第5話 幻声の誓い

 森の朝は、驚くほど静かだった。


 夜露がまだ葉を濡らし、

 鳥たちの鳴き声が遠くで柔らかく重なり合っている。


 あの戦いから二日。

 人間たちの気配はもうない。

 森は再び、穏やかな呼吸を取り戻していた。


『ねぇ、セイル。ここの枝、少し曲げたほうがいいかな?』


「もう少し右だ。

 風の通りを作ったほうが音が響きやすい」


 レナが木の上で蔦を結び、枝を組み替えていく。

 俺はその下で、声の波を空気に刻んでいた。


 ――幻声陣(げんせいじん)。


 声の粒子を一定の波で巡らせ、音の網を作る。

 敵が近づけば、空気の歪みが即座に伝わる仕組みだ。


「これで半径二百メートルは感知できる。

 侵入者がいれば、森そのものが“知らせてくれる”」


『……なんだか、森が生きてるみたい』


「実際、生きてるさ。

 俺たちの声が、森の呼吸と混ざってる」


 レナが地面に降りてくる。

 髪に光が差し、額の汗がきらめいた。


『ねぇ、セイル。私、思うんだ。

 “声”って、きっと言葉だけじゃない。

 風の音も、水の流れも、全部――世界の声なんじゃないかな』


「いい考えだな」


 俺は微笑む。

 幻の表情はうっすらと光り、風に揺れる。


「なら、俺たちは世界の“翻訳者”だ。

 森の声を、人の言葉に変える役目」


『……うん。素敵だね、それ』


 少しの沈黙。

 木漏れ日の中、レナがふと空を見上げた。


『ねぇ、セイル。

 もしいつか、私の声が届かなくなったら――どうする?』


 不意に問われて、少し言葉を探す。


「俺は、“声”そのものだ。

 お前が呼べば、どんな遠くからでも届く」


『……そうだといいな』


 レナは微笑み、胸の前で手を組んだ。

 その仕草が、まるで祈りのように見えた。


 ――穏やかな時間が流れていた。


 だがその静けさを破るように、

 森の奥から微かな異音がした。


「……止まれ」


 俺が声を潜めると、レナもすぐに息を殺した。


 幻声陣の波が、かすかに揺らぐ。

 何かが近づいている。

 だが、それは人間の足音ではなかった。


 柔らかく、けれど鋭い。

 爪で土を掻くような音。


 獣――だ。


『ウルク狼……?』


「いや、違う。

 もっと静かで、もっと……意志を持っている」


 俺は音を広げ、気配を包み込む。

 すると、木々の間から姿を現したのは――

 一体の黒い獣だった。


 しなやかな体。

 黄金の瞳が、真っ直ぐこちらを見据えている。

 ウルク狼に似ているが、その毛並みは漆のように滑らかで、

 どこか人の気配を纏っていた。


 レナが息を呑む。


『セイル……喋ってる。心の中に声が……』


 俺にも、確かに“音”が届いた。


〈――来タ、ノカ〉


 それは言葉というより、響きそのもの。

 低く、遠くから染み込むような音。


「お前は……何者だ?」


〈名ハ……モウ無イ。

 昔、人ノ言葉ヲ知ッタ獣〉


 声はゆっくりと、だが確かに意味を持っていた。


〈森ガ呼ンデイタ。

 “声ノ者”ガ現レタト〉


 レナと俺は顔を見合わせた。


『声の者……セイルのこと?』


「だろうな」


 黒い獣は一歩、こちらに近づいた。

 敵意はない。

 その瞳には、深い疲労と――どこか懐かしさがあった。


〈人ハ、声ヲ捨テタ。

 言葉ハ在ルノニ、聞コエナイ。

 ソノ愚カサヲ、オレハ知ッテイル〉


「お前も……人間を?」


〈ムカシハ、人ノ傍ニイタ。

 ダガ、声ヲ奪ワレ、森ニ棄テラレタ〉


 その言葉の奥に、わずかな怒りが混じる。


〈オレハ、モウ喋レナカッタ。

 声ハ、魔ト呼バレタ〉


 レナが小さく震えた。


『……同じだ、私と』


〈オマエハ……聞コエルノカ〉


『うん。森の声も、あなたの声も』


 獣は目を細め、静かに鼻を鳴らした。


〈――懐カシイ。

 人デアリ、森ヲ聞ク者〉


 その声音には、微かな安堵が混じっていた。


〈“声ノ者”。オレハ名ヲ捨テタ。

 ダガ、今ハ……名ガ欲シイ〉


 レナが小さく笑みを浮かべた。


『じゃあ、私がつけていい?』


〈……〉


『“ロゥ”。

 静かな音の響きが、あなたに似てる』


 獣――ロゥは、ゆっくりと目を閉じ、うなずいた。


〈ロゥ……良イ音ダ〉


 森に風が吹き抜ける。

 木々がさざめき、まるでその名を祝福するかのように響いた。


 ロゥが再び、俺の方へ視線を向ける。


〈“声ノ者”。オマエノ声ハ、森ヲ変エル。

 ソノ力、制エナケレバ、森ハ壊レル〉


「制御……?」


〈声ハ刃。

 願イヲ乗セレバ、世界ヲ裂ク〉


 ロゥの言葉が、胸に深く響いた。

 確かに、あの兵長を倒した時――

 俺の声は、ただの音ではなく“力”そのものだった。


『セイル……』


「大丈夫だ、レナ。

 俺は声で人を殺すつもりはない。

 この森を、守るために使う」


 ロゥが少しだけ笑ったように見えた。


〈ナラバ――森ハ、オマエヲ受ケ入レル〉


 そう言い残し、ロゥは木々の奥へと姿を消した。

 その背に、静かな風が吹く。


 レナがぽつりと呟いた。


『ねぇ、セイル。

 私たち、森の一部になれるのかな』


「なれるさ。

 声は風に溶け、音は木々に染み込む。

 ――俺たちは、森に“誓い”を立てたんだ」


 レナがうなずく。

 その手が、小さく握られた幻の手を包み込む。


『じゃあ、誓おう。

 この森を守る。

 森の声と共に、生きるって』


 その瞬間、

 幻声陣が淡く光り、森全体に音の波が走った。


 風の音が優しく変わる。

 まるで森そのものが――二人の誓いを、聞いているかのように。


 俺たちは静かに目を閉じ、

 その“声の世界”の中で、新しい一歩を踏み出した。

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