第6話 残響の空
朝が来なかった。
夜と昼の境目が曖昧模糊なまま、灰色の空がどこまでも果てしなく続いていた。
白瀬湊は独り教室の窓際に座りながら、ぼんやりと雲の流れを見ていた。
校庭の木々は風もないのにざわめきながら揺れ、木の葉の一枚一枚がどこか現実離れした色合いを帯びている。
――昨日、湖で見た光景は夢だったのか、そんな考えが一瞬脳裏を過ぎる。
真白が消えたその事実だけが、胸の奥で鈍く疼いていた。
「湊くん」
不意に背後から声をかけられて振り返ると、水城玲奈がいつの間にか立っていた。
彼女の瞳には、いつもと違う影があった。
「放課後、屋上に来て。話したいことがあるの」
そう言い残して、玲奈は静かに自分の席へと戻った。
湊は、授業の音も、教科書の文字も、教室の生徒のざわめきも何もかもが入ってこなかった。
ただ、カチカチと時を刻む時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。
放課後。
空はまだ晴れず、薄い青灰の光が街全体を包んでいた。
屋上に出ると、水城玲奈の隣に篠原透が立っていた。
彼の頬はややこけ、眠っていないような目をしている。
「湊……真白のこと残念だった……」
透の声はいつになく震えていた。
「でもね、真白はまだ完全には消えてない。残響が残ってる」
湊は目を見開いた。
「残響?」
玲奈が頷く。
「死者がこの世界に“願い”を残したとき、それは記憶の波紋として世界に刻まれる。真白さんは“祈り”の力を使った。だから、完全に消えたわけじゃない。彼女の一部が、空に残ってる」
「……空に?」
玲奈が空を見上げる。
雲の切れ間から、淡い青光が差していた。
まるでそこだけが、別の世界の空のようだった。
「真白さんの残響を辿れば、“青の丘”への扉が開く」
「また……あの場所に?」
「ええ。でも、今度はあなた一人じゃない。私と透くんも行く」
湊は唇を噛みしめた。
――もう誰も失いたくなかった。
そのとき、透が低く呟いた。
「でも、ひとつ気になることがある。黒川陸……彼、本当に“陸”なのかな?」
その言葉に、玲奈が鋭く振り向いた。
「どういう意味?」
「俺、湖で見たんだ。湊の背後に黒い影のような形で陸がいて、さらにその陸の影の中に別の顔があった。知らない誰かの。あれ、陸じゃない。“誰かが陸の記憶を使って存在してる”感じだった」
湊の心臓が、ひときわ強く打った。
――あの笑顔。あの声。全部、本当に陸だったのか?
玲奈が小さく息を吸う。
「たぶん、“残響”が陸くんの身体を借りているのよ。彼はもう人間じゃない。記憶の形を持った存在。あなたの“想い”が作り出した虚像。」
「嘘だ……」
湊は思わず呟いた。
「陸は俺の前で泣いてた。笑ってた。あれが虚像のはずない!」
玲奈は悲しげに微笑んだ。
「それでもね、湊くん。あなたがそう信じた瞬間、それは“真実”になるの。残響は想いの力で形を保つ。あなたの信じる心が、彼を生かしているのよ」
風が吹き抜け、屋上のフェンスがきしんだ。
その風の中に、確かに聞こえた。
――湊。俺、生きてる。ここにいる。
振り向くと、誰もいなかった。
けれど湊には分かっていた。
陸が、まだこの空のどこかにいることを。
「……玲奈。青の丘に、行こう」
湊は静かに言った。
「真白を取り戻す。陸を解き放つ。それが俺たちの“祈り”だ」
玲奈が微笑む。
「行きましょう。残響の空の向こうへ。」
その夜。
彼らは廃校になった旧校舎の屋上に集まった。
そこには、透が描いた円形の陣が刻まれていた。
青い蛍光灯のような光が、床からゆらめいている。
玲奈が静かに目を閉じ、祈りの言葉を唱える。
風が渦を巻き、空が鳴った。
月のない夜に、青白い裂け目が生まれた。
「行こう」
湊はその光の中へ、一歩を踏み出した。
玲奈が続き、透が最後に入る。
重力が反転し、世界が裏返る。
耳鳴りとともに、視界が青に染まった。
そこは、空の底だった。
逆さまになった街。漂う記憶。水のように流れる風。
――“青の丘”の空。
透が息を呑む。
「ここが……残響の空か」
玲奈が指差す。
「見て。あそこ」
遠くに、真白の姿があった。
光の粒に包まれ、まるで空に浮かぶ影のように。
湊が叫ぶ。「真白――!」
その声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
だが、その瞳にはもう“人の色”がなかった。
空の青が、すべてを塗りつぶしていた。
「湊……ここへ来てはダメだ……帰って」
その声は優しく、しかしどこか別の何かの響きを含んでいた。
玲奈が呟く。
「もう、誰かに“取り込まれてる”……!」
空が裂けた。
無数の影が渦を巻き、湊たちを囲む。
陸の声が、どこかで響いた。
――逃げろ、湊。ここは、もう“俺たちの世界”じゃない。
風が爆ぜ、光が弾けた。
残響の空が、彼らを呑み込んだ。
そして、すべてが青に溶けていった。
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