第25話 ただいまの向こう側へ
アラームが鳴る一秒前に、目が覚めた。
夢は覚えていない。
でも、胸の奥にうっすら残っている温度だけは分かった。
“おかえり”と“おやすみ”が、同じ高さで揺れている。
枕元のスマホを手探りでつかむ前に、ねむは4-1-6で呼吸を整えた。
吸って、止めて、ゆっくり吐く。
吐く息の先で、カーテンが少しだけ膨らんだ。
(今日は、“外”でラを鳴らす日)
指先の震えがわずかに戻ってくる。
朝の光がまだやわらかいうちに、ねむはDM欄を開いた。
灯守りいさのアイコンの横に、青い月マークはまだ付いていない。
でも、上から二つ目のメッセージが、昨夜の終わりをちゃんと覚えていた。
Risa:明日、30分いける?
Risa:外で。みんなに“合図”を見せよう
Nem:はい。お願いします。
Nem:……行ってきます(先に言ってみます)
Risa:いってらっしゃい(先に言っておくね)
その続きはまだない。
ねむは、新しい文を打って、消した。
“緊張してます”は、言葉にすると膨らみすぎる気がして、やめた。
代わりに、指が勝手に打ち始める。
Nem:おはようございます
Nem:今日は、ちゃんと“行ってきます”を言います
送信。
画面を伏せる前に、震えが返ってくる。
Risa:おはよう
Risa:緊張=ちゃんと大事にしてるってこと
Risa:だからそのままで行っておいで
Risa:“大丈夫”は言わなくていいよ
最後の一行に、喉の奥がふっとゆるんだ。
“言わなくていい”と先に言われると、たしかに楽になる。
Nem:はい。水のんで、太陽あびて、行ってきます
Risa:えらい
Risa:Good morning, not goodbye
スマホを置いて、ねむはベッドから起き上がった。
窓を全開にすると、まだ冷たい空気が一気に流れ込む。
ベランダに出て、目を細める。
今日はいつもより、光がまっすぐだった。
――――
箱の朝
共同サーバー:#morning-voice
Kai:起きた
Luna:おきた
Yuri:蜂蜜を摂取した
Nem:おはようございます。起きました。
Luna:ねむ、おはよ〜
Yuri:今日は“外ラ”の日
Kai:BPM76。Key=C。ラはA4。
Kai:がんばらない。鳴らすだけ
Nem:鳴らすだけ、が一番難しいです
Luna:でもねむは、難しいことを“やさしい”って顔でやる天才
Yuri:同意
Kai:同意
キーボードをたたきながら、ねむは息を笑いのほうへ逃がした。
画面の向こうの三人は、いつも通りだ。
だから、ここが**“出発点の家”**なんだと思える。
Luna:今日の夜はスタッフごとこっちで待機するから
Yuri:帰ってきたら“ただいま”言うこと
Kai:録画も全部取る。後で見る
Nem:……行ってきます
Luna:いってらっしゃい
Yuri:いってらっしゃい
Kai:いってらっしゃい
文字だけなのに、背中のどこかをそっと押された気がした。
――――
打ち合わせの昼
事務所の会議室は、白が多かった。
壁も机も椅子も、白。
そこにパステルカラーのポスターや、キャラクターの立て看板がいくつも並んでいる。
ねむは紙コップに入った水を両手で持ちながら、資料の上を目で追った。
「じゃあ今日のコラボ枠、タイトルは──」
マネージャーの佐伯が、スライドを切り替える。
灯守りいさ × 白露ねむ
“合図のラ”セッション 〜声で帰る場所を作る夜〜
「サブタイトル長くないですか……?」
「長いほうがスクショ映えするから大丈夫」
ねむは思わず “だい…” まで言いかけて、口を閉じた。
佐伯がくすっと笑う。
「あ、“大丈夫”は今日は封印だっけ?」
