第3話 森と光の薬局 ― 多種族が働く丘の上 ―
夜のページは、静かに呼吸していた。
《会計台帳〈アカウンティングレッジャー〉》の文字は薄い青で、今日の売上や在庫、信頼の増減を穏やかに記している。数字は右肩に伸びていて、それは嬉しいはずなのに、頁の隅にだけ赤い小さな注釈が灯っていた。――労働過多。
ランプの火を指で少し絞ると、ガラス越しの炎が揺れて、薬草を刻んだまな板の香りがやわらかく立ち上がった。
「……嬉しい悲鳴って、本当に悲鳴だな」
独り言が木壁に吸い込まれる。
けれど次の瞬間、外で細い枝が鳴った。戸口の隙間から夜風が一筋入り、草木の匂いを連れてくる。灰の落ちる音がして、釜の奥に沈めておいた炭の赤がひとつ、控えめに灯った。
「眠っているなら、朝に来るつもりだったけれど」
樹皮の髪に月光をこぼす影が、戸口から静かに入ってくる。ドライアドだ。
背中のあたりに、若い木の芽がいくつも芽吹いていて、歩くたびに小さく鈴のような音がする。
「あなたの丘、よく働いている匂いがしたから」
「……こんばんは。うちは、いつでも開いてます」
仄暗い工房の奥で桶の水面が波打つ。水の上にうっすらと人影が坐り、白い足先を揺らす。
「あなたの湯加減は、静かで好き」
水の精霊が笑った。
窓辺で薄い羽音が二つ。小妖精のリトとフィアが頬をぴかぴかにして顔を出す。
「ユーマ、きょうの甘いの、まだ残ってる?」
「作り置きが少しだけ。働いた分だけね」
どこかで乾いた咳のような音がして、釜の灰の奥に橙がふっと揺れる。炎の精霊が眉をひそめた。
「夜中に火を起こすな。……いや、お前の鍋は燃やしがいがある」
笑ってしまう。
窓の外では、風の精霊が屋根をなでる気配がして、空気がひと撫でされるように澄んでいった。
「手伝ってくれるのか」
問いかけると、ドライアドは木の指で棚を撫でた。
「この棚の木目、よく眠ってる。あなた、木にも休みをやっているのね」
「道具の機嫌がいいと、仕事が続くから」
「そう。だから手伝うわ。森は、よく続くものの味方なの」
《会計台帳》の余白が、ひと呼吸するみたいにふわりとめくれた。
新しい欄が現れる。――従事:妖精/精霊/ドライアド。
数字はない。ただ、名前の横に小さな青い点が灯るだけ。ありがとう、という意味にしか見えなかった。
「じゃあ、明日は人手の要る仕事をやろう」
ランプを落とす。
丘の上では、ラベンダーが夜の温度で香りを深くしていた。
◇
朝の光は、瓶の胴に細い金を落とす。
《循環耕作〈サイクルファーミング〉》の提案どおりに夜露が逃げた畝はふっくらと膨らみ、土の精霊ミリルが指で押すと、ほろりとほどけた。
「今朝は南の列が甘い。花蜜が重いね」
「じゃあ、森香油から行こう」
炎の精霊ラカンが鼻で笑って、釜の下の薪を足先で軽く蹴る。緋の熱がじわりと育つ。
「火は任せろ。今日は昨日の二倍まで回せる」
風の精霊ノエルが縁側の柱にもたれ、乾燥棚を見張る。
「湿りはわたしの敵。風を通すよ」
水の精霊セリュは桶の上で足を組み、水面をひと撫で。
「抽出温度、今日は二度下げて。昨日より空気が乾いてるから」
「了解。フィア、ラベルは“使い方図”を昨日より大きく」
「任せて。洗う、薄く塗る、休む――丸三つで分かるようにする」
工房の空気が、仕事の声で満ちていく。
《錬精構式〈アルケミックフォーミュラ〉》が四枚同時に立ち上がり、釜の火、冷却、濾過、封蝋――工程が並列で動き出す。
扉が二度、静かに叩かれ、エルフの薬師リネアが入ってきた。灰緑の外套に、乾いた露の匂いがする。
「配合、昨日の四番で安定。森の樹液は月露軟膏に回したい」
「任せます。再生薬水、森香油、滋養薬液を今日は厚めに」
「了解。持ちをよくする糸、薄くかけるね」
彼女の指が空をさっと縫うと、瓶の中で淡い光がひと筋ずつ絡んだ。
妖精リトが瓶の口を持ち、「セリュ、冷たい“風”ちょうだい」
「風じゃなくて水ね」水の精霊が笑い、瓶の口縁をそっと冷ます。
ラカンは火の熱を指先で調律し、泡の大きさを目で測る。
ミリルは土間の湿り気を確かめ、乾燥棚の木板を撫でて微かなささくれを落とす。
