第5話 旅立ち
夜明けの光が、焼け落ちた村を淡く照らしていた。
空はまだ灰を孕み、煙の名残が漂っている。風が吹くたびに、炭と血の匂いが入り混じり、焦げた木片が灰の中から小さく弾けた。
村の輪郭はもはやなかった。家々は黒い骨組みだけを残し、畑は焦土と化している。あの井戸のある広場でさえ、今は瓦礫と死体の海だった。
アシェルは、ひび割れた指で土を掘っていた。
鍬はとうに折れ、今は素手だ。爪が剥がれ、掌の皮は裂けて赤黒く濡れている。それでも掘る。何度も。
爪の間に焼けた土が入り込み、血と混じって黒い泥が滴る。
掘って、掬って、埋める。それを何十回も繰り返す。
それしか、今の自分にできることがなかった。
辺りには焼け焦げた村人の骸が転がっている。
半身を喰い千切られた男。黒く炭化し、誰かもわからぬ姿で転がる老人。
そして、目を開いたままの少女の死体が、崩れた柵の下で固まっていた。
夜明けの光が、それらを無慈悲に照らす。まるで、天がこの地獄を見逃すまいとしているかのように。
アシェルは、食い残された母の身体を抱え上げた。
腕は焼け、胴は裂け、軽い。あまりにも軽い。
その手には焦げた布が握られていた。見覚えがある。アリアの髪飾り。
それを見た瞬間、胸の奥に亀裂が走った。
喉の奥が熱くなり、息が震える。涙が落ち、土に染みた。
「……ごめん……母さん……アリア……」
声が掠れた。
それでも、埋める。震える指で、妹の遺骸を拾い集めた。
手のひらほどの肉片、焦げた布、骨の欠片。もうどれがアリアだったのか、見分けがつかない。
それでも、一つずつ丁寧に土に埋めていく。
まるで壊れた人形を修理するように。
途中で何度も手が止まり、そのたび嗚咽が喉を塞いだ。
三日かかった。
何も食べず、何も飲まず、何も語らず、ただ掘り、埋め、祈った。
血で黒く染まった指先は感覚を失い、涙も乾いて出なくなった。
それでも動いた。止まれば崩れてしまうから。
丘の上には粗末な墓標が並ぶ。
黒い土の中から、白い骨が少し覗く。風が吹くたび、墓標が軋み、小さな音を立てた。
その音が、まるで村人たちの微かな息遣いのように聞こえた。
アシェルは母と妹の墓の前に立った。
その手には革袋。中には、ギルバートが遺した霊鋼と、熊を象った鎧の残片。
もう、何も残っていない。
母も、妹も、村も、空も。
だが――ギルバートの声だけが、胸の底で消えずに残っている。
「錬金術師に……届けろ……次なる……守護者を……生み出すために……」
その言葉が、最後の灯火だった。
「……俺には、もう何もない。
母さんも、アリアも、村も、全部……燃えた。
生きていたって、もう意味なんてない。
でも――あの人が残したものだけは、俺が届けなきゃいけない。
それを手放したら、きっと俺は、もう本当に終わる。
……だから行くよ。
どうせ、この命なんか、もう俺のものじゃないんだ。」
一日目
村を出た瞬間、世界の色が変わった。
山道は崩れ、木々は瘴気に蝕まれ、鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
足を踏み出すたび、焦げた地面が音を立てる。
背中の袋は重く、肩の骨に食い込んだ。
それでも進むしかない。
あの声が、まだ耳の奥で囁いている。
――「……ホントウノ……エモノハ……オマエノ……ココロ……」
二日目
焚き火を起こしても、炎が心を暖めることはなかった。
食料はほとんど残っていない。
干し肉を噛んでも砂の味しかしない。
喉が焼け、息を吸うたびに痛みが走る。
夜空を見上げても、星はひとつもなかった。
ただ、母の声だけが時折聞こえる気がした。
「逃げて」
「生きて」
その言葉は、もう守れなかった命の残響のようだった。
三日目
眠ることもできず、岩陰でうずくまる。
夢の中で、アリアが笑っていた。
だがその笑顔はすぐに砕け、災魔の牙に消える。
目を開けば、月のない空。
涙は出なかった。もう、出尽くしていた。
四日目
体は重く、足は鉛のようだった。
それでも歩いた。
歩かないと、自分がもう人間でなくなる気がした。
ギルバートの声が、風のように背を押す。
「錬金術師に届けろ」
その言葉が、魂を繋ぐ唯一の鎖だった。
五日目
空はどす黒く、太陽は影のようにぼやけている。
