夜中に窓を叩くのは
澤田慎梧
夜中に窓を叩くのは
『――ねぇ。こんな話、知ってる?
一人暮らしの女性のところに現れる、「血塗れの幼女」って怪談。
女性がね、夜中に部屋でくつろいでると、窓からドンドンと音がするの。まるで誰かが叩いてるみたいに。
不審に思ってカーテンを開けるとね、頭から血を流した幼女がベランダに立っているの!
その顔は見るも無残に腫れあがっていて、目は虚ろ。
それでね、窓をドンドンと叩きながら、女性にこう言うの。
「ここ、開けて……おなかが空いたよ……」って。
そして、口を大きく開けたかと思うと――』
***
「わぁっ! ちょい待って! その話ストーップ!」
「なによ、美絵。ここからがいいところなのに」
私が話を遮ると、波留はその色っぽい唇を不満げに尖らせた。
声が大きすぎたのか、なんとなく周囲の客からの視線を感じる。ちょっと恥ずかしい。
いくら騒がしい夜のファミレスとはいえ、少し油断し過ぎていたのかもしれない。
波留の趣味は都市伝説などの怪談収集だ。月に一度くらいの頻度で、集めた話をこうして私に披露してくれている。
いつもなら私も喜んで聞くのだけれども、今日の話はちょっと私に効きすぎた。
「波留さあ、よりにもよって『一人暮らしの若い女』な私に、そんな怖い話する?」
「え~? 所詮は都市伝説だよ~? それも、ネットとかに転がってるやつ。娯楽は娯楽として消費しないと~」
「一人暮らししたことのないアンタには分からないかもだけど、ふとした瞬間に怖くなる時があんのよ。夜中に変な音とか、普通に聞こえることあるし」
「え、なになに? どんな音~?」
波留が「興味津々」と言わんばかりに身を乗り出してくる。
彼女のこういう貪欲なところは嫌いではない。
「色々よ。防音が甘いのか、どこかで水が滴ってる音とか、『お愉しみ中』の声とか、ペット禁止のはずなのに犬や猫の泣き声とか」
「な~んだ。ただの生活音じゃない」
「殆どはね。でもね、たまに子どもの泣き声とか聞こえてきたりもするのよ」
「……美絵のマンションって、単身者向けのワンルームだよね?」
「うん。大家さんむっちゃ厳しくて、ルール破ったら容赦なく追い出されるよ」
「シ、シングルマザーはお目こぼしがある、とか?」
「いんや? 前に追い出された人、知ってる。慈悲はない」
「マジか~」
――大家さんの名誉の為に言っておくと、一応次の物件を不動産屋に探させてから追い出してはいる。けれども、どちらにせよルール破りは許されないのだ。
「じゃあ、その子どもの泣き声って……」
「それ以上言わないで。私も考えないようにしてるんだから」
二人の間に沈黙が降りる。
結局、その後は怪談で盛り上がる気にもなれず、解散となった。
波留と別れ、安ワインで火照った体をクールダウンさせながら帰路に就く。
既に四月だというのに、風は強く冷たい。こういう時、温もりを分かち合える恋人でもいればいいのだけれども……絶賛独り身中だった。
「波留に泊りに来てもらえばよかった」
マンションのエントランスを抜けてから、今更ながらそんな呟きを漏らす。
波留のことだ、茶化したりせず泊りに来てくれるとは思う。けれども、私のちっぽけなプライドがそれを許さなかった。
「二十六にもなって、怪談が怖くて友達に泣きつくなんて」と。
「たっだいま~」
抜けきらぬ酒の勢いも手伝って、無人の我が家に呼びかける。
もちろん、返事はない。むしろ、あったら怖い。
そのまま、流れるようにシャワーを済ませ、髪を乾かしながらテレビをつける。出来るだけ騒がしく、くだらないバラエティ番組を探し、ギリギリ近所迷惑にならない音量で垂れ流す。
スマホの充電も忘れない。今夜は寝ている間もずっと、何か楽しい音楽を流しておくことにしよう。
冷蔵庫から安いビールを取り出し、「人間を堕落させるソファー」に沈み込みながら、ぼんやりとテレビを眺める。
画面の中では、顔と名前の一致しないお笑い芸人が、鉄道に関する愛を語っていた。「鉄ちゃん」というやつだろうか。
鉄道には何の興味のないので、BGMとしては丁度良い。
――そのまま、数十分が過ぎた。
エアコンの利いた室内は程よく暖かく、興味のないテレビ番組の内容も相まって、優しい眠気が訪れていた。
(そろそろ寝ようか)
そう思い、ソファーから身を起こした時のことだった。
――ドンドン。
どこからか、何か硬い物を叩く音が聞こえてきた。
――ドン、ドン。
まただ。そう遠くではない。かなり近い。
――ドンドンドン。
今度は三度。やはり近い……というか、すぐ傍だ。
現実から目を逸らすのを止め、窓の方を見やる。あの音は間違いなく、私の部屋の窓を叩く音だった。
「誰か……いるの?」
恐る恐る窓の外に呼びかける。
ふし不審者なら、気付かないふりをしてすぐに一一〇するべきだろう。けれども、この時の私は全く冷静ではなかった。
酔ってもいたし、何より恐怖で混乱していたのだ。
(まるで……まるで、さっき波留が話してた怪談の通りじゃない!)
