黒崎探偵事務所‐ファイル09 夢幻遊園―消えた子供と、夢の国の真実―
NOFKI&NOFU
第1話 夢の国の誘い
午前十時。冬の東京は曇天の灰色に包まれ、街のざわめきさえ遠くに感じられる。黒崎探偵事務所の窓から差し込む光は、白く濁り、柔らかい。しかし触れれば確かに冷たく、まるで薄氷のように指先を刺した。
机の上には、まだ開きかけの報告書が積まれている。黒崎はペンを握ったまま止め、苦味の強いコーヒーを口に運んだ。味は、今日の空気のように冷たく、乾いた孤独のように舌に刺さる。
その静寂を破ったのは、スマートフォンの着信音だった。振り向くと、画面には「美咲」の文字。黒崎の眉がわずかに緩む。
「……美咲か」
声に出して呼ぶと、すぐに応答が返ってきた。
「もしもし、黒崎さん」
電話越しの声は、普段の張りがなく、かすれている。
『少し、話せますか……?』
「風邪か?」
『はい……熱があるみたいで。
なんだか、妙に眠くて……夢ばかり見るんです。
昨日から体が重くて、病院に行ったら、
一週間くらい休んだほうがいいって言われました』
「そうか。なら素直に従え。
仕事のことは気にするな」
『でも、黒崎さん……一人で大丈夫ですか?』
「お前がいないと、何と言うか
書類の山に埋もれるかもしれん。
だが、決して死にはしない」
電話越しに、美咲の小さく弾むような笑い声が聞こえた。その息づかいから、熱のせいか少し荒い呼吸も伝わってくる。
『すぐ戻りますから、ちゃんと食べて、
無理しないでくださいね』
「それはこっちの台詞だ」
(ただの風邪ではないかもしれないな)
心配と違和感の狭間で少し言葉を失った。
電話を切ると、事務所に静寂が戻った。黒崎は深く息を吐き、再び書類の山に視線を落とす。
美咲は優秀な助手であるだけでなく、常識の枠を軽々と飛び越える洞察力を持っていた。その才能は時に、危うい世界の扉を開く鍵にもなりうる。だが、手を伸ばす直前、事務所のドアが控えめに軋む音を立てた。
現れたのは、30代半ば、疲労と絶望に顔を覆われた男。
佐々木――自らをそう名乗った。ブランド物のジャケットは少し皺になり、瞳には眠れぬ夜の影が深く沈んでいる。
「黒崎探偵事務所さんで、
常識外の依頼も扱うと聞きまして……」
言葉を詰まらせながら椅子に腰を下ろす佐々木。
彼が抱えている依頼は、半年前にニュースを騒がせた事件だった――某巨大テーマパーク『ファンタジー・ランド』で起きた、4歳の娘・結衣の行方不明事件。
「警察はもう、ただの捜索願として処理したようです。
園内の監視カメラ、来場者の証言……。
全て調べ尽くした。でも、私にはわかる。
結衣は、ただ迷子になったのではない。
煙のように、忽然と消えたんです」
黒崎は煙草を灰皿に押し付け、声にならぬ沈黙で佐々木の言葉を受け止める。
「結衣が最後にいたのは、
マーチングバンドが演奏していた広場の前。
持っていたのは、
キャラクターの顔がついた赤い風船。
BGMはちょうどお昼のパレードの曲でした」
佐々木は震える手でカバンから写真を取り出し、広場の地図や園内の小物の写真を順に見せる。
その緻密な再現に、黒崎はひとつも見逃すまいと集中する。
BGMのタイミング、風船の色、パレードの順路――全てが意味を持つ伏線のように、脳裏に刻まれる。
「承知しました。依頼はお受けしましょう。
ただし、結果は保証できません」
佐々木は深く頭を下げ、
固く握った手に哀願の色を滲ませた。
依頼人を送り出した後、事務所に静寂が戻る。消えた痕跡、完璧な密室、そして不可解な失踪――黒崎の胸に淡い恐怖が広がった。
(なぜ、こんな単純な場所で……ただの迷子のはずだ……)
その夜、浅い眠りの中で夢が彼を捕らえる。鮮やかすぎる遊園地、巨大な城、赤黒い雲――どこか虚ろな子供たちの笑い声。
(夢か……現実か……いや、警告かもしれない)
赤い風船を手に踊る子供たち、無表情の輪の中心に蠢く黒い影。城の窓から光る赤い目が、じっと黒崎を見据えていた。
(あの城、あの赤い風船……何かが待っている……)
夢から覚めても、笑い声は耳に残り、湿った空気の匂いとして尾を引く。背後で微かな気配を感じ、黒崎は息を整えた――夢と現実の境界が、確かに揺らいでいる。
その夜を境に、『夢の国』は現実に牙をむき始める――。
次回 第2話「囁く遊園の闇(白い着ぐるみ)」
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