸で折り、最短路を示した。「西丘に一班、橋の上は閉鎖、舟は浅瀬側へ退避。市警は市場を切り離す。合図は四拍の長短、いつも通り」


 ユーマが短く言う。「避難は家ごと。子どもは井戸場、老人は祠。鐘は鳴らさない、笛で通す」


 言葉が少ないのは、決めるべきことがすでに決まっているからだ。

 アストは頷き、走り出す列の後ろについた。



 西丘の手前で、風の向きが変わった。

 森は、静かすぎる静けさを用意する。小鳥の声が薄い。枝の軋みが、どこかで一つだけ遅れている。


 斥候が低く告げた。「高い枝に節。踏み台、いくつも。……昨夜、節はなかった」


 測っている。向こうもこちらを。

 アストは列を止めず、速さだけ半歩落とした。


「列、二列のまま。穂先は肩の外。前は止まらない。——合図」

 ミレイの笛が、四拍の後に短く跳ねる。舟が橋下で水面を軽く叩き、対岸の笛が返した。街の呼吸が、森の縁まで伸びてくる。


 最初の影は、風に紛れず落ちてきた。

 黒褐色の毛、長い手足。人の声に似た短い叫び。昨日までの群れより二回り大きい。人食い猿だが、跳躍の高さが違う。喉の上、顎を抜く角度に入る。


 前列の若者が、反射で穂先を上げかける。

 叩き落とされれば列が割れる——その半拍の手前で、アストが叫んだ。


「払え。振り上げるな!」


 穂が横に走る。片翼を立てた穂先が跳躍の腹を擦り、猿の体が弾かれて地に落ちた。後列の若者が短く悲鳴を飲む。

 すぐに二つ目が樹から飛び出し、別の一体が逆側へ肩を狙ってくる。高低差をずらし、影の数で目を散らす、いやらしいやり方だ。


 列は一瞬、波打った。

 そのとき、前列の左端——リナが、足を止めず一歩出た。


 声は、裂けるように強かった。


「——兄の場所は、空けない!!」


 短槍が低い弧を描く。

 狙いは当てることではない。届かせること。

 跳躍の膝を払う角度で、穂先が毛を剃った。猿の体軸が崩れ、前列の青年の肩を掠めるだけで落ちる。青年は踏み止まる。下がらず、半歩斜めへずれて列を詰めた。

 リナの槍が震える。彼女自身の腕も震えている。だが、その震えは後ろへは退かない震えだ。


「列、詰め直し!」

 ミレイの声が入る。

 ガルドが前へ出て、落ちた個体の首筋を柄で打ち、動きを止める。

 アストは斥候に顎で合図し、左右の枝の節を狙って衝撃石を放たせた。乾いた破裂音が二度。細い煙が枝に絡み、樹上の影が位置を変える。


 上から来る。今度は三。

 喉の高さ——あの空白を正確に。

 アストの舌打ちが小さく落ちる前に、リナがもう一歩、前へ。

 彼女はうまくない。穂先は少し浮く。もしも一瞬の遅れがあれば、肩から胸へ深く入る——そこへ、後列の青年が彼女の背の右へ半歩ずれ、斜めの角度を補った。

 短槍が二つで一つの線になり、三つめの影の足首を撫でる。跳躍が潰れ、影は列の手前で転ぶ。

 そこをガルドが踏み、柄で喉元を押しつぶした。息の切れる音が短く、湿って地に落ちる。


「前へ出すぎるな、半歩だけだ!」

 アストの声は低く鋭い。

 リナは肩で息をしながら、足の位置を直した。視線は喉より少し上——兄が倒れた高さを、彼女は外さない。


 森がざわめく。

 群れは完全な退きではない。測りながら迂回する匂い。

 アストは列の角を矯め、全体の呼吸を落とした。


「追うな。……舟は浅瀬へ。橋の腹で止まるな。市警、丘下の子どもを祠へ寄せろ」


 合図が走る。

 斥候が枝打ちに移り、節を二つ落とす。

 落としすぎない。森は生きている。生きていなければ、こちらも隠れる術を失う。


 影はなおも樹上を移動し続けたが、跳ばない。

 こちらが跳ばせなかった。

 列は、崩れなかった。



 短い戦いの後、土の上には、黒い毛と浅い爪跡が残った。

 血は多くない。だが、汗の匂いは濃い。