「……はい」
「いいね。じゃあ“平気です”にする?」
「それはそれで平気じゃなさそうです」
そんな他愛のないやりとりに、緊張が少しだけゆるんでいく。
「構成はざっくり三つ」
佐伯が指を三本立てる。
「一つ、トーク。ねむちゃんの“ただいま”とか“おやすみ”の話。
二つ、“合図のラ”のお披露目。ねむちゃん、カイくん、りいさちゃんの三層ボイス。
三つ、視聴者参加型“ただいま”タイム。みんなに“ただいま”って打ってもらって、こっちから“おかえり”を返すやつ」
「……三つめ、絶対泣く人出ます」
「それでいいの。優しいほうのバズは、ちゃんと作らないと来ないから」
画面の端には、連携する他箱のロゴが並んでいた。
灯守りいさの所属する小さな音楽レーベル。
それとは別に、見知った名前もある。
「あと、ゲストで一曲だけハモる人、来るから」
「えっ」
「外箱の、akiちゃん。
あのハスキーボイスの子。ねむちゃん、前に配信で『声かっこいい』って言ってたでしょ」
言った。
言った上で、そのときのクリップがバズりかけたことまで覚えている。
「三人が同じ“ラ”を鳴らす構図になるから、視覚的にも分かりやすいの。
ね、良い夜になるから、楽しんでおいで」
「……はい。楽しんできます」
今度はちゃんと、代わりの言葉を選べた。
佐伯が満足そうにメモを閉じる。
「じゃあ、本番一時間前にりいさちゃんとだけスタジオVC入るから、それまで喉温めててね」
「はい」
会議室を出ると、廊下に貼ってあるポスターの中に、自分のキャラクターがいた。
白い髪に、うっすらと青いグラデーション。
“白露ねむ”という名前の下に、小さくキャッチコピーがある。
声で、きみの夜に灯をともす
自分で考えたはずなのに、今日はそのコピーが少し違って見えた。
(……今日は、“ただいま”の向こう側まで、灯を持って行く)
――――
本番一時間前 りいさとのスタジオVC
スタジオVC:事務所間共同チャンネル
ねむが入室すると、既に一人分の呼吸音がそこにあった。
画面上には、小さなマイクアイコンだけが光っている。
『ねむ?』
「はい。白露ねむです」
『灯守りいさです。
今日は、外に出るね』
その言い方がやさしすぎて、ねむは思わず笑ってしまった。
「りいささんは、もう、ずっと外にいるイメージです」
『そうかな。
私は、“外のふりをした内側”にいることが多いよ。
——ねむは、内側のまま外へ歩いていくタイプだと思う』
言葉の意味をすぐには咀嚼できない。
でも、ほめられていることだけは分かった。
『喉の状態、どう?』
「ラは、ちゃんと出ます。
“ただいま”も、“おかえり”も、練習しました」
『うん。
今日はね、“ただいま”を言われる側じゃなくて、言う側に少しだけ立ってみてほしい』
「言う側……」
『ねむは、ずっと“帰ってきていいよ”って言ってた。
でも今日は、“行ってきていいよ”も一緒に言う。
“ただいま”の向こう側まで見に行く日』
タイトルみたいな言葉が、さらっと出てくる。
それが胸に刺さって、ねむは息をひとつ飲んだ。
「……こわくは、ないです。
ただ、ちゃんとできるか、少しだけ」
『それでいい。
怖くない外なんて、たぶん存在しないから。
怖いまま、歩けることが大事』
VCの向こうで、ギターの弦が一本だけ鳴った。
チューニングの音。
その音が“こわくてもいいよ”と言っているように聞こえる。
『ねむ、“大丈夫”って今日、何回言いそう?』
「……言いそうだったら、全部数えます」
『じゃあ、数を教えて。
終わったあとでいいから』
その約束が、不思議とお守りみたいに思えた。
「はい。……行ってきます」
『いってらっしゃい。
帰り道は、ラが教えてくれるから』