ノエルは屋根を抜ける風の道を整え、乾きすぎないように空気の角を丸めていく。
午前の終わり、棚の一段がすでに満ちていた。
再生薬水〈リジェネポーション〉改良版――小切創・擦過傷。香りは恐怖を和らげる。
滋養薬液〈エナジードラフト〉――重労働の前後、小匙一杯。
森香油〈シルフアロマ〉――肩と足腰に。
月露軟膏〈ルナバーム〉――日焼け、火傷のあと。
森息茶〈フォレストティー〉――眠りと集中に。
子ども用蜜薬〈スイートシロップ〉――咳と喉。
棚札はどれも同じ筆致で、値は昨日と変わらない。顔だけが変わる。値は変えない。
昼前、仕立屋の老夫婦が杖をついてやってくる。
「指の割れ、あの軟膏で楽になったよ。今度は“肩”がね」
「森香油を少し。温める前に一滴、寝る前にもう一滴」
老夫婦は笑って小瓶を受け取り、ラベルの図を何度も見返した。
漁具屋の若夫婦は滋養薬液を二本。「沖は風が強くて。重くないのがいい」
子どもを抱いた若い母親は、子ども用蜜薬と森息茶を一緒に買っていく。
《会計台帳》の頁は数字を並べるが、目の前の空気は数字より速く温まっていく。ありがとうの声が、薪の火よりじんわり長く続く。
港から旅商隊の馬車が砂塵を上げて丘を登ってくる。
青波団の隊長は帽子を取って笑った。
「噂の“香りの薬局”だな。瓶底の刻印……たしかに。偽物は光の返しが鈍いが、これは立つ」
「ありがとうございます。卸は箱単位で。濃度は変えません」
「値段は?」
「顔が変わらないなら、値も変わらない」
隊長は頷き、箱を三つ。
《市場掌握〈マルクトコントロール〉》が静かに広がり、青の線が隣村へ二筋伸びていく。見えない風の道に、確かな足音がのる。
午後、冒険者ギルドの若者たちが数人でやってくる。
「明日、森の外れの遺構に入る。携帯用、小さめ、ある?」
腰袋用の小瓶セット――再生、滋養、眠気よけの三本を差し出す。
「順番と量、ここに図で。慌てないこと。それがいちばん効く」
彼らは真面目に頷き、代金を置いた。ラカンがぼそりと「顔がいいな」と言い、リトが手を振る。
日が傾くたび、棚の隙間は広がって、代わりに工房の空気は軽くなる。売り切れることは怖くない。明日も同じ手順で作ればいい、という確信があるからだ。
◇
夕刻、灯を入れる。
《会計台帳》が新しいページをひらく。
――《本日サマリー(多種族稼働一日目)》
売上:村人 982/港・宿・診療所 1,130/青波団卸 1,650/冒険者・旅人 760
合計:銅貨 4,522
支出:瓶工房 76/原料 41/包装 32/雑費 11
純利益:銅貨 4,362
信頼:+18(村・港・商隊・冒険者)
在庫:再生薬水 28/滋養薬液 24/香油 15/軟膏 12/茶 21/蜜薬 9
状況:労働過多 → 解消/休息:確保
備考:模倣品の問い合わせ 2(真贋説明で解消)/刻印Ver.2 有効
数字を見終える前に、棚の陰で木の声が笑った。
「この棚の木目、今日もよく眠る。あなたの手順は、木にとってもやさしい」
ドライアドが棚を撫で、薄い葉を一枚そっと置く。ありがとうの印。
セリュが瓶の胴を指でひと撫でしていくと、ガラスの曇りがするすると抜けた。
ラカンは釜の火を完全に落とし、炭の赤をやわらかく閉じ込める。
ノエルが小屋の空気を一度だけ撫で、外の星の匂いをひと匙置いていった。
妖精たちは甘い瓶を胸に抱え、棚の上でころんと丸くなる。
リネアは帳場に紙束を置き、短く言う。「今日の配合、三番を明日の基準に。よく売れた」
「ありがとう。みんなのおかげだ」
《会計台帳》の最下段に、青い小印が灯る。――この働き方、適正。
◇
翌朝。
村の広場で小さな臨時市が開かれた。診療所の医師が短い挨拶をする。
「偽物に注意。表示を読むこと。困ったら診療所か、ここへ」
優馬は台の前で、再生薬水と滋養薬液の使い方を、子どもにも分かる言葉で話した。
「まず洗う。砂を残さない。薄く塗る。焦らない。――それがいちばん効く」
人々は頷き、質問は具体的だ。「子どもでも?」「妊婦は?」「夜勤明けに二杯は?」
レリアが図を示し、フィアが小さな印を押す。
