1.3
「ほれ、着いたぞ」
祖父はそう言ってとある場所に車を止めた。その頃にはもう夕方の五時を過ぎたあたりで、地平線に見える海の端に太陽が沈みかけていた。母と祖父が車外に出たので、僕もそれに付いていくように車のドアを開け、地面に降り立つ。
目の前にあったのは海の見える小高い丘に建つ、木造二階建ての大きな日本家屋だった。
「昼過ぎにトラックが来てお前らの荷物を置いてったから、空いてる部屋に移動させておいたぞ、だから先に母さんに手え合わせてこい。……会いたがっとるはずだからの」
「ありがとう父さん。もう十二年になるからね……母さんはカンカンだろうな…」
バツが悪そうに苦笑する母の後ろを歩く。
広い庭には大きな金木犀が一本植わっており、太い枝から垂らされたブランコがわずかに吹く風に揺られ小さく動いていた。家のそばには井戸があり、鉄ポンプに港町特有の赤錆びが付いている。
ここで母は幼少を過ごし、これからは自分も同じようにこの場所で大人になっていくんだという事実に、僕は感慨に耽らずにはいられなかった。
そして同時に、叶うならもっと早くこの場所に来ることができていればどれほど良かっただろうと強く思った。
玄関で靴を脱ぎ、床の軋む音を感じながら居間に繋がる廊下を歩く。木の匂いに混じって、イ草の香りがほんのりと香ってくるのが分かった。
「…………」
畳に正座し、仏壇に手を合わせる。網戸で区切られただけの縁側から、すこし冷たい夜の風が吹いてくる。仏壇には、祖母のものと思しき遺影と位牌、そして、葬儀の時に使われたであろう飾りが、仏壇の横に寂しく並べられている。
僕が四歳になる年、今から十二年前に祖母が亡くなるまでは、毎年この場所を訪れていたそうだ。
けれどその当時のことを鮮明に思い出すことはもう出来ないし、強いて覚えていることといえば、何人もの黒い服を着た大人たちが今自分がいるこの部屋に集まっている風景だけで、当時の僕にはそれがとても怖いことのように思えたことぐらいだ。
そういえば、恐らく葬儀の参列者と思しき人々の中に僕と同じ年のころの少女が一人いたような気がするが、とにかく覚えていることと言ったらそれくらいで、多くのことを忘れてしまっているという事実が少しだけ悲しい。
それなのに……
それなのに僕の胸の奥底に眠るこの感情だけは、それくらいの時間が過ぎても消えるどころか強さを増しているように思え、それを思い出す度に僕は強い嫌悪を抱く。
どうしていつも消えないでほしいものばかり消えていくのに、消えてほしいものはいつまでも僕の心を占拠するように離れないのだろう。
決めたじゃないか。もう終わりにすると。
普通であらないと。
全部無かったことにすると。
そうすれば平穏に生きられるのだから。でないとまた誰かを傷つけてしまうのだから。
もう嫌だ。忘れないと。忘れない…と……。
「…ま、りょうま…、龍馬!」
誰かに肩をゆすられて我に返った。声がした方に目をやると、隣で母が心配そうな顔をして僕を見ていた。祖父も母の声を聞きつけてか、仏間の扉の所に立っている。
「大丈夫? あなたまた…。ほら、口開けて。水飲みなさい」
「うん…。もう、大丈夫。ごめん、心配かけて」
そう言って、母から水の入ったコップを受け取り、口に運んだ。そうして自分がまたひどく冷たい汗をかいていることに気が付いた。呼吸も浅く、息を切らした時のように苦しい。
「……長旅で疲れたんだろう。ほれ、飯出来たから三人で一緒に食べよう。そんで今夜はゆっくり休め。とにかくお前らは休め。面倒はしっかり見てやるわ。だからしっかり休め」
祖父にそう促されるままに、その夜はゆっくりと休むことにした。都会育ちの僕に合わせてか、夕食はカレーだった。少し冷えるくらいの五月の夜だったので、温かいその味がとても心に染みた。
風呂が沸くまでの時間、祖父と軽く雑談した。祖父とまともに話をしたのはこれがほとんど初めてだったが、彼の優しい口調は聞いていてとても安心できた。
祖父が風呂に行き一人になると僕の順番が回ってくるまで縁側で月を眺め、声をかけられたので風呂に入り、しばらく湯に浸かる。夜風に当たって体が冷えていたので風呂の暖かさが体によく染みわたった。
風呂上がりに牛乳を飲み、自室として与えられた二階の空き部屋に布団を敷き、旅の疲れもあったのでその日は早々に眠った。
その夜、僕は夢を見た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます