最終部 悪鬼の浄霊
恐怖。
初めて自らの内に生まれた、システムでは定義できないその絶対的な感情に、リッセの思考回路は焼き切れんばかりの悲鳴を上げていた。論理では説明できない、存在の根幹を揺るがす黒い絶望。ギデオンという名の、死の顕現。
彼女のシステムは、ただ一つの解を提示し続けていた。――逃走。マスターであるカシウスを連れ、生存確率が最も高いルートを選択し、この場を離脱せよ。
だが、リッセは動けなかった。
差し伸べたカシウスの手が、震える彼女のそれを、万力のような強さで握りしめていたからだ。
「リッセ。お前が何者だろうと関係ない」
カシウスの声は、不思議なほど落ち着いていた。絶望的な戦力差を前にして、彼の瞳には恐怖の色も、妹への未練もなかった。ただ、燃えるような決意の光だけが宿っていた。
「お前は、ただの人形なんかじゃない。俺がそう決めた。お前には心がある。俺には、わかる」
その言葉が、リッセの混沌とした思考の中に、一筋の光を灯した。
心。
それは、脆弱で、非論理的で、理解不能なもの。だが、今、カシウスの手から伝わる温もりは、彼女の胸にある〈星の涙〉を、今までとは比べ物にならないほど、熱く、激しく脈打たせていた。
「小賢しい真似を! その人形は、世界を無に帰すためのわらわの道具だ!」
ギデオンの怒声が天から降り注ぐ。魔獣が咆哮し、ギデオンの軍勢が、なだれを打って神殿へと殺到した。
「リッセ、カシウスよ、行け! ここはわらわが食い止める!」
賢者サラが、古木の杖を大地に突き立てる。すると、神殿の周りに〈星の民〉の古代文字を連ねた光の障壁が出現し、敵の第一波を押しとどめた。だが、それも長くは持つまい。障壁はギデオンの放つ邪悪な魔力の波動を受け、至る所に亀裂が走っていた。
「カシウスよ、西の洞窟へ! そこから外へ抜けられる!」
サラの叫びが背後から聞こえる。
カシウスは、リッセの手を引いて神殿の奥へと走った。だが、彼は逃げなかった。彼の視線は、神殿の中央、〈癒しの泉〉のほとりに安置された、古びた一振りの剣に注がれていた。それは、どんな宝石よりも美しい、星の光そのものを鍛え上げたかのような白銀の剣だった。
「それは、〈星の民〉の王が用いたという伝説の聖剣〈アストライア〉……。じゃが、心の清い者、大いなる覚悟を持つ者でなければ、触れることすらできぬ!」
「試す価値は、ある!」
カシウスは迷わず剣の柄を握った。刹那、彼の全身を凄まじい衝撃が貫いた。数百年分の星々の記憶と、王たちの苦悩が奔流となって流れ込んでくる。常人ならば、その魂ごと弾き飛ばされていただろう。
だが、カシウスは歯を食いしばり、耐えた。
彼の脳裏に、病に苦しむ妹レナの顔が浮かんだ。救いたい。だが、叶わぬ願い。そして、今、彼の背後で怯え、震えている、冷たい人形の顔が浮かんだ。
『あなたは、脆弱です』
そうだ、俺は脆弱だ。妹一人救えない。だが、だからこそ! 目の前で怯えている、この「心」を持ち始めたばかりの存在だけは、絶対に守り抜く!
それは、妹を救うことを諦めた贖罪ではなかった。それは、彼が初めて見出した、他者のための、純粋な意志だった。
ギギギ、と軋むような音を立てて、剣が鞘から引き抜かれた。聖剣〈アストライア〉は、カシウスの手に応えるかのように、まばゆい光を放った。
その時、ついに光の障壁が砕け散った。ギデオンの兵士たちが、勝ち鬨の声を上げてなだれ込んでくる。
カシウスは、聖剣を手に、彼らの前に立ちはだかった。
「マスター!」
リッセの悲鳴に近い声。
「お前は、サラと逃げろ!」
カシウスは叫んだ。「これは、俺の戦いだ! お前を道具として目覚めさせた、俺の!」
彼は剣を振るった。聖剣は、彼の意志に応え、星屑の斬撃となって敵を薙ぎ払う。だが、敵の数はあまりにも多い。ギデオンの側近である異形の魔将たちが、カシウスに襲いかかる。カシウスの体は、たちまち無数の傷で覆われていった。
「弱い! 弱いぞ、カシウス! その程度の覚悟か! 愛する者一人救えぬ絶望を知らぬお前に、わらわは倒せぬ!」
ギデオンの嘲笑が響く。
その光景を、リッセは見ていた。
カシウスが、血を流している。自分のために。
脆弱な人間が、自分を守るために、命を賭して戦っている。
胸が、痛い。
物理的な損傷ではない。システムエラーでもない。まるで、内部から引き裂かれるような、熱い、激しい痛み。論理では説明できない。理解できない。だが、これだけはわかった。
――彼を、失いたくない。
それは、マスターの生命維持というプログラムされた命令ではない。
それは、カシウスが彼女の関節を拭ってくれた時の、あの不器用な手の感触。
それは、カシウスが彼女にローブを与えた時の、あのぶっきらぼうな優しさ。