説明は短く、顔はまっすぐ。列の動きは穏やかだ。
昼過ぎ、青波団の別の隊が丘に上がり、香油と茶の箱を追加する。
《市場掌握》の地図がさらに伸び、丘の外れの村名が二つ、青い点で灯る。
ノエルは荷車といっしょに丘を降り、帰りがけに笑った。
「向こうの村の子たち、瓶の刻印をお守りみたいにさすってたよ」
「そうか」
胸のどこかがゆっくり温かくなる。それを言葉にしないのが、ここでの暮らし方だ。
午後の終わりに近い頃、港の酒場から女将ルネが駆け足でやってきた。
「森香油、うちの常連に効いたよ。肩が軽いって。棚に十瓶、置きたい」
「ありがとう。補充は毎朝。濃度は変えません」
《会計台帳》が“委託棚(港酒場)”を登録し、補充サイクルの提案を出す。
診療所からは使い方の掲示板の依頼。冒険者ギルドの扉には、出発前に“サクラ印”を買えという貼紙。
気づけば、丘から村と港へ伸びる目に見えない線が太くなっている。
働く人の足音と、暮らす人の息が、そこに重なって流れていく。
◇
作業の合間、ドライアドのシルヴァが外の木立に腰を下ろして、風に髪を払った。
「森の花が増えた。あなたの仕事、森のほうへも流れてる」
「それは、よかった」
「ねぇ、ユーマ。あなたは数字を見ると、ちゃんと休む気になるのね」
「前の世界では、数字のために休めなかった。ここでは、数字が『休め』と言う」
シルヴァは笑って、木の根を指で撫でた。「それが森の歩き方」
夕方が落ちきる前、工房の軒に短い影が揺れ、老人の声が飛ぶ。
「孫が転んで膝を……」
把手を持つ指に力が入る。
《真理視界〈オムニアイズ〉》で膝の傷を透かす――浅い裂創、砂の混入。
「大丈夫。痛いけど、治る。まず水で洗って、砂を逃がす」
セリュが器に澄んだ水を張り、ラカンが火の口を弱く温める。
リネアが包帯を用意し、リトが図のついた小さな紙をそっと渡す。
再生薬水を薄くのせ、布で包む。
「今夜は走らない。明日、包帯を替えに来て。怖がったら、森の匂いをひと口吸うといい」
少年の呼吸が少しずつ静かになる。祖父の手が震えを収めて、何度も頭を下げた。
《会計台帳》は“救急対応(小)/無償”と記し、信頼の項に淡い青い点を増やす。
◇
三日が過ぎる。
仕事の速度は上がっていないのに、できることの数が増えた。
ミリルは畝の境に新しい草を植え、虫を遠ざける風の通り道を作る。
ノエルは丘から港への道に“軽い追い風”をしのばせ、荷車の車輪を少しだけ軽くする。
セリュは井戸の口を朝にひと撫でし、湧き水の透明が日暮れまで落ちないようにする。
ラカンは釜を空にした後の余熱で乾燥棚をほんのり暖め、乾きすぎない穏やかな空気をつくる。
リトとフィアはラベルの字を練習して、前よりずっと読みやすい字を書くようになった。
リネアは配合ノートを整え、実験瓶を夕陽にかざしながら短く頷く。
どれも数字には載らない改善だが、瓶の中身は昨日より静かに澄んで、香りは昨日より遠くまで届く。
その晩のまとめ。
《会計台帳》は、これまでになく長い行を淡々と紡いだ。
――《週次集計(多種族共同稼働・一週目)》
総売上:銅貨 9,820
内訳:村人 2,160/港・宿・診療所 2,480/他村卸 3,120/冒険者・旅人 2,060
経費:瓶工房 180/原料 96/包装 68/雑費 36
純利益:銅貨 9,440
信頼指数:+42(村・港・周辺三村・冒険者ギルド)
在庫:再生薬水 41/滋養薬液 37/香油 22/軟膏 19/茶 33/蜜薬 14
状況:労働時間 平均 8時間12分/休息遵守 ◎
備考:模倣品の動き 鎮静化/真贋問い合わせ 9→2
付記:港酒場 委託棚 稼働/診療所 掲示板更新/青波団 卸継続
最下段に、小さな青。――幸福指数:上昇中。
指先で、そこをそっとなぞる。
「数字が、働く人を守る。いい世界だ」
思わず口に出すと、ラカンが炭の端でくすりと笑った。
「守るのは手順だ。数字はその灯りだ」
セリュが静かな目で頷き、ノエルが窓枠から星をひと粒、室内へ滑り込ませる。
シルヴァは外の木立に戻る前、短く振り返った。
「森の花、また増えるよ。あなたが焦らない限り、ね」
