第38話 窮地


 この一帯は北に不毛の沙漠をかかえる乾燥地帯ながら、周囲の山々から流れ出た雪どけ水はいつの間にか伏流水となり、その恵みをたたえる井戸があたりに散在している。いつだれが掘ったとも知れず昔からそこにある井戸は、旅人や遊牧の民の喉をうるおし、あるいは匪賊たちの憩いの場ともなるのだろう。

 だが鉄戈は休むどころではなかった。井戸のそばにつながれた馬のむこうに匪賊たちの姿を見、馬から引きおろされる阿怜とポーリャとを見た。そのようすに、ふたたび我を忘れたからだ。

 和子をいますぐ救い出し、和子に仇なす者をひとりも残さず斬りすてる。

 瞬時に加速して真っ直ぐ阿怜に向かうと、立ちふさがる敵をまず一人、太刀を振りおろして頭から両断した。

「待て!」

 叫んだのは阿怜のうしろにいた寅照いんしょうだ。寅照は部下に阿怜とポーリャの腕を押さえさせ、ポーリャの喉に刃を押しつけた。

「刀を下ろせえっ! 下ろさねばこいつらの首を刎ねる!」

 大声で喚ばわる寅照に鉄戈の動きが止まった。その視線で相手を焼こうとでもするかのように憎しみに燃えた目で寅照を睨みつけた。いかに鋭くにらもうとも阿怜をたすける足しにはならぬなどという計算は鉄戈には無縁だ。ただ闘いのなかに身を置いて生きてきた鉄戈は、寅照の脅しがうそではないと分かった。敵がその気ならば自分の手がとどくより先に、阿怜のちいさな首を掻き切ることができるだろう。

 鉄戈は立ちどまらざるを得なかった。ここで刀を置けば自分は死に、このさき和子を守る者はいなくなる。だが、刀を置かなければいま確実に和子の命はない。

 鉄戈は刀を足もとに捨てた。それから、

「ふたりを放せ」

 と感情の凍ったような低い声で言った。

「こいつを縛れ! ふふん。動くなよ」

 寅照は意気揚々だ。部下が鉄戈をうしろ手に縛るのをたしかめて、阿怜とポーリャを放した。ポーリャは縛られている鉄戈のほうへ駆けより、頬からながれる血をぬぐって耳もとにささやいた。

「こんなことになってごめん。隙を見て和子を逃がすわ」

 謝るのはちがう。罪は一瞬でも阿怜からはなれた自身にあるのだと鉄戈は思った。その罰ならいかようにも受けよう。ポーリャのうしろから追いついてきた阿怜が鉄戈を見あげる。左右に部下をしたがえ寅照がゆっくり近づいてくるのが他人ごとのように見える。風に砂が舞い、阿怜が言った。

「鉄戈、死んではならぬ。命令だ」

 鉄戈ははっとして阿怜を見かえした。その阿怜はすぐに視線をはずして周囲の様子をたしかめるように四方に視線をやった。和子を逃がすためならこの場で殺されても已むなしと悟っていた鉄戈だったが、阿怜の言葉に目が覚めた。

 なんとしても生きねばならぬ。和子がそう命ずるのだ、その命は実現されねばならぬ。

 半月刀をもった男に押されるままに寅照のまえに出た鉄戈は、縛めの固さをたしかめながら、まわりをとりかこむ男たちの配置に隙をさがした。背後にすこしはなれて立つ阿怜とポーリャには、女子供と侮ったかひとりの兵しかついていない。出会ったときから預言者のようにすべてを見透かす目をするポーリャが、いざとなれば阿怜をぶじ逃がすと鉄戈は信じた。

「なんだ、まだ鼻息が荒いな」

 寅照が勝者の驕りを見せあざけるように言った。うしろ手に縛られもはや闘う自由をうしなった男が敵意をむきだしに自分をにらむ視線を、寅照はむしろ恍惚として迎えた。

 ――こいつまだやるつもりだ。おもしろい。

 范雍はんようからの指示は「弱点を見つけよ」だった。そのために匪賊をけしかけ隊商を襲わせたどさくさに女と子供をさらってみたが、まんまと剣客も我が手に落ちた。殺せとの指示はなかったが、弱点をさがすうち殺してしまったとしても差しつかえない――と寅照は判断した。馬のむちをもって立ち上がると鉄戈のまえまで歩みより、憎々しげに自分を見おろす長身の鉄戈に冷笑を返して笞を振った。鉄戈の頬に一条の線が赤く腫れあがるが、鉄戈は顔色ひとつ変えずに寅照をにらみつづけた。