半ばヒステリー気味になりながら、ソファーから立ち上がる。
そのまま、生まれたての小鹿のような足取りで窓に近付き――遮光カーテンを一気に開き――私は見た。
『ここ、開けて……』
か細い声。風に舞うボサボサの長い髪。
小さな体にボロ雑巾のような服。
窓を叩く握りこぶしはどす黒く変色している。
顔は所々青く腫れあがり、ぱっくりと割れた額からは血が滴っていた。
愛らしさの欠片もない、無残な姿の幼児がそこにいた。
(そんな……こんな……こんなことが、現実な訳が……)
あまりの恐怖に全身の毛が逆立ち、高熱に侵された時のような悪寒が身体を走る。
足が震えて、一歩も動けない。
早く――早くしなければならないのに、指一本動かせない。
窓の外でガラスを叩き続けるズタボロの幼児の姿から、目が離せない。
『おなか、空いたよ……』
ひび割れた唇から漏れ出たその言葉に、私は声にならない悲鳴を上げた。
***
私の通報で警察と救急が駆けつけたのは、それから数十分後のことだった。
窓の外の幼児は無事に保護され、程なく、その母親が逮捕された。私と同じフロアに住んでいた人だ。
部屋の中で子どもを密かに育て、日常的に虐待を行っていたそうだ。
大家さんにバレないように、子どもが声を出そうとしては殴り、物音を立てては殴るを繰り返していたらしい。
子どもは満足に食事も与えられず、保護されてからもずっと「おなかが空いた」と空腹を訴えていたのだとか。
あの小さな身体で、ベランダ伝いに私の部屋の前まで逃げてきたのだ。相当に必死だったはずだ。その心細さ、恐ろしさを思うと心が痛む。
幼児虐待なんて、どこか遠い場所での出来事だと思っていたが、まさか自分の身近で起こっていたなんて。
生きているのが不思議なくらいボロボロの幼児が、目の前で必死に助けを求める。あの時感じた恐ろしさを、私は生涯忘れることはないだろう――。
***
「――ってことがあったわけよ」
「はえ~。まさか、私が話した怪談そっくりのことが、その日の晩のうちに起こるなんてねぇ」
お馴染みの深夜のファミレスで事の顛末を話すと、波留は感心したような、それでいて呆れたような声を上げた。
虐待されていた子どものことを案じてか、その整った眉が悲しげに歪んでいる。
「そらぁ、ビビるわ~」
「ビビるなんてもんじゃないわよ! ショック死するかと思ったもん!」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて周囲の様子を窺う。
――幸い、今日は私達以外に客はいないらしく、不審そうな視線を浴びることはなかった。
「ま、虐待親は逮捕されたし、子どもは無事保護されたしで、一件落着、なんだけどさ……ただ、ちょっとね」
「えっ? まだなんかあるの?」
「うん、ちょっとね」
――後日、警察からの事情聴取を受けた時のことだ。
「以前から何か不審なことはなかったか?」と警官に問われた私は、こう答えていた。
「そういえば、時々子どもの泣き声が聞こえていました」と。
すると、その警察官は不審者でも見るような目つきになりながら、こう言ったのだ。
『それはおかしいですね。同フロアの他の住人さんは、子どもの泣き声なんて聞いたことない、と仰ってますよ。逮捕した母親も、バレたくない一心で泣き声は絶対に漏らさないようにしていた、と主張しています』
その話を聞いた瞬間、私の心臓は間違いなく一瞬だけ止まった。
「……その話、ガチ?」
「ガチもガチ」
「美絵さあ……今日は、うち泊まる?」
「そうする……」
「持つべきものは友だなぁ」などと感慨にふけりながら、私は「早く引っ越そう」と決意を新たにするのだった。
(了)
夜中に窓を叩くのは 澤田慎梧 @sumigoro
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