第三章 The Night of Osmanthus【金木犀の夜】

 あの人はいつも蜜蝋と金木犀の甘い薫りがする。

それは招かれた屋敷でもそうだった。控えめなサロン、優しい音楽、柔らかい蝋燭の光、微笑む人々。まるで幻のような世界。

私は慣れないお酒に酔ってサロンに隣接した休憩室で休んでいた。灯りを控えめにして貰い、恐ろしく柔らかいクッションに身を預け、酩酊をやり過ごしていた。


窓は開け放たれて、月がぼんやりと朧げに見える。

繊細なレースのカーテン。空気の精のスカートのように風に翻る。

10月の夜気が火照る肌に気持ちいい。ああ、早く。こんな窮屈なドレスなんて脱いでしまいたい。


「あの娘は何処に?」

「きっと伯爵と居りましょう」

「伯爵さまもセリーナをプリマにさせたくて夢中だ」

「ずっと育てていた子達に逃げられてますものね。お可哀想に」

「まあ…どのみち若さとプライドしかありませんもの」

「セリーナの踊りは、素晴らしいがね。プリマに勝てるかな?」


 談笑。

 


私の事だ。でも気にしていられない。

私は、踊りつづけたい。ソリストとして。

職業舞踊手として。芸術家として。

自然と、溜息がでる。


「…失礼」

ふわりと甘い匂いを引き連れて目の前に誰かが現れた。聞き覚えのある声だ。蜜蝋と、金木犀の香り。

 

「大丈夫かな、セリーナ」

 

体格に恵まれた長身の男はひざまづいて、私のおでこに額を当て、手にキスをした。

ローラン・ド・モントレイユ伯爵。

私の太い「支援者」だった。

 

「ごめんなさい、練習に疲れて寝不足で…」

私は慣れない貴族の振る舞いに、さらに顔を赤くした。伯爵は私の髪をゆっくりと漉きながら、「いいんだよ」と優しく微笑んだ。それはサロンでも見せた事がない甘い笑みだった。


「リズは…?」

聞いた途端彼の手が止まる。しかし彼は少しだけ思い出す仕草をして、ああ、と応えた。

「今日招待した男爵と一緒に帰ったよ」

「そうですか…」

私はあっさり彼女に裏切られた。オーデンタール男爵は怖いから一緒に来て、などと言って結局はあの男爵と既にできていたのだ。しかしそんなものはこの世界に良くある事だ。けれど実際にあってみると辛い。


私たちは貧しい家の出身で、踊り子の給料は雀の涙。若さと、実力と誇りと、パトロンが居なければ後がない。自然と競い合い、人を騙し、生き残る。時にはパトロンから金を盗んで捕まり、身を落とした踊り子もいた。きっと相手が最低男か、ヘマをして支援を切られそうになったのだろう。

……それもよくある事だ。


私も最高のバレエを踊る為には、良い暮らしがしたい。一年でも長く踊りたい。

そして主演を獲る。

名声なんて二の次、私は踊りたい…芸術を極める為に。


「泊まるかい?」

 

セリーナはぎくりとした。酔いが覚める思いだった。

「いえ…酔いが覚めたら帰ります」

「私が怖いのかな」

「いえ……ええ。はい、伯爵様ですから」

「正直だね」

「嘘をついても、貴方は面白くないでしょ?」


伯爵は何も答えず、笑った。

「どうか2人きりの時はローランと」

ローランは私の手を取って言った。酔いは殆ど覚めていた。

「ローラン様」

私は起き上がり彼の腕を取った。くらり、立ち眩みがして彼の腕の中に入ってしまった。

彼は私を柔らかく抱きしめて、囁く。

「様は要らないよ…私のジゼル」

ジゼル。私が獲りたい主演の一つだ。

私が踊りたくてもどうしても踊れない。劇場のエトワール(第一舞踊手)のパトロンがアーデルハイト公爵だから。配役と序列は後ろ盾の大きさで決まる。公爵のプリマが朝帰りをして眠そうにしてるのはザラにある。


軸がぶれて、拙い彼女のピルエット。私なら、絶対に朝帰りしない。

いつも悔しい気持ちになる。リーゼは顔が、可愛い。小さくて舞台映えする。私はキャラクターダンサーなんてやりたくない。

伯爵はその時その時で、私の一番欲しいものをよく知っていた。

どうして、私をこんなに操るのが上手いんだろう。泣きたくなる。

酔って涙腺がきっと緩んでいるんだろう。

 

「ああ、泣かないで…」

ローランは腕の中で急に泣き出した私に、そっと絹のハンカチを差し出してくれた。優しい金木犀の香り、私は化粧が落ちるのも気にせず涙を拭いた。伯爵は微笑みながら幼な子を見守る様に見つめて——言った。

「君に見せたいものがある。…行こうか」

伯爵は泣き腫らした私を軽々と抱き抱えて、部屋を後にした。

サロンでは賑やかな室内音楽が始まる。

それは何処か、遠くの世界の音楽に聞こえた。

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