第23話

若者の容態が安定しないまま、アレクシスはマルクスとブルックに後を託し、ドワーフの里を目指し、灰色山脈のさらに奥深くへと出発した。同行するのは、マルクスの部下で最も山に慣れた元斥候の兵士、二人だけ。


アレクシスは、馬には乗らず、徒歩を選んだ。馬の蹄の音は、ドワーフの警戒心を刺激する。


数日間の険しい山越えの後、斥候が静かに囁いた。 「アレクシス様、ここです。この先に、里があるはずです」


眼下には、深い谷が広がり、その谷底を流れる川のほとり、巨大な岩壁の陰に、人間の技術ではありえないほど精巧に石が積み上げられた、小さな集落が見えた。集落の上空には、いくつもの煙突から、濃い黒煙が立ち上っている。


「間違いない。鍛冶の煙だ」 アレクシスは、興奮を隠せなかった。


しかし、里の周囲は、自然の地形を巧みに利用した、見事な防御陣地に囲まれていた。人間の目にはただの岩壁に見えるが、ところどころに、弓矢の射線が確保された窓や、石の罠が仕掛けられているのが、アレクシスには見て取れた。


「アレクシス様、あれは……」 斥候が、ある一点を指差した。 里の入り口付近で、屈強なドワーフの衛兵が二人、巨大な戦斧を抱えて立っている。彼らの身に纏う鎧は、山賊や王国兵士のそれとは比較にならないほど、精緻で分厚い「鋼」だった。


「下手に近づけば、問答無用で殺されるぞ」


「ああ。だから、正面から行く」 アレクシスは、立ち止まった。


彼は、自分が持ってきた品々を広げた。一つは、魔物が出没した沼のほとりで採取した、強力な麻痺作用を持つ「毒の結晶」。もう一つは、山賊から剥ぎ取った、塩漬けの「革鎧」。そして、最も重要な、ある「設計図」だった。


アレクシスは、両の革鎧を担ぎ上げ、衛兵に見えるように、あえて音を立てて里の入り口へと進み始めた。


「止まれ! 人間!」


里の入り口で、衛兵の一人が巨大な戦斧を地面に叩きつけ、凄まじい声で威嚇した。 「これより先は、我ら『深岩(しんがん)の氏族(しぞく)』の領域だ! 踏み込めば、容赦なく斬る!」


「待て! 俺は敵ではない」 アレクシスは、両手を広げ、恭しく頭を下げた。 「この山脈の辺境に、新しく領地を持った者だ。ドワーフの賢人たちに、是非ともお目通り願いたい」


「賢人だと? 傲慢(ごうまん)な人間め! 我らが高名なる鍛冶師たちを、そんな薄汚い呼び方で呼ぶな!」


「失礼した」 アレクシスは、背中に背負っていた革鎧を、地面に丁寧に置いた。 「俺は、あなた方の鍛冶師に、この世に存在し得ない『素材』と『技術』をもたらすために来た」


衛兵は、革鎧を一瞥し、鼻で笑った。 「薄汚い山賊の革鎧ではないか。そんなもので、我らが心を動かすと思っているのか?」


「違う」 アレクシスは、革鎧の横に、毒の結晶が少量入った小瓶を置いた。 「これは、その交渉の『権利』だ」


衛兵は、毒の結晶の入った小瓶を見た。 結晶は、かすかに紫色の光を放っている。衛兵は警戒心を露わにした。


「……毒か。我らに何の関係がある」


「これを調合すれば、灰色山脈の奥地、石炭を産出する沼地にいる、あの『岩皮の熊(ロックベア)』を、生かしたまま捕獲できる」 アレクシスは、言葉に力を込めた。 「あの魔物の皮膚は、あなた方の『鋼(はがね)』と同じ、高度な複合材でできている。彼らは、その体内で、生きたまま『金属』を錬成している。あなた方が半月かけて炉で作り上げる鋼を、彼らは生命力だけで作っている」


衛兵の顔から、笑みが消えた。 ドワーフの目は、技術に対する純粋な探求心と、獲物に対する興奮で、ギラギラと輝き始めた。


「……岩皮の熊を、生きたまま……」


「その通りだ。私は、その魔物と、魔物の体内の構造の『秘密』を、あなた方に提供する」 アレクシスは、条件を提示した。 「その代わりに、あなた方の里で、最高の鍛冶師を一人、私の里に連れて行きたい。我が領民は、魔物の爪で深手を負っている。治療と、新たな技術が必要だ」


「たった一人の鍛冶師のために、我らの最大の獲物を明け渡すだと? 人間、貴様は我らを舐めているのか!」


「いいや、違う。これが、最後の切り札だ」


アレクシスは、懐から厳重に包まれた羊皮紙の束を取り出し、地面に広げた。 そこには、前世の知識に基づく、詳細な「鉄砲の設計図」と、その弾丸の重量、火薬の配合比率などが、複雑な数式と共に描かれていた。


「これを見ろ」 アレクシスは、自信に満ちた笑みを浮かべた。 「これは、あなた方の青銅や、錬鉄ではない。高強度で、軽量な、全く新しい『鋼管(こうかん)』の製造方法と、それを用いた『連続発射火器(フリントロック式に近い)』の設計図だ」


衛兵は、その設計図の異様な緻密さと、未知の数式の羅列に、完全に足を止めた。 「……これは、なんだ……」 彼は、鍛冶師としての血が騒ぐのを感じた。


「これは、あなた方ドワーフの技術と、私の『知識』が融合した時、初めて実現する『技術』だ」 アレクシスは、優雅に一礼した。 「あなた方が、岩皮の熊の秘密を解き明かす研究者を選ぶか。あるいは、私の知識を具現化する最高の職人を選ぶか。それは、あなた方の自由だ」


衛兵は、この人間が、ただの貴族でも、ただの山賊でもないことを悟った。彼は、技術の「価値」を正確に理解し、それを取引の材料にできる、異様な「技術者」だった。


「待て。動くな。……すぐに、長老に報告する」 衛兵は、戦斧を地面に突き立て、小瓶と設計図から目を離さず、里の奥へと急いだ。


アレクシスは、風が吹き抜ける谷底で、一人、静かに待っていた。 彼の「技術スカウト」の成果は、辺境独立国家の命運を握っていた。 若者の命、そして彼の「鉄砲」の夢は、このドワーフたちとの奇妙な取引にかかっていた。

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