それは、カシウスが「お前には心がある」と言ってくれた時の、あの燃えるような瞳。
それらが積み重なって生まれた、リッセ自身の魂からほとばしる、初めての、そして最も強烈な『願い』だった。
「――嫌」
か細い、しかし、神殿の全てを震わせるほどに、凛とした声が響いた。
リッセは、カシウスが着せてくれた、今や所々が焼け焦げた粗末なローブを、自らの手で引き裂いた。それは、彼女を庇護していた「道具」としての殻を、自ら破り捨てる儀式のようだった。
リッセは、ゆっくりと歩みを進めた。傷だらけのカシウスの前に立ち、彼を守るように両腕を広げる。その背中は、もはや小さくも、儚くもなかった。
「……リッセ……? 何を……」
「カシウス」
彼女は初めて、マスターという呼称ではなく、彼の名を呼んだ。そして、ゆっくりと振り返る。
その紫色の瞳には、もう迷いも、恐怖もなかった。そこには、深く、そして澄み切った、この世の全てを包み込むような、慈愛の光が宿っていた。彼女は、カシウスに向かって、微笑んだ。
それは、数百年ぶりに大地に咲いた、奇跡の花のような、初めての微笑みだった。
「あなたを、守りたい。それが、私の……私の、意志だから」
賢者サラが、最後の言葉を告げていたのを、彼女は聞いていた。
『乙女よ、真の力を解放する時、おぬしは神の器としての永い記憶と力を失い、ただの人として生まれ変わる。それは、不死の力を失い、死すべき定めの、脆弱な人間になるということじゃ』
――それこそが、私の望み。
次の瞬間、リッセの体から、銀河の星々を全て集めたような、凄まじい浄化の光が迸った。胸の〈星の涙〉が、太陽のように輝く。
彼女は、もはや人形ではなかった。
銀色の髪は光の奔流となって天を突き、その背からは、水晶の羽が生え広がった。彼女は、聖なる『祈りの器』として、完全に覚醒したのだ。
「おお……!」
賢者サラが、その場に膝をつき、祈りを捧げる。
「馬鹿な……! 道具が……人形が、自らの意志で覚醒しただと!? 絶望ではなく、愛だと!? 偽善だ!」
ギデオンが絶叫する。彼が放つ邪悪な妖術も、リッセの放つ聖なる光の前には、闇夜に灯した蝋燭の火のように、かき消されていった。
「滅びよ、人の心の闇が生みし者」
リッセの声は、もはや平坦な電子音声ではなかった。幾重にも重なる聖歌隊のような、神々しい響きを持っていた。
「あなたの絶望もまた、真実。ですが、世界は絶望だけではできていない」
リッセの瞳が、強く輝いた。ひときわ巨大な光の奔流が、天を貫き、ギデオンを、その軍勢ごと包み込む。
「ああ……光が……温かい……。これが……わらわが、求め続けた……」
断末魔の叫びではなく、安らかな呟きを残し、ギデオンは光の中へと溶け、消滅した。
邪悪な砂嵐は消え去り、オアシスには、再び穏やかな光が戻ってきた。
戦いは、終わった。
光の翼を失い、リッセは、ゆっくりと大地に降り立った。その体は、もはや人形のそれではなく、関節の継ぎ目は消え、温かい血の通った、人間の少女のものへと変わっていた。
彼女は、満身創痍で倒れ伏すカシウスの元へ駆け寄った。
「カシウス! カシウス!」
「……リッセ……。お前……温かいな……」
カシウスは、血塗れの手で彼女の頬に触れ、安堵したように微笑み、意識を失った。
「よかった……。生きてる……」
リッセは、その体を強く抱きしめた。その瞳からは、大粒の涙が、止めどなく溢れ落ちていた。それは、彼女が流した、初めての涙だった。
◇
――数年後。
砂漠の世界に、少しずつ緑が戻り始めていた。リッセがもたらした大いなる奇跡の余波は、ゆっくりと、しかし確実に、大地を癒していたのだ。
〈星見のオアシス〉は、復興の拠点となっていた。
カシウスの妹レナの病が、〈癒しの泉〉で癒えることはなかった。聖剣を使った代償か、彼の左腕は二度と動かなくなった。
だが、彼は絶望しなかった。彼は、オアシスの薬草学を学び、動かぬ左腕をリッセに支えられながら、病に苦しむ人々を癒す道を歩んでいた。
世界を救う大きな奇跡は、彼に個人的な幸福を約束しなかった。だが、その隣には、かつて人形だった少女が、人間として笑い、泣き、そして彼を深く愛し、寄り添っていた。
機械の乙女が愛を知り、その愛が世界を救った。
そして、孤独だった一人の男が、絶望の果てに守るべきものを見つけた。
どちらが、より大きな奇跡であったのか。それは、誰にもわからない。ただ、風だけが、新しい時代の始まりを告げる優しい歌を、二人の髪を撫でながら、歌い続けていた。
(了)
銀砂の自動人形 ― Lisse the Automata ― 森崇寿乃 @mon-zoo
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