第1話 炎に沈む村
空は濁った墨に染まり、稲光が雲を裂いた。
その光を、少年は黙って見上げていた。
昼も夜も区別がなく、世界は薄闇に沈んでいる。
辺境の小さな村――フリーネ。
その名を呼ぶ者も、今ではほとんどいなかった。
風が吹けば木々が軋み、湿った土と焚き火の煙が入り混じる。
人々は肩を寄せ、静かに火を囲んでいる。
村の中心に古びた井戸があり、
その傍らで、ひとりの少年が弓を肩に担いでいた。
アシェル。十七歳。
まだ少年の面影を残しながらも、父を亡くして以来、
この村を支える“働き手”として、黙々と生きてきた。
褐色の肌は労働の証。
乱れた黒髪の下で光る琥珀の瞳は、
疲れを滲ませながらも、どこか真っすぐな意志を宿していた。
「アシェル、また森に行くのか?」
背後から声をかけたのは隣家の老人だった。
アシェルは軽く振り返り、口元に笑みを作る。
「ああ。食料を獲らなきゃ、冬は越せないだろ。」
笑顔は少しぎこちない。
それでも、誰かが笑わなければ村は止まってしまう。
そう信じていた。
「お兄ちゃん!」
甲高い声が風を割った。
栗色の髪を揺らして、妹のアリアが駆け寄ってくる。
まだ十にも満たない、小さな命。
青い瞳は村の誰よりも澄んでいて、
泥に濡れた地面さえ宝石のように映していた。
「今日こそ一緒に行く! もう子どもじゃないもん!」
両手を腰に当てて言い張るアリアに、
アシェルは苦笑しながら頭を撫でた。
「子どもじゃない奴は、昨日スープこぼしたりしない。」
「こ、こぼしてない!」
「はいはい。母さんの手伝いして、いい子で待ってろ。」
唇を尖らせたまま、アリアは指切りを差し出す。
「約束だからね!」
その指先を取って、アシェルは静かに笑った。
「――ああ、必ず帰る。」
母が戸口から顔をのぞかせた。
日焼けした頬に細い皺。だがその瞳は温かい。
「無理はしないでおくれ。あんたが倒れたら、この家は終わりだよ。」
アシェルは軽く頷き、肩の弓を叩いてみせた。
「大丈夫さ。父さんが残してくれたこいつが、まだ働いてくれる。」
母は小さく笑い、息子の背を押した。
「……帰ったら、温かいスープを作っておくよ。」
アシェルは一度だけ家を振り返る。
小さな窓の向こうに、妹と母の姿。
それを胸に焼きつけ、森へと足を踏み入れた。
――森は、昼なお暗い。
湿った葉の匂い。
靴底が泥に沈むたび、水音が静かに響く。
木々の隙間から差し込む光は細く、黒い霧のような瘴気が漂っていた。
アシェルは低く身をかがめ、耳を澄ませる。
獣の気配。風の向き。湿り気の濃度。
森の声を聞くように呼吸を整える。
弓を構え、弦に指をかける。
葉の擦れる音に反応し、わずかに視線を送ると――
一頭の小鹿が、苔むした岩陰で草を食んでいた。
矢羽根が風を裂いた。
音もなく放たれた矢は、首筋に吸い込まれるように突き立つ。
小鹿は一度だけ足を震わせ、静かに倒れた。
アシェルは息を吐き、胸の鼓動を鎮める。
「……すまない。村のために、もらう。」
矢を抜き、血を拭う。
その手には、迷いよりも祈りがあった。
生を奪うことの重さを、彼は毎回、噛みしめている。
だが、その静寂は長く続かなかった。
――ズシン。
大地が震えた。
小さな地鳴りが次第に強まり、木々が唸る。
――ズシン。 ズシン。
枝が砕け、鳥が飛び立つ。
耳を裂く咆哮が夜気を切り裂いた。
アシェルの背が凍る。
その声を、彼は知っていた。
父を奪い、村を焼いた――災魔の咆哮だ。
黒煙が森を押し流すように迫る。
息をする間もなく、アシェルは駆け出した。
枝を払い、岩を飛び越え、ただひたすらに村へ――。
フリーネの村が見えたとき、そこは炎の渦だった。
家々が崩れ、地が裂け、赤い空が村を呑み込む。
「アリア! 母さん!!」
叫んでも返事はない。
焦げた匂いと絶叫が、風に溶ける。
炎の向こう、異形の影が立ち上がった。
四足の獣。骨がねじれ、黒い舌を垂らした顔。
その背後に、さらに巨大な影が動く。
牛の頭に鉄の外殻、燃える角。
歩くだけで、大地が悲鳴を上げた。
アシェルは震える手で弓を引いた。
だが矢は届かない。
恐怖に、膝が地を叩く。
――そのとき、地面が光った。
炎の下、複雑な文様が一瞬で広がる。
眩い螺旋が空を裂き、中心から“影”が立ち上がった。
それは人の形をしていた。
漆黒の鎧に包まれ、背には熊の幻影。
その足元には、金属の火花が散る。
「村の者は下がれ!」
声は雷鳴のように響いた。
炎を裂いて、守護者が立っていた。
黒鉄の鎧、兜と鎧に熊の意匠の装飾。
手にした大剣が、燃える空を映す。
「来い、化け物ども――!」
災魔が吠え、炎と光が衝突した。
世界が震え、風が爆ぜる。
アシェルはその光景を、ただ呆然と見つめた。
その瞳の奥に、焼き付くような輝きが宿る。
――あの瞬間、彼はまだ知らなかった。
この出会いが、やがて自らの“運命”になることを。
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