本編

第1話:沈黙の誓い

 片田舎の小さな塔の書斎で、少年ティムは埃まみれの古文書を熱心に読んでいた。


「フィリアン師匠!」


 ティムは勢いよく立ち上がったが、窓辺で猫と日向ぼっこをしていた師匠、フィリアンは目を開けることすらせずに答えた。フィリアンは数百年を生きるエルフで、人類の英雄、大賢者サイラスのただ一人の親友だ。


「……何だい、騒々しい。またサイラスの新たな『奇行』でも見つけたのかい?」


「奇行ではありません!『沈黙の誓い』です!ほら、これを見てください」


 ティムが差し出したのは、建国期の歴史書だ。彼は最近フィリアンに弟子入りし、教科書には載らないサイラスの真実を知ろうと、塔の膨大な資料を研究していた。


「『大賢者サイラスは、その偉大すぎる力を封印するため、自らに沈黙の誓いを課した』……なんと尊いことでしょう!師匠、サイラス様はなぜ、そこまでして力を封印する必要があったのですか?そして、どうやってその誘惑に耐えたのですか?」


 サイラスは現代において「不滅の英雄」「建国の功労者」として崇められている。その中でも「沈黙の誓い」は、その超人的な精神力を象徴する伝説だった。


 フィリアンはようやく瞼を上げ、疲労を滲ませた目でティムを見た。


「ティム。お前が憧れるのは勝手だがね」


「はい!」


「…本当に、『本当の理由』を聞きたいのかね?」


 フィリアンの口癖だった。毎回聞くたびに、ティムの胸には嫌な予感がよぎる。しかし、ティムは真実を求める研究者としての矜持で頷いた。


「ええ、知りたいです。真実のサイラス様と向き合いたいんです!」


 フィリアンはため息をついた。


「あれはな、誓いでもなんでもない。ただの、個人的な羞恥心の隠蔽だよ」


 ティムはぽかんとした。書斎に静寂が訪れる。


「……は?羞恥心、ですか?一体何についての?」


 フィリアンは話を始めた。サイラスと彼がまだ若かった頃の、ある夏の日のことだ。


 サイラスは極度の人見知りで、特に人前で大きな声を出すことを極度に嫌っていた。ある日、彼が可愛がっていたペットのハムスター、名前を『ゴマ』というのだが、そのゴマが彼の魔道服のポケットから逃げ出してしまった。


「当時、サイラスはゴマを溺愛していてね。ポケットの中が一番安心できる場所だと信じていたんだ。それが、領主との重要な会議の直前に逃げ出した」


「まさか、それを探すために……」


 フィリアンは頷いた。


「会議の直前だというのに、彼は塔中を、庭を、森を駆け回り、『ゴマ!ゴマ!どこだゴマーッ!』と必死に叫び続けた。大声なんて出したこともないコミュ障のサイラスが、だよ。それはもう、普段の口数の少なさが嘘のような絶叫だった」


「それで、どうなったんですか?」


「見つからなかった。そして、彼は喉を潰した」


 会議の席で、サイラスは一言も発することができなかった。


「その様子を見た領主は、『サイラス殿は、あまりに偉大な真理を悟られたために、俗世の言葉を捨てる沈黙の誓いを立てられたのだ!』と勝手に感動してな。それ以来、サイラスは人前では一切話さなくなった。話せないのではなく、喉が痛くて、叫びすぎて恥ずかしかったから、声を出すのを断固として拒否したんだ」


 ティムは手に持っていた歴史書を落としそうになった。

 偉大すぎる力の封印。超人的な精神力。全ては、「ハムスターを探すのに叫びすぎて、喉を潰したことが恥ずかしい」という極度に些細でポンコツな理由だった。


「……待ってください、師匠」


 ティムは震える声で言った。「そ、そんな……あまりに……あまりにくだらない。しかし、その程度のことで、なぜ何十年も沈黙を貫けたのでしょうか?喉は治るでしょうに」


 ティムは必死に考察しようとする。きっとサイラスは、この沈黙に何らかの戦略的な意味を見出していたに違いない。あるいは、叫び続けたことで魔力暴走のリスクに目覚め、結果的に誓いを立てることになったのかもしれない。ティムは研究者として、この圧倒的な現実の軽さに抗おうとする。


「サイラス様は、きっと沈黙することで、『話術』ではない『真実の言葉』の重みを世界に示したかった…!」


「ああ、違うよ」


 フィリアンは、諦念を通り越した悟りの眼差しでティムを一瞥した。


「治った後も話さなかったのは、ただ単に、『一度偉大な誓いを立てた』と誤解された事実が、コミュ障の彼にとって、『人と会話する』という苦痛よりも遥かに楽だったからだ」


 沈黙は彼の防御壁になったのだ。


 ティムは崩れ落ちた。必死に探そうとした高尚な理由が、極度のコミュ障による楽な選択という、予想を遥かに下回る穴に落ちていった。


「……歴史とは、所詮、こんなもの、ですか」


 ティムはついに、最初の「達観」の境地にたどり着いた。


 フィリアンは猫の頭を撫でながら、静かに言った。


「そうだよ。お前が読む壮大な伝説も、毎朝ニュースで聞く大事件も、その根っこにあるのは大抵、『歯が抜けた』『カビた毛布』『ハムスター』といった極めて小さな個人的な動機だ。それがやたらと大きく伝わるのが、歴史。そして今でいう『バズ』というやつさ」


「……」


「だがな、ティム。そのくだらない動機のおかげで、サイラスは世界を救った。真実を知らないほうが幸せだと私が思うのは、くだらない真実を知っていても、その伝説が人々に希望や安心を与える魔法として機能していたからだ」


 フィリアンは微笑んだ。


「さあ。次は何について知りたい?建国記の『鉄壁の規律』か?あれもまた、くだらなくて最高だよ」


 ティムは深いため息をつき、静かに歴史書を拾い上げた。彼のサイラス研究は、始まったばかりだった。



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