リトが甘い瓶を胸に抱え、「明日もがんばれる」と羽をぱたぱたさせる。
リネアは空いた試験瓶を抱えて、「明日は四番と五番を混ぜてみる」とだけ告げる。
《会計台帳》は、名前の横に小さな青い点をもうひとつ増やした。数字は出ない。けれど、それで十分だった。
◇
日曜。
丘のふもとで、祭りではないけれど、祭りの匂いがした。
臨時の薬市。診療所とギルド支所が合同で会場を整えた。
リシアが短い挨拶をする。
「偽物に騙されないように。表示を読むこと。困ったら、診療所か、ここへ」
優馬は「焦らないこと」を何度も言った。
「傷は洗う。砂を残さない。薄く塗る。休む。――早く治したい気持ちは分かるけれど、焦らないほうが早い」
人々の頷きは一定のリズムを持って、波のように広がっていく。
青波団の旗が遠くで翻り、他村の代表が刻印のついた瓶を両手で持ち上げる。
「この印、うちの村でも覚えてきた。『サクラの瓶』って言えば通じる」
ノエルが風の縁で笑い、ミリルが足元の土に新しい芽をひとつ押し出した。
夕暮れ。
片付けの最中、リシアが帳場に寄って、紙を数枚置く。
「正式に。診療所は隔週での定期補充。港宿は“働く人の棚”として森香油と滋養薬液を常備。青波団は当面は三箱で安定。……あなた、いまのペースを崩さないで」
「値は崩しません。顔を見られる範囲で」
「その言葉、講義で使っていい?」
「著作権料はサクラ印の飴で」
二人で笑う。笑いは、数字よりも早く、空気を軽くする。
◇
夜。
焚き火の音が途切れて、丘が静まり返る。
工房の中で、最後の一本の封蝋が冷えた。
棚の上で、瓶たちは控えめな星みたいに光を返す。
ラカンは釜に背を預けて目を閉じ、セリュは井戸の口をひと撫でし、ノエルは扉の隙間を指でなぞって風の角を丸めた。
リトとフィアは甘い瓶を抱いて、柔らかな寝息を立てる。
シルヴァは木立のなかで葉を揺らし、リネアは机に配合ノートを開いたまま、静かな寝息を置いていった。
優馬は《会計台帳》の余白に短く書く。
“焦らず、競わず、よく働く。――それで、十分。”
窓の外、リュフェリア丘の夜風がラベンダーを撫で、瓶棚の光が丘の上でひかりを返した。
この丘に、働くための灯りが一つ、また一つ。
サクラ薬局は、今日も確かに前へ進んだ。
◇
翌朝。
朝靄のなか、最初の客は旅人だった。
背負い袋の紐が古く、靴底の縫い目がところどころほどけている。
「道が長い。眠りが浅くて」
森息茶を一袋、蜜薬をひと瓶。
「お湯を注いで三分。香りを吸ってから飲むといい」
「香りを吸う……?」
「息を深くする薬です。あなたの歩幅が元に戻る」
旅人は半信半疑の笑みを浮かべたが、茶葉の匂いを嗅いで目を見開いた。
「ここは、息が楽になる匂いがする」
ラカンが釜の影で小さく頷き、セリュが水面を揺らして陽の欠片をひとつ浮かべる。
ノエルが扉を開けると、朝の風が旅人の背をやさしく押した。
その背を見送りながら、優馬は棚に手を置いた。
木目は温かく、昨日より静かに鳴いている。
ここでの仕事は、数字より先に手触りで確かになる。
会計士の癖は抜けないけれど、数字はもはや責めるためではなく、続けるための灯りだった。
丘の斜面でミリルが手を振る。
「今日は北の畝が“呼んでる”。樹液が軽い」
「分かった。午前は森香油と再生薬水、午後は蜜薬と茶を回そう」
リネアが背中越しに「三番と五番、半分ずつで」と返し、フィアが「図の版、きれいに刷れたよ」と胸を張る。
リトは甘い瓶を胸に抱えたまま「がんばれる」と笑い、ノエルが高く手を振って丘の下へ駆け出した。
働く声は軽く、火は穏やかで、水は澄んで、風はよく通る。
数字は後からついてくる。
焦らず、競わず、よく働く。
それが、この丘の上の薬局のやり方だった。
瓶の刻印が朝の光を返す。桜の花と、青砂の波紋。
偽物の光は、ここにはない。
本物は、急がずに、けれど確かに、今日も積み上がっていく。
――サクラ薬局。森と光の下で、人も、森も、暮らしも、少しずつ整っていく。
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