第7話 夜明けの声
――夜が終わりを拒んでいた。
空の端で鈍く光る青が、明けの気配を押しとどめている。
“青の残響”の世界は、まるで誰かの夢の奥底に沈んだまま、現実へ帰ることを躊躇っていた。
白瀬湊は、丘の頂に立っていた。
足元には、風に削られた古い石碑。そこには、読めない文字が刻まれ、まるで何かを封じているようである。いったいいつからそこにあるのだろうか。表面は苔がむしていて、黒ずんだ石はひび割れていた。
背後では、桐島真白が息を整えながら立っている。彼女の肩越しに、崩れかけた旧校舎が見えた。現実と異界の境界が歪むたびに、校舎の影はゆらゆらと形を変え、夜の帳に吸い込まれていく。
「……もう、夜が明けるね」
真白が小さく呟いた。
だが、湊は答えなかった。
夜明け――それは帰還の象徴であり、同時に“別れ”の印でもあったからだ。
丘の向こうの靄の中から、ゆっくりと人影が近づいてくる。
黒川陸だった。
現実では、もうこの世にいないはずの親友。
けれど彼の瞳は、確かに“生きて”いた。
風に揺れる制服の裾も、笑みの形も、まるで最期の日までのままだった。
「湊。……俺、やっぱりここまでなんだ」
陸の声は、遠くで鳴る波の音のようだった。
優しくて、けれどもう二度と触れられない距離にあった。
「そんなこと言うなよ。まだ――戻れるだろ? 玲奈が、“道”を探してるんだ。篠原だって手伝って……!」
「違うんだ。俺が帰らなきゃいけないのは、“あっち”じゃない。……こっちが、俺の場所なんだ。」
その言葉に、湊は息を詰めた。
胸の奥が、静かに崩れていくような感覚。
真白が何かを言おうとしたが、声が風にかき消された。
――そのとき、空の色が変わった。
まるで誰かの心臓が脈打つように、空が明滅する。
青と黒の狭間に、ひとすじの白い光が走った。
それは夜明けの光ではなかった。むしろ、世界を裂く“声”のようなものだった。
「玲奈……?」
湊が振り返ると、丘の下から水城玲奈が駆け上がってきた。
彼女の瞳は、いつもの深い瑠璃色を失い、代わりに淡い銀の光を帯びていた。
「湊くん……時間がないの。境界が――壊れかけてる」
「壊れる……?」
「“青の残響”は、もう自分を保てない。ここに長くいたら、あなたたちも……」
玲奈の声が震えた。
その震えは恐怖ではなく、悲しみに近いものだった。
彼女自身も、この世界に“縛られた存在”なのだと、湊はその瞬間に理解した。
そのとき、下の方から少年の声が響いた。
「玲奈さん、結界が変動してる! 数式が……成立しない!」
篠原透だった。
不登校の天才少年――その手にはノートPCと手書きの方程式が散らばっている。彼の周囲の空気がざらつき、ノイズのような青い粒子が漂っていた。
「透、何が起きてる!?」
「“存在の同期”が崩れてる! この世界と現実の“共鳴構造”が……もう限界だ!」
透の叫びが夜を裂いた瞬間、空が割れた。
轟音が響き、青の丘を覆う光が奔る。
石碑が砕け、足元の地面が波のように揺れた。
――その中で、陸が一歩、湊へと近づいた。
「湊。俺はさ、“死ぬ”ってことが何なのか、ずっと考えてた。でも、今なら分かる気がするんだ。“生きてた時間”が終わることじゃなくて、誰かの心から消えることなんだって。」
湊の視界が滲んだ。
「……そんなの、消えるわけないだろ。俺は、陸を――」
「ありがとう。……そう言ってくれるだけで十分だよ。」
陸が微笑んだ。
それは、この世界で見た中でいちばん穏やかな笑顔だった。
同時に、玲奈が小さく呟いた。
「――夜明けが来る」
青の残響の空に、光が差し込んだ。
それは優しい朝の色ではなく、まるで全てを洗い流す“再生”の光だった。
丘を覆っていた闇が一瞬で霧散し、風の中に残ったのは、誰かの声――。
《湊、ありがとう。》
それが、黒川陸の“最後の声”だった。
その瞬間、青の丘が崩れ、光の粒が湊たちを包み込んだ。
記憶が遠のいていく。
胸の奥で、何かがほどけていく。
それは痛みではなく、祈りのような感覚だった。
――そして、朝が来た。
気づけば、湊は学校の屋上にいた。
制服の袖が風に揺れ、遠くの空に、雲間から差す光が見えた。
玲奈も、真白も、透も、そこにいた。
だが、誰も“あの夜”のことを口にしなかった。
ただ、湊は空を見上げながら、小さく呟いた。
「なあ、陸。……夜明けって、こんなに綺麗だったっけ。」
その声は風に乗って、どこまでも遠くへ流れていった。
青い空の向こう、まだ見ぬ残響の果てへ。
#純文学 #文芸 #サスペンス #ミステリー
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます