貴方の瞳に針を落として

無趣味

第1話

俺の家には、顔を知らない女が住んでいる。

名前は、空野美彩。二十歳。俺より四歳上だ。

彼女がこの家に来たのは、俺が十三の春だった。


両親の友人夫婦が事故で亡くなり、その一人娘をうちで引き取ることになったのだという。

食卓で父さんがそう言ったとき、俺はただ頷いた。


別に、どうでもいいと思った。


実際に彼女が引っ越してきても彼女は二階の一番奥の部屋に閉じこもって暮らしていた。


彼女は家賃や食費を毎月母さんに渡しているらしく、そのお金はどこから来ているのか聞いてみると

「家で出来る仕事をしてるらしいわよ。凄いわよね〜」と母さんは言っていたが、詳しいことは何も話さない。もしかしたら知らないのかもしれない


三年間一緒に住んでいて俺と顔を合わせることは、一度もなかった。

すれ違う音、床を軋ませる足音、ドアの隙間から漏れる灯り

それが、彼女のすべてだった。

三年間、そうして過ぎていった。


彼女は確かに家にいるのに、いない。

俺は同じ屋根の下に住む気配だけを知っていた。



けれどある日、学校から帰ってきた午後のことだった。

靴を脱ぎ、リビングを抜け、階段を上がる。

いつもと変わらない音のない家。

けれどその日だけは、ほんの少し、空気が違っていた。


彼女の部屋の扉が、開いていた。

鍵がかかったまま動くことのない扉が、半分ほど開いている。

胸が跳ねた。

何かあったのかもしれない。

……そう言い訳しながら、足が勝手に動いた。

理性は止めろと叫んでいた。けれど、好奇心はもう限界だった。

扉の隙間から、光が漏れていた。

白いカーテンが風に揺れ、柔らかく部屋を撫でている。

ほんの一歩踏み出す。


そして、視界の中に、彼女がいた。


黒い髪が肩で光を受けていた。

透きとおるような肌。

伏せた睫毛の影が頬をなぞる。


俺がこれまで見た、どんな人間よりも静かで、綺麗だった。

その顔を見た瞬間、息が止まった。

心臓が、今までに体験したことがないほどドクドクと鼓動する

1歩、踏み出した


足音で彼女も俺に気づいた。


目を見開いて、こちらを見た。

ほんの一秒。

たった1秒が永久にも感じられる


「……っ!」

彼女はビクリと震えて、一歩、後ろへ退いた。

逃げ場を求めるように部屋の角へ寄る。

けれど俺は、止まれなかった。


頭よりも先に、身体が動いた。

床に膝をついて、彼女を見上げた。

声が勝手に出た。


「俺と――付き合ってください」

言葉を発した瞬間、自分でも驚いた。

なぜそんなことを言ったのか。

理由はひとつしかない。

あまりにも、綺麗だったから。

この世のものではないように思えたから。


いつかいなくなってしまうように感じて、恋人という関係として彼女をここへつなぎ止めたかったから


沈黙。

彼女は瞳を揺らし、唇を震わせていた。

その顔が、泣き出しそうなほど美しかった。

「どうして……?」

ようやく絞り出された声は、かすかに震えていた。

「顔を見ただけで……そんなこと、言うの?」

俺は答えられなかった。

けれど、それが真実だった。

恋は、理由なんて持たない。

ただ、堕ちたのだ。

彼女の瞳の底に。

「春樹くん」

名前を呼ばれた瞬間、胸が軋んだ。

初めて聞く自分の名前が、ひどく遠くから響いた。

「その言葉は、きっと一時の迷い」

「それに、私には関わらない方が良いよ。」

静かくて冷たい声だった。



俺はそれでも、彼女への心は変わらなかった

あの日から、俺は変わってしまった

自室に行こうとする時に彼女の部屋のドアの隙間から零れる光に目を惹かれる。


俺は、あの日から確かに彼女の顔を知り、恋を知った

けれど、同時にそれを見てはいけなかったのだと理解した。


何をしても何処にいても常に彼女のことが気になってしまう。

彼女という存在が自分という存在の底にいる


もしかしたら病気なのかもしれない

それでも良いと思ってしまう



そして、僕と彼女が再開するのにはそう時間がかからなかった

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