「笞は平気か」

 ますます気に入ったぞ――獣のような目をする剣豪をなぶって屈服させる愉しみに、寅照はみだりがましい笑みを浮かべた。

「抵抗してもかまわんぞ?」

 手の縛めで自由に動けない鉄戈を部下たちが殴るのを見ながら寅照はにやにやと笑った。

「刀は使うな」

 殴ってもなかなか倒れない鉄戈に業を煮やして、短刀を鞘から出した男に注意した。すぐ殺してしまってはつまらんではないか、分からん奴だ。

 鉄戈は殴られながら機会をうかがっていた。暴れている間に手首の縄はゆるんでいた。たとえ縛られ不自由な腕でも刀を持ちさえすれば血路を開くぐらいはできる――鉄戈は彼我の腕をそう見定めた。本当は頭領らしき男を斬りきざみ、阿怜にしたことへの酬いを与えてやりたいところだったがいまは阿怜を逃がすことが第一だ。そのためには弱ったふりして油断させると同時に、鉄戈をなぶることに飽きさせてはならない。乱戦のなかに必ず隙は生まれる。もの心ついたときから幾多の修羅場をくぐってきた鉄戈には乱戦こそが最も真価を発揮する場だった。武器の使用を禁じられたあとも帯に短剣を差したままの男ふたりを標的に定め、殴られながらその隙を待った。


「鉄戈――」

 殴られるがままの鉄戈に焦れて、知らずと一歩二歩まえへ足を出していた阿怜の襟をポーリャがつまんだ。ふり返った阿怜に目くばせするのは、行くなら逆の方向でしょ、という意味だ。阿怜は即座に理解した。鉄戈を放って逃げろというのではない――自分たちに注意を向けさせればすこしなりとも敵に隙が生まれる、そのわずかな乱れを鉄戈ならば活かせよう。

 ポーリャの視線のさきでは、馬が二頭ならんで人の営みにまるで無関心に草を食んでいる。阿怜がうなずくと、ポーリャは見張りの兵に声をかけた。

「ねえ兵隊さん?」

 気の抜けた目を向ける兵にふともものあたりを示して、

「さっきから脚が痛いのよ、どうにかなってないかしら?」

 ひらりと裾をからげてみせると、あいだから白い腿がのぞいた。油断しきった兵はうたがいもしない。にやけた顔を近づけるところへタイミングを合わせて、裏拳一発。兵は鼻から血を噴き出して、うめいて倒れた。いいぞ、とポーリャは得意げだ。それを合図に阿怜は草場の馬のほうへと走りだす、もう一人の見張り役があわてて追うのをポーリャがよこから足を引っかける。空は雲ひとつなく真っ青で、ヤルダンが陽炎のむこうにかすんでいる。

 足を引っかけられた兵はたたらを踏んだがすぐに体勢を戻して、阿怜ではなくポーリャに猛然と襲いかかってくる。あら、怒らせちゃったかな。でも狙いどおり。

 こんなの私と和子だけだったらむだな足掻きだろうけどそこに鉄戈が加わるなら話が変わる――鉄戈が刀をもちさえすれば、そのための隙さえあれば。そのチャンスを私たちがつくるのだ。

 果たして鉄戈をなぶっていた男たちは後方の異変に気づいた。寅照がおもわず、

「待て、逃がすな!」

 と上げた声に匪賊どもが一斉にふり返ったとき、待っていた隙が生まれた。鉄戈は短刀を提げたふたりに頭突きとうしろ蹴りを同時に入れると、倒れた男に馬乗りになって手探りで短刀をうばった。すかさず身を翻し、飛びかかってきた男たちをかわして砂のうえに立ったときには代わりにふたりが致命傷を負ってころがっていた。とはいえうしろ手に縛められていてはまだ鉄戈に分がわるい。常識で考えればそのとおりだ。男たちはいままで殴り放題だった相手に掴みかかろうとする、ところが鉄戈はさっきまでとはまるでちがう身のこなしでからだごと飛びこむと一番大柄の男に短刀を突きたて、肺をふかく突き刺された男はうめき声をあげて斃れた。

「刀だ、刀をもて」

「斬り殺してしまえ!」

 狼狽した者たちは言葉だけは威勢がいいが、だれも鉄戈に向かっていきはしない。いまはむしろ鉄戈が狩る者になったかのようだ。

 背を向けいそいで刀を取りに戻ろうとした男に信じがたい疾さで追いつくと、短刀で男の喉を掻き切った。いつの間にか手の縛めは切り解かれている。鉄戈はいま仕留めたばかりの男がつかむはずだった刀を手にとって、残った賊どもを見まわした。目を爛々と光らせ血を浴びたその姿はまるきり悪鬼だ。悪鬼ににらまれた男たちはもはや闘うどころではなくなった。算を乱し、馬に向けててんでに逃げはじめたが、それも多くは馬にたどり着くまえに鉄戈の刀に次々と斃れた。

 いちはやく寅照が馬に乗って遁れたのを憎悪の目で見送り、うしろをふり返るとポーリャと争っていた男はとっくに逃げて姿を消していた。いまや見わたすかぎり沙漠とヤルダンが目に入るばかりの大地に、生ある人といえばポーリャと阿怜と鉄戈の三人のみが残されていた。


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