 アストは列の前に立たず、後ろから歩いた。

 誰の肩も、さっきより低く落ちている。いい。肩が落ちている時、呼吸は体幹へ戻る。


 ミレイが笛を四拍で鳴らす。

 エシルが丘の祠から駆けてきて、静かな声で告げた。「祈りは短く。息を整えるためのものに」


 アストは、リナの前で止まった。

 リナは短槍を両手で握りしめたまま、視線を上げようとしない。

 穂先がまだ震えている。


「前に、出たな」

 リナは唇を噛み、うなずいた。

「怖かった」

「怖いのは良い」

 アストは穂先を指で二寸、下げた。

「次は、その怖さを置く場所を、さっきより半寸だけ後ろにする。置けるようになったら、お前はもっと前に出なくて済む」


 リナの肩が、ようやく少し下がった。

 泣く場所ではない。泣かなくていい。泣かないでいい。

 彼女の叫びは、悲鳴ではなかった。決断だった。

 列がそれを受け取り、列がそれを返した。

 それが街の強さだ。



 市内では、市警が市場裏の小屋に酔客を押し込み、紐を結んでいた。「一晩明ければ働く」の札が、風に揺れる。

 ブランカは鍛冶場に走り戻り、短槍の柄の削りを改める。「手が汗で滑った時、握り直せる節がいる。ここに浅い刻みを」


 ユーマは広場の掲示板に二枚、紙を足した。

 一枚は「本日の巡回・斥候路」。

 もう一枚は「道を空けないための心得」。

 難しい言葉はない。

 「笛が聞こえたら止まる」「出入口を開ける」「走らない」。

 そして、一行だけ、手書きで添えた。


 帰る道は、みんなで太らせる。



 夕暮れ、詰所の前。

 アストは列を解き、最後に一つだけ言った。


「今日、我々は勝ったのではない。——道を折らなかった」

「明日も折らない。折れそうなら、半歩ずつ詰める。半歩ずつでいい。半歩ずつで、帰る」


 誰も歓声を上げない。

 代わりに、握り直した短槍が一斉にわずかな乾いた音を立てた。

 暮らしの音だ。戦の音ではない。


 リナは短槍を返却し損ね、少し抱きしめてから、慌てて差し出した。

 ブランカが受け取り、無言で頷く。

 その頷きは「よかった」でも「危なかった」でもない。

 「居ていい」 という合図だ。


 夜。

 水路の舟は相変わらず底を軽く叩き、対岸の笛が短く返す。

 切れない音。切れない道。

 旗が風にわずかに揺れ、小さな灯火の絵が布の奥で震える。


 アストは屋根に上がり、街を見た。

 灯は多すぎず、少なすぎない。

 西の丘の影は、今夜は跳ばないだろう。

 跳ばせなかったのは——誰か一人の力ではなく、列の半歩だった。


 彼は胸の奥で、そっと言った。


「よくやった、リナ。……よくやった、みんな」


 声は夜に溶け、木の葉の隙間を抜け、水面の筋に沿って遠くへ運ばれていった。

 帰る道は、また少し太くなった。


 翌朝の光は、灰の上に薄く降りていた。

 夜に消えた灯の跡を、朝の風が一つひとつ拾っていく。

 街は、静かに息を吸っていた。焦げた匂いはない。ただ、湿った土のにおいが胸に残っている。


 リナは桜精院の裏庭で、布の切れ端を洗っていた。

 槍の柄についた血が乾きかけ、洗っても色は完全には落ちなかった。

 それでも、落とす。落とし続けることが大事だと、アストが言っていた。

 「汚れを残すな、思い出にするな」と。

 彼はきっと、死者を“聖域”にしないためにそう言ったのだろう。


 背後で子どもの声がした。

 パン屋の裏手で、昨日と同じように小石の道が並べ直されている。

 「こっちが曲がってる」「まっすぐにしよう」「帰る道だから」

 その声を聞くだけで、喉の奥が熱くなった。

 兄テオも、きっとこうして子どもたちに道を作らせていた。

 彼は決して「強い人」ではなかった。怖がりで、慎重で、でも一番最初に人を庇った。

