あの時の清兵衛
をはち
あの時の清兵衛
中学二年の夏、教室の窓から差し込む陽光は、埃の粒子をきらめかせ、
僕の机の上に無造作に置かれた教科書を照らしていた。
あの頃の僕は、読書という行為を心底嫌っていた。
本を開くこと自体が、まるで罰ゲームのようだった。
だから、夏休みの読書感想文の宿題が出たときも、僕の頭に浮かんだのは「どうやって楽に切り抜けるか」だけだった。
課題図書は、志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」か、芥川龍之介の「羅生門」。
どちらも短編で、読むのにさほど時間はかからないと聞いていたが、僕には関係なかった。
読む気などさらさらなく、冒頭の数行と後書きをちらりと見て、それらしい感想文をでっち上げる。
それが僕のいつもの手だった。
書店で「清兵衛と瓢箪」を手に取った瞬間、表紙の素朴な装丁と薄さに安心した。
これなら、すぐに「完成」する。
本を開くと、冒頭にこんな一文があった。
「これは清兵衛という子どもと瓢箪との話である。この出来事以来清兵衛と瓢箪とは縁が切れてしまったが、
まもなく清兵衛には瓢箪に代わる物ができた。」
この数行だけで、僕の頭には物語が勝手に出来上がった。
清兵衛という少年が、瓢箪というあだ名の誰かと喧嘩して、別の友達を見つける話だと。簡単だ。
自分の過去の体験――友達との小さな諍いとその後の和解――を織り交ぜ、
教訓めいた言葉で締めくくれば、立派な感想文になる。
何より、本を読まずに済む。
僕はペンを走らせ、あっという間に原稿用紙を埋めた。
夏休みが明け、感想文を何食わぬ顔で提出した。
教室のざわめきの中で、野原先生――生徒たちの間では「のっぱら」と呼ばれていた
現代国語の教師――が原稿用紙を集めていく。
その背中を見ながら、僕は内心ほくそ笑んだ。
「今回も上手くやったな」と。
一ヶ月後、事件は起きた。
野原先生に呼び出された僕は、職員室の片隅で、冷ややかな視線に晒された。
「お前、読んでないだろ。」
先生の声は、静かだが鋭かった。
僕は一瞬たじろいだが、すぐに平静を装った。
「読みました。」短く、強がるように答えた。
「読んでいたら、こんな感想にはならない。」
先生の言葉は、まるで僕の心の奥底を見透かすようだった。
僕は反発した。
「皆が同じ感想になったら、感想文の意味がないじゃないですか。
僕がどう感じたか、先生が口を挟むことじゃないと思います。」
その瞬間、僕は自分の言葉に酔っていた。
このまま押し切れる、そう思った。
だが、野原先生は一歩も引かなかった。
「お前、そんなこと言っちゃうの? それはな、ちゃんと本を読んだ人間が言える言葉だ。」
その目は、笑っているようで、どこか哀しげだった。
「だから、読んだって言ってるじゃないですか。」
僕の声は、だんだん小さくなっていく。
平行線――
先生と僕の間に、冷たい空気が流れた。
職員室を出た後、僕は教室に戻り、頭をフル回転させた。
どこでミスったのか。どうやってこの場を切り抜けるか。
すると、そこに担任の黒沢先生が現れた。
黒沢先生は、穏やかな笑顔で僕に言った。
「野原先生がお前の感想文を見せてきたけど、俺にはよく書けてると思うんだよな。何が悪いんだろうな。」
その言葉に、僕は一筋の希望を見た。
「先生、ついてきてくれるなら、謝りに行きます。」
黒沢先生は頷き、僕を連れて再び職員室へ向かった。
職員室でのやりとりは、まるで芝居のようだった。
黒沢先生が、のっぱらの前に立ち、
「この感想文、何度読んでもよく書けてると思うんです。何が悪いんでしょうか?」と食い下がった。
のっぱらは、静かに、しかしはっきりと答えた。
「ちゃんと課題図書を読んでいれば、こんな感想にはなりません。」
黒沢先生はなおも続ける。
「だから、何が悪いのか教えてくださいよ。」
その瞬間、僕とのっぱらの目が合った。
お互いの頭に、同じ考えが浮かんだのだと思う。
のっぱらが、ゆっくりと口を開いた。
「先生、『清兵衛と瓢箪』をお読みになったことは?」
「ないですよ。」
黒沢先生の即答が、職員室に小さく響いた。
僕は心の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。
いたたまれなかった。
自分のずるさが、こんな形で露呈するなんて。
のっぱらは一歩下がり、穏やかに言った。
「この課題図書の点数は通知表に加算されます。このままだと、赤点になるかもしれない。だから、なんとか書いてくれ。」
その声には、怒りより、どこか期待が込められている気がした。
だが、僕は意地を張った。
黒沢先生に申し訳ない気がしたのだ。
「書き直しても、同じものになりますよ。それが僕の感想文なんですから。」
のっぱらは、半ば呆れたように笑い、
「ねちねちと、太宰みたいなこと言うなよ」と呟いた。
そして、「本人がこう言うなら、仕方ない。」そう言って、姿を消した。
二年の終業式の日、黒沢先生が僕に一冊の本を手渡した。
志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」だった。
「野原先生からだ。読んでみたけど、面白かったぞ。いつでもいいから、必ず読めよ。
それまで、加算した点数は貸しだってさ。」
先生の言葉には、どこか含みのある温かさがあった。
僕は本を受け取り、胸の奥に小さな重みを感じた。
結局、その本を開いたのは、二十歳を過ぎてからだった。
ページをめくるたび、物語は僕の想像とはまるで違った。
清兵衛は、瓢箪に心を奪われた少年だった。そこには、喧嘩も、友達も出てこなかった。
読み終えた瞬間、顔が熱くなった。
「そりゃ、書き直しを命じるよな。」
あの頃、のっぱらは嫌いだった。
だが、年を重ねるごとに、野原先生の存在は僕の中で大きくなっていった。
本を読まずに感想文を書いた僕を、ただ叱るのではなく、信じて待ってくれた。
あの先生のような教師は、他にいなかった。
今、机の上で埃をかぶる「清兵衛と瓢箪」を手に取ると、あの夏の職員室でのやりとりが蘇る。
そして、野原先生の声が、どこからか聞こえてくる気がする。
「ちゃんと読めよ。」と――
あの時の清兵衛 をはち @kaginoo8
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