第14話 街になる日――鐘はゆっくりと鳴る

 朝いちばんの潮は、塩だけじゃなくて麦の匂いがまじる。ミルクグラスの粉屋が早起きした日は、港から吹く風がすこし甘くなる。広場に白布をかけた長机が五つ。中央が議長机、左右に四区の代表席。黒板は二面。片面は市名と区名、もう片面は税の袋を書き分けるため。帳簿局の若い子が緊張で白墨を落とし、拾いかけて指をぶつけたので、僕は軽くうなずいて合図した。「急がない。大丈夫」。それだけで顔のこわばりがほどける。


「――始めます」


 白墨が板に触れ、乾いた音を立てた。僕は一行だけ、大きく書く。


サクラリーヴ市(旧・アルメリア中央区を含む)


 拍手は起きなかった。けれど呼吸がそろう音がした。港の荷運びが太い腕を上げる。「いい名だ。帰り道で胸のなかで呼べる」。粉屋の女将が笑って、「看板に収まりがいいよ」と言う。子どもが「さくらのまち!」と叫び、屋根の上で妖精が金粉みたいな光をふわりと散らした。いい。空気が柔らかい。


「旧い呼び名は残します。帰る場所の名前は消さない。新しい名は、皆で呼べる名に。――異論は?」


 挙手はなかった。僕は続けて、区の名前を四つ、丁寧に書く。

• リーフガーデン区(薬草庭園と妖精の住処)

• フォージベル区(鍛冶炉の鐘が鳴る工房街)

• ミルクグラス区(牧草地、畑、パンの香りの暮らし)

• スプリングライト区(小川と祈りの光が差す静かな区)


 通りの名も確かめる。

• 北:ハーブリーフ通り

• 西:ファイアフォージ通り

• 南:グレインフィールド街道

• 東:クリアスプリングみち


「幅は“人の幅”。荷車一台、人が二人、すれ違える余白。迷ったら広げない。広げるのは息です」


 笑いがさざ波のように流れた。黒板を裏返す。今日いちばん大事な板面だ。僕は六つの袋を描く。袋の口を結ぶ紐まで書くのは、子どもにも「見える」ようにするため。

• 道整備税……三割(道・橋の新設と修繕)

• 衛生水環税……二割(井戸・上水・下水・街灯)

• 市場環境税……一割五分(露店許可・広場・倉庫配置)

• 治安維持税……一割五分(巡回・夜警・紛争調停)

• 教育文化税……一割(学校・読み書き・司書・祭り)

• 緊急備蓄基金……一割(災害・疫病・冬の備え)


「税は、誰かが取るためではなく、みんなで使い方を決める袋です。いま説明した六袋に入った銭は、《会計台帳》でいつでも見られる。嘘はつきません。――それから、これ」


 羊皮紙を掲げる。淡い緑の小さな注釈が呼吸みたいに点滅していた。


『本日:働きすぎの気配なし』


「無理な働き方を始めると赤い注釈が出ます。だから僕は、人を急がせない。数字がそう言うから」


 フォージベルのグレンが、石のような指で顎鬚を撫でた。「石積みと同じだ。急いだ橋は落ちる」。スプリングライトの祈り手セラが「水もです。急げば濁る」と続ける。速さの合った二つの声は、僕の胸の奥でひとつになった。街は、速さをそろえると強くなる。


「では、議会を設けます。高い席は作らない。全員、同じ高さ。僕は市長になりますが、王ではない。多数決の前に専門の声を聞く。専門で割れたら多数決。わからなければ保留。――今日決めなくていいことは、決めない」


 木札が配られる。代表が座につく。

• リーフガーデン区代表:リト(妖精、調整役)

• フォージベル区代表:グレン(ドワーフ、工匠)

• ミルクグラス区代表:マリナ(人間、食の母)

• スプリングライト区代表:セラ(ドライアド、水と環境)

• 中央(商業)代表:リシア(人間、ギルド担当官)