足の感覚がなくなり、指先も震える。
頭の中で、あの言葉が何度も反響する。
「……オマエ……ノコス……クヤシメ……ウマクナル……」
母を、妹を殺した災魔の声。
それが呪いのようにまとわりつき、心の奥を腐らせていく。
生きる意味が、どこにあるのか分からない。
それでも、足は止まらなかった。
六日目
水も尽きた。
唇は割れ、血が滲む。
それでも、袋を抱えた手は離さなかった。
「……俺は……守らないといけない……」
声はかすれ、風に溶けた。
母や妹のためではない。
ギルバートのためでもない。
ただ、自分の心を、闇に喰われないために。
七日目
夕暮れが落ちる山道。
靴底は裂け、指先は凍え、呼吸をするだけで胸が痛んだ。
それでも、歩いた。
ようやく木々の隙間から、平地と街道が見えた。
その先に小さな町の影が霞んでいる。
「……あと少し……」
掠れた声で呟いた瞬間、乾いた笑い声が背後から響いた。
「おい坊主……ずいぶんといい荷物背負ってるじゃねぇか」
影が三つ、木立の間から現れる。
汚れた鎧、刃こぼれした剣、膝まで泥にまみれた靴。
目だけが異様にギラついていた。
「ひとり旅か? その袋、置いてけ」
アシェルは思わず後ずさった。
喉が乾ききって声が出ない。
腰の古びた剣に手を伸ばすが、力が入らない。
「……どけ……俺は急いでる……」
声は震えていた。
山賊たちはその弱さを嗅ぎ取ると、口角を吊り上げる。
「おい聞いたか、“急いでる”だとよ!」
「ははっ、だったら早く置いてけや!」
一人が突進してきた。
拳が頬を打ち抜く。
視界が一瞬、白く弾けた。
地面に倒れ込み、口の中に砂と血の味が広がる。
「やめろっ……!」
立ち上がろうとした瞬間、背中に蹴りが入る。
肺の奥まで空気が抜け、咳と血が同時にこぼれた。
「おとなしくしろや!」
刃が光った。
ナイフの切っ先が胸の前に迫る。
本能だけが動いた。
転がるように身をひねり、泥の上を滑って避ける。
次の瞬間――
ナイフが、アシェルの背の袋を裂いた。
ビリッ!
乾いた音とともに、霊鋼が地面に散乱する。
夕暮れの光を受け、淡い蒼光があたりを照らした。
「な……なんだ、これ……!」
「光ってやがる……! 宝か!? 売れば一生遊べるぞ!」
山賊たちの目が、欲に染まる。
アシェルは這うように霊鋼へ手を伸ばす。
だが、頭を踏みつけられた。
「うぐっ!」
泥が頬に押し付けられ、呼吸が止まりかける。
山賊が刃を振り上げ、ナイフの切っ先が再び光を掠めた――その瞬間。
地面が光った。
土の下から淡い紋が浮かび上がり、魔力の熱が空気を震わせた。
「な、なんだっ……!?」
次の瞬間、大地が裂け、岩の鎖が山賊たちの足を絡め取った。
「うわぁぁぁぁっ!? なにこれ――く、くそッ!」
悲鳴が夜気を裂いた。
岩が唸りを上げて締まり、骨の軋む音が響く。
その向こうから、ブーツの音が近づいてきた。
ゆっくりと、確実に。
「……まったく、こんな所で何をしているのかと思えば」
深い青の外套を纏った女性が現れた。
銀髪が風に揺れ、瞳には氷のような光が宿っている。
指先が小さく動くたびに、足元の錬成陣が脈動した。
「子どもを襲うなんて……くだらない真似を」
声は静かだが、怒りがこもっていた。
地面の紋がさらに輝き、岩の鎖が山賊たちを地面に叩きつける。
「ひ、ひぃっ……!」
「やめっ、助けてくれぇ!」
叫びは無視された。
女の視線がふと地面の霊鋼へ向く。
その瞬間、瞳が見開かれた。
「……まさか、これは――」
彼女は駆け寄り、アシェルの手にある霊鋼を見つめる。
蒼白い光が、彼女の頬を照らした。
「あなた、これをどこで……!」
問いかけに、アシェルは答えられなかった。
口を開こうとしたが、血が喉を塞ぐ。
「……だい、じょうぶ……です……」
掠れた声を最後に、膝が崩れる。
それでも霊鋼だけは、離さなかった。
女性は慌ててその身体を支え、落ちた紙片を拾う。
そこには、地図と名前。
彼女は息をのんだ。
「これは……」
手の震えを抑え、アシェルを抱き上げる。
「……私はリィナ。錬金術師よ」
その言葉が遠く響き、アシェルの世界が暗く溶けていった。
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