 だから、あの夜、彼の場所を誰も空けようとはしなかった。


 ミレイが井戸から水を汲み上げて、声を掛ける。

「少し休め。顔色が、まだ夜を引きずってる」

 リナは笑ってみせた。「眠れなかっただけです」

「眠れない時は、誰かと話せ。怖さは、言葉を持つと少し軽くなる」

 その言葉に頷きながらも、リナは目を伏せた。

 怖さを軽くするために、兄の声を思い出すことがまだできない。

 彼の声を思い出すと、呼吸が揺れる。

 でも、いずれ思い出せる日が来るだろう。

 その日まで、槍を磨く。


 広場ではユーマが板に新しい文字を刻んでいた。

 「桜盾隊:西丘詰所完成予定 三日」

 「市警:市場南門巡回 子ども同行可」

 その横には、ブランカが貼った薄紙があった。

 『盾・槍 修理依頼 —手を貸せる者、午前十時より—』

 あらゆる仕事が、昨日よりも早く再開していた。

 それは戦勝の賑わいではない。

 ただ、「今日を積む」ための動きだった。

 街は戦わないために戦い、戦っても壊さないために働く。

 その姿を見ながら、リナは胸の内で何度も繰り返した。

 ——兄の場所は、空けない。


 祠の鐘が短く鳴った。

 エシルの祈祷が始まる。声は低く、歌ではない。

 「恐れを恐れぬように」「歩幅を思い出すように」

 そのたびに人々が頭を下げ、子どもが母の手を握る。

 誰も泣かない。泣かないまま、祈る。

 祈りは、泣くよりも静かに強い。


 昼前、丘の上の墓地に登った。

 新しい杭が三本立っている。

 まだ名前は刻まれていない。

 アストは「書くのは早い」と言った。

 書いてしまうと、“もう終わった”と思ってしまうから。

 だから、当分のあいだは空白のままにしておく。


 リナはその前に膝をつき、短槍の穂先をそっと土に立てた。

 刃は光を受けて淡く揺れる。

 彼女は掌で柄を包み、唇を近づけるようにして、誰にも聞こえない声で呟いた。


「兄さん、昨日ね……みんな、ちゃんと立ってた。

 誰も下がらなかったよ。

 怖かったけど、あたし、逃げなかった。

 だから——たぶん、少しは届いたと思う」


 風が、丘の端から吹き上がる。

 その風の中に、パンの焼ける匂いが混ざっていた。

 ベレッタがもう炉を開けたのだ。

 街は回っている。日常が戻ることが、どんな言葉より強い祈りになる。

 リナは頬を上げ、空を見た。

 光が槍の刃を通して揺れ、地面に細い線を引く。

 その線が、道に繋がっている気がした。


 やがて足音が近づき、アストが立っていた。

「ここにいたか」

「はい」

「穂先を立てるな。風で倒れる。……寝かせておけ」

 リナは少し考えてから、頷いた。

 槍を横にして土に置き、両手を膝に置いた。

「団長」

「ん?」

「兄さんみたいに、守れる人になれますかね」

「守るってのはな、誰かの後ろに立つことじゃない。

 誰かと並んで立つことだ」

 アストの声は、風と同じ温度で落ちた。

「だから、お前はもうなれてる。昨日、前に出ただろう」

 リナは息を詰めて、ゆっくりと笑った。

「……はい」


 風が再び丘を渡る。

 旗の白布がはためき、桜の花弁の印が陽を受けて淡く光った。

 リナはその光を見つめながら、心の中で言葉を一つ結んだ。


 “帰る道は、今日もまっすぐでありますように。”


 その祈りは声にならず、ただ呼吸として空へ溶けていった。

 胸の奥で、昨夜の鼓動がまだ残っている。

 あの拍は恐怖ではなかった。

 生きている証だった。


 リナは静かに立ち上がり、丘を下りた。

 背後では短槍の穂が朝光を受けて細く光り、

 まるで街を見守る灯のように揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る