 僕は議長札を横向きに置いた。肩で息をしていた数人の胸がふっと下がる。焦らない会議は、人を守る。僕は身をもって知っている。


     ◇


 議題一、道。


 広場に手描きの地図を広げる。サクラリーヴの中心から四方に伸びる線は、まだ頼りない。けれど人の流れは先にできる。線はすぐに太る。


「グレインフィールド街道を優先で」


 リシアが小さな印を置く。「穀物と乳が毎日動く通り。馬車が休める丘を道とセットで作りたい」


「丘?」と僕。


「はい。日陰と風が抜ける場所。息を整えるための地形を」


 最初から休む場所を設計に入れる。会計の世界では嫌われた言葉だが、暮らしの世界では真ん中に来る。僕はうなずき、《会計台帳》に道整備税の袋から第一便の砂利と材木を落とす注釈をつけた。


「ファイアフォージ通りは、地の骨からだ」


 グレンが西側の路線を指で叩く。「重い鉱石と炉材が動く。路盤が弱いと、車輪が沈む。地面からやる」


「了解。砂利の粒径は?」


「雨の逃げを考えて二段だ。粗と細で層を作る」


 僕は細目の羽根ペンで追記する。やりとりは短く、要点が太い。


「クリアスプリングみちは、浄化草を」


 セラが東の線を枝で撫でる。「上流が生きれば、全部が生きます。井戸も泉も、同じ根でつながっています」


「衛生水環税の袋から優先配分します。井戸の深さは?」


「子どもの腕が届かない深さに。落ちないように縁を高く」


 リトが空から舞い降り、北の線に光をひとつ落とした。「ハーブリーフ通りには妖精灯を十歩おき。夜道が怖くない街は、子どもが住める街なの」


 僕は笑った。「理屈として完璧だ」


 議題がひと巡りしたところで、鍋のふたを叩く音が遠くで鳴った。午の合図。僕は空を見上げる。光はやわらかい。そこで、白い蛍光灯が脳裏をかすめた。心臓が机の上で暴れた夜。終電を逃し、コピー機の熱だけが暖かかった明け方。誰も「止まっていい」と言ってはくれなかった。

 ここでは違う。止まることが街を長生きさせる。僕は唇の内側に小さく言った。「もう急がない」。


     ◇


 午後の議題、セントラル時計塔。


 模型を広げる。森の精霊樹の幹に銀鉄(ぎんてつ)の輪。透明鉱石の文字盤。屋根には水精灯。僕は塔の心臓に置くものを説明した。


「この鐘は時刻のためじゃない。呼吸のために鳴る。働きすぎの気配が強ければ、ひとつ遅く。街全体が重くなったら、少し早く。急かすためじゃない。休むタイミングを街が覚えるため」


 風が通って、紙の角が鳴った。グレンがぽつり。「そういう鐘は、長く使える」。セラが静かに合掌する。「精霊共鳴を入れましょう。焦る息が、すこしだけゆっくりになります」。リトは屋根にちょこんと座って、「鐘の音に合わせて妖精灯の明滅を連動できるよ」と楽しそうに言う。

 僕は胸の奥で「ありがとう」とつぶやき、《時紡ぎ》の術式を要に結ぶ。時間が人を追い立てるのではなく、人が時間を連れて歩けるように。二度と、時間に殺させないように。


     ◇


 議会が散り、人々は暮らしの速度で動き出した。急がず、怠けず、呼吸の幅の歩幅で。僕は東へ、スプリングライト区へ向かう。土の道は柔らかく、草の匂いが足首から上がってくる。泉の縁で、セラが根を撫でていた。