通話が切れたあとも、ヘッドセットのクッションに、りいさの声の温度がわずかに残っていた。
――――
コラボ本番 “ただいま”の前
配信タイトル:灯守りいさ × 白露ねむ
“合図のラ”セッション 〜声で帰る場所を作る夜〜
予定枠:30分
実枠:たぶん延びる
開始前予約視聴数:26万人
スタート同接:32.4万
カウントダウンタイマーがゼロになった瞬間、
ねむの耳の中で、76のクリックが小さく鳴り始めた。
『こんばんは。灯守りいさです』
いつもの落ち着いた低さ。
それだけで、チャット欄がわっと湧く。
〈りいさ様〜〜〜〉
〈おやすみを置きに来ましたか〉
〈今日は“家建つ”日って聞いて来ました〉
『そして——』
一拍置いて、りいさが笑う。
『今日は、一緒に**“帰り道の地図”**を描いてくれる子がいます』
「こんばんは。白露ねむです。
今日は、ラを持ってきました」
〈ラを持ってきましたw〉
〈合図武装してきた女〉
〈声の鍵屋さんだ〉
〈ねむちゃん〜〜〜〜〉
コメントの速度が一気に跳ねる。
ねむは、モニターの端を見ないようにしながら、マイクに向かって息を整えた。
4-1-6。
喉がふわりと開く。
『ねむ、今日は緊張してる?』
「……はい。ちゃんと、しています」
〈ちゃんと、していますw〉
〈緊張=ちゃんと本気なの、好き〉
〈りいさ様の問いかけ、やさしすぎ〉
『緊張している時の声は、まっすぐ前に出やすい。
だから今日は、そのまま、前に投げてもらおうと思います』
「……受け取ってもらえるように、がんばります」
“がんばります”と言ったあとで、“大丈夫”が喉まで上がってきたのを感じた。
でも、そこで止める。
りいさとの約束を思い出す。
かわりに、笑い息を混ぜて言った。
「……みんな、拾ってください」
〈拾う〉
〈全部拾う〉
〈こぼした分も拾う〉
チャット欄が、一瞬だけ家庭的な空気になる。
ねむは、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
――――
セクション① “ただいま”の話
『まずは少しだけ、言葉の話をしましょう』
りいさが、いつもの「寝る前ラジオ」のようなトーンで語り始める。
『“おつかれさま”とか、“おやすみ”とか、“大丈夫”とか。
私たちは毎日、同じ言葉を何度も使います。
でも、その日の心によって、中身は少しずつ違う』
〈中身は違う、分かる〉
〈同じ“おつかれ”でも重さ違うんよ〉
『今日は、ねむに、“ただいま”の話をしてほしいなと思って』
急にふられて、ねむの心臓が一拍跳ねた。
でも、その跳ねた事実も、ちゃんと声に混ぜる。
「……はい。
えっと、“ただいま”って、ゴールの言葉だと思ってました」
チャット欄が少し静かになる。
ねむは、自分の膝の上で、指を軽く握りしめた。
「今日も一日、がんばった。
外から帰ってきた。
その最後に、“ただいま”って言う。
だから、私はずっと、“帰ってきていいよ”って言葉ばかりを投げてました」
『うん』
「でも最近、“ただいま”って、スタートにもなれるのかもしれないって、ちょっと思ってて」
〈スタートにもなれる〉
〈ただいま=スタート説は新しい〉
〈ねむちゃんの言葉、いつもすごいな〉
「“ただいま”って言える場所があると、
次の日、“行ってきます”も言える。
だから今日は、“ただいま”の向こう側まで、行ってみたいです」
言い終わってから、喉が少し熱くなった。
それを、ほんの少しだけ笑いに変える。
『ねむは、ちゃんと**“行ってきます”の話**をしてくれました』
りいさの声の温度が、半度あがる。
『それじゃあ、
