感謝

案山子

感謝

――日常の当たり前と思えることに感謝していると、日々の生活はもっと幸せないろどりに満ちるはずです!


 などと、一人で暮らすアパートの一室で就寝前しゅうしんまえの歯磨き中に見ていた夜のテレビニュースで『アナタはもっと幸せになれる!』という余計なお節介せっかいと言わざる得ない特集コーナーである女性心理カウンセラーが力説していた。


「そんなんで幸せになれたら、誰も苦労はしないって……」


 俺は皮肉めいた言葉を口にすると、洗面所に行って口をゆすぎ、テレビと照明を消して静寂に包まれた自室で眠りにつくのであった




―――翌日―――


 ピピピ、ピピピ、ピピピ、ピピ――。


 枕元から朝の到来を無機質な電子音で告げてくるスマホのアラーム音を、布団に入ったまま腕を伸ばして人差し指で黙らせる。


「…………朝か」


 覚醒しきれていない意識の中、気怠けだるさで形作られた呟き声が室内にそっと落ちていく。


 これからまた日常が始まるのだ。

 社会人三年目としての憂鬱な日常が。


「あぁ~。どうもモチベーションが上がらないなぁ」


 自然と愚痴が零れる。だが無断欠勤という暴挙に出る度胸など微塵もない俺は、出勤の支度をするため鉛のような重量を持った心身を引き摺ってなんとか布団から這い出る。


「そう言えば昨日――」


――日常の当たり前と思えることに感謝していると、日々の生活はもっと幸せないろどりに満ちるはずです!――


 昨夜テレビで見たあの心理カウンセラーの熱弁を思い出す。

 感謝するだけで幸福になれるとは未だ懐疑的かいぎてきではあるが、


「まぁ、物は試しだ。やってみるだけやってみるか」


 まずは一日の始まりを応援してくれる澄み切った朝日に感謝しようとカーテンを開く、窓の外には朝焼けの空と眩しい光――などはなく、灰色の雲が空を覆い、どしゃ降りの雨が街に降り注いでいた。


「……ま、人生なんてこちはの都合通りにならないのが常だからな」


 こちらのぼやきに賛同したかのように、耳をつんざく雷鳴を響かせて、一筋の雷が眠りから覚めたばかりの街に落ちていった。





 身支度を済ませ、おもったるい足取りで自宅を出る。

 雨の勢いは相変わらず強く、アスファルトと傘に激しくぶつかってくるが、それでも行きたくもない会社を目指して最寄りの駅へと向かう。


「こんな悪天候でも電車が運行できるのは運転手が安全に運転してくれているからなんだよな。よし、乗車したら心の中で感謝しよう!」


 そんな決断を人知れず胸に秘め、俺は雑踏ひしめく駅の構内へと足を踏み入れた。





『ただいま落雷の影響で信号機が故障したため、電車の運行を見合わせております』


 同じ内容を飽きることなく繰り返す構内アナウンス。

 電光掲示板でんこうけいじばんには通常なら表示される電車の発車時刻に成り代わり、警告色の赤やオレンジに染まった『運転見合わせ』や『運休』の文字がきらびやかに点滅していた。


「…………とりあえず運転手さんの感謝は後日に延期だな」


 眼前の現実に諦念とも達観ともいえない呟きを漏らしながら、俺は冷たい雨がいまだ降りしきるなか、長蛇の列と成して代行バスを待つ人々の一員に加わるのであった。





「……………ハァ」


 鉄よりも、鉛よりも、あまつさえ人の生命よりも、重々しいため息を吐く。


 電車の運休により代行バスでの出勤のため遅刻するむねを上司に電話連絡したら「こんな予期せぬ事態も予測して行動しなければ駄目だろ」とハチャメチャな文句を言われ、なんとか会社に出社して直接上司に遅刻したことを謝罪すると「大丈夫大丈夫。君が遅刻しても会社に損害はないから」と切り口鋭い嫌味も言われた。


 あの上司は昨今巷さっこんちまたで取り立たされている『ハラスメント』という概念がいねんをどこかに置き忘れてしまっているのであろうか。


 でなければあんな非道い言葉を瞬時に思い浮かべ、躊躇ちゅうちょすることなくこちらに投げつけてメンタルをズタボロにはしないはずだ。


「……もうあの人の元で仕事したくないな……」


 本音がポロリと漏れる。


 昼休み。極悪上司から逃れるため――という紛れもない本心は見て見ぬふりをして、俺は飲食店で昼食を取ろうと朝から降り続けていた鬱陶うっとうしい雨が上がったばかりの社外へと出ていた。


「こうなったらなにか美味しいものでも食べて気分転換するか。 食べ終わったら作ってくれた人にも心の中で感謝しよう」


 決意したなら即実行。俺は自分調べで脳内ランキング不動の一位に君臨くんりんする絶品ラーメンを提供してくれるラーメン屋へと足を向けた。





『本日臨時休業』


「…………………………」


 無情な一文が綴られた張り紙が貼られた店の出入り口で、俺は迷子の子供のようにその場に立ち尽くしていた。


 あり得ない。ほんとうにあり得ない。

 どうして今日はこうも不運ばかりが続くんだ? 流石さすがの俺も人目もはばからず大声で号泣するぞ。


「……なんて、実際に泣いていたら昼休みが終わるか。コンビニでパンでも買って食べよ」


 俺は絶品ラーメンと職人に対する真摯しんしな感謝の気持ちに別れを告げ、早々に近くのコンビニへと入店するのであった。





「結局、今日一日なににも感謝しなかったな」


 ――夜。


 就寝前しゅうしんまえの歯磨きを洗面所でしながら、俺は洗面鏡せんめんきょうに映る自分自身に独りごちた。

 感謝されることは滅多にないが、感謝することも中々難しいものである。


「感謝をすれば幸せになれるっていうのはやっぱり眉唾物まゆつばものかな」


 一応の結論を導き出すと、俺は歯磨きを終え、そのまま部屋の照明も消灯してベットに入り込んだ。


 目を瞑り、意識が夢の世界へと溶けていこうとした時、


「あ」


 今頃になって気付く。

 もっとも感謝しなければならない相手がいることを、それは――


「ありがとうな、俺。気が滅入ることばかりの一日だったけど、それでも今日という日を乗り越えてくれて」


 自分自身に感謝の言葉を贈ると、俺は今度こそ意識を夢の世界へと沈ませたのであった。

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