「無理してない?」と僕。


「無理は土が教えます。今日は、とても良い日です」


 セラは目を閉じた。水面の光粒は、灯りではなく水の呼吸。僕は膝を折り、指先で水をすくう。冷たさが皮膚を締め、心臓のリズムが静かに合う。


「ここは、水の精霊たちの寄り道です。流れながら休む場所」


「人間みたいだ」と僕は言った。


「ええ。人も水も、急げば濁り、止まりすぎれば腐る。流れながら休むのがいちばん良い」


 セラは目を開け、透明な瞳でまっすぐ僕を見た。「あなたは森の時間を許しました。焦らせず、放置せず。守られる自然ではなく、共に暮らす自然に。だから――」


 彼女は胸に手を重ねた。


「わたしたちは、この街に根を張ります。生きるためではなく、住みたいから住みます。」


 それは誓いではなく選択だった。木々がざわめき、葉脈がひとつずつ光を返す。水の精霊が小さな舟になって空へ昇る。胸が熱い。生きているという熱。


「ありがとう。無理に引き止めるつもりはなかった」


「引き止められて来る街は、すぐ枯れます。いたいからいる。それが根です」


 うなずくしかなかった。


 帰りがけ、リーフガーデンの小屋でリトが待っていた。「ユーマ、ね、本契約していい?」。

「ここで暮らすってことだよ?」

「うん。もうとっくに暮らしてるよ」

「じゃあ――ようこそ。正式に」

 リトは宙で弾んで回り、「胸張って“うちの街”って言える!」と笑った。うちの街。いい響きだ。


 フォージベルでは、グレンが炉の前で短く頭を下げる。「路盤の層、うちの工房が責任持つ。街の足は手を抜かない」。

 ミルクグラスでは、マリナが焼きたてを包んでくれた。「今日は街になる日のパン。疲れ方が違うんだよ、ユーマ。苦しい疲れじゃなくて、未来の匂いがする疲れ」

 中央の臨時ギルド卓では、リシアが看板用の文言を試し書きしていた。「市場環境税の掲示、固くしすぎたくないの。『きれいな通りは、おいしいごはんに直結します』――どう?」

「最高。数字にも合う」


     ◇


 夕刻。広場に戻る。塔はまだない。けれど始まりの音は今日だと議会で決めた。仮設の小鐘を基礎石の脇に置く。誰が鳴らすか。視線は自然にひとりへ向かう。


「グレン、頼める?」


 ドワーフは一瞬だけ目を閉じ、小槌を取った。肩の力が入っていない。いい打ち手は、力を使わない。


 カラン。


 音が急がない。港へ、森へ、畑へ、祈りの庭へ。人の肩が落ち、笑いが自然に漏れる。僕は目を閉じかけ、白い蛍光灯を思い出して、そして、ここに戻る。

「――ここから始めよう。焦らず、競わず、止まらず。この街の速さは、みんなの息の速さで決まる」


 返ってきたのは拍手じゃない。深い呼吸だった。鍋のふたがどこかで鳴り、子どもが走り、妖精灯がひとつ点って、祈りの声が水に混ざる。争わず、混ざらず、同じ暮らしの中に並ぶ。


 解散のあと、僕は《会計台帳》を開いた。緑の注釈が、やさしく灯る。


『本日、無理なし』


 閉じて笑う。働く → 休む → 働く。この循環を街が守る。

 帰り道、ミルクグラスはパンの香り、フォージベルは火の支度、リーフガーデンは薬草の歌、スプリングライトは水の音。通りの名札には新しい字。子どもが指でなぞって覚えている。

 僕は胸の内で短く言った。ここで、生きていく。


 鐘が、もう一度だけ――


 カラン。


 その一音で、今日が一日の最後になる。街はゆっくり息をそろえ、明日の分の体力を残す。サクラリーヴは、暮らしの速さで大きくなる。


     ◇


 夜、帳簿局の灯を落とす前に、僕は税の袋をもう一度見た。道整備税の袋に砂利の発注。衛生水環税に井戸枠の木工費。市場環境税に露店の距離標の札代。治安維持税に夜警の笛。教育文化税に読み書き板。緊急備蓄基金に乾燥野菜の買い入れ。

 どれにも人の顔が浮かぶ。数字だけの世界にいた頃には見えなかった顔だ。台帳は静かに光り、赤は点らない。僕は灯を消す。闇がすぐ暗闇にならないのは、妖精灯が街路の角に十歩おきに灯っているからだ。リトが言った通り、夜に怖くない道は、子どもが住める街の証拠になる。


 部屋の戸を引くと、外からパンの端をちぎる音と、水を汲む音が重なって聞こえた。どれも急がない音だ。僕は靴を脱ぎ、床に座り込む。現代の終電が遠ざかっていく。あの光の下では、休むことが罪だった。ここでは、休むことが正義になる。

 目を閉じる。息を吸う。胸の痛みはない。

 街は、今日、生まれた。僕も、もう一度、生まれ直したのだと思う。


 明日からは、道の丘をひとつずつ作る。路盤の層をひとつずつ敷く。井戸の縁を高くし、掲示板の字を大きくする。急がない。止まらない。

 それで十分だ。


 ――おやすみ、サクラリーヴ。

 鐘は、夢のなかでも、ゆっくり鳴っている。


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