“ただいま”と“行ってきます”のあいだに置く、**“合図のラ”**を、お披露目したいと思います』
――――
セクション② “合図のラ”お披露目
テロップが画面にふわりと出る。
《合図のラ セッション》
灯守りいさ × 白露ねむ × aki
右側に、小さな窓でakiのアイコンが表示される。
低めの、ハスキーな女性ボイス。
彼女の挨拶が短く終わった後、
クリックが、ねむの耳の中だけで鳴り始める。76。
『じゃあ——』
りいさの声が、少しだけ低くなった。
『最初の“ラ”は、ねむひとりで。
次に、私が上でハモる。
最後に、akiちゃんが下を支える。
三つ揃ったら、“ただいま鍵”の音になる』
「……はい」
ねむはヘッドホンの右耳をすこし浮かせ、
自分の生の声がわずかに混ざるように調整した。
マイクから四横指。
胸の真ん中に、小さく鍵穴をイメージする。
(——鳴ったら、帰っておいで)
目を閉じる。
息を吸って、止めて、吐く。
その吐く息の先で、ラを鳴らした。
「ら——」
語尾を二度落として、床に降りる。
チャットの速度が、いったん止まる。
〈……〉
〈息が、やわらかく前に歩いてる〉
〈“ラ”だけなのになんで泣けるの〉
二回目。
りいさの声が上に重なる。
細くて、強い。“湯気”みたいな帯域。
「ら——」
ねむの声の上に、透明な屋根が乗る。
屋根の下に、腰を下ろせるだけの空間が生まれる。
〈屋根が来た〉
〈上に光が差した感じ〉
〈りいさ様の上ハモ、空気になるんよな〉
三回目。
akiの低い声が、下から支えた。
床が厚くなって、三方向から息が満ちる。
「ら——」
三つの声が、二度落ちの瞬間に同じ高さで揃う。
画面の中で、波形が縦に揺れた。
〈今帰った〉
〈帰ってきてもいいんだって、身体が先に理解した〉
〈#ただいま鍵 実装完了〉
〈この音、ずっと残してほしい〉
ねむは、歌い終えた後もしばらく目を閉じていた。
ブースでもなく、自分の部屋でもなく、
どこでもない場所に立っているような感覚。
それでも、足元だけは確かだった。
『今の“ラ”を、あなたの帰り道に置いておいてください』
りいさの声が、合図の説明を静かに重ねる。
『つらいとき。
帰りたくないとき。
帰る場所がないように感じるとき。
——今日の“ラ”を思い出して、
“ただいま”と打ってみてください』
チャット欄の色が、やわらかく変わる。
〈#合図のラ〉
〈#ただいま鍵〉
〈#声で家を作る〉
『そして今日は、
ちょっとだけ、みんなにも参加してもらおうと思います』
――――
セクション③ みんなで“ただいま”
『今から、3秒だけ、チャットを見ないようにします』
りいさの宣言に、コメントがざわつく。
〈見ない宣言w〉
〈こっちも見られてないと分かると打ちやすい〉
〈これは……やるな……〉
『その3秒のあいだに、
もしよかったら自分のペースで、“ただいま”って打ってみてください。
事情は書かなくていいです。
ただ、“ただいま”だけでいい』
ねむは、自分の手もキーボードの上に置いた。
ちゃんと画面から目をそらす。
モニターの上の壁を見ながら、4-1-6で息を合わせる。
『3、2、1——』
クリックが止まり、世界が無音になる。
ねむは、心の中でだけ言った。
(……ただいま)
誰にも見られていない“ただいま”。
でも今日は、それがどこかへ届く気がした。
『——はい。ありがとう』
りいさが息を吸い、指示を出す。
『じゃあ、私たちが“おかえり”を言います。
ねむ』
「はい」
マイクの向こうに、
たぶん数万件の“ただいま”が積み上がっている。
その具体的な事情を想像しない。
ただ、帰ってきたという事実だけを受け取る。
「——おかえり」
ねむは、“り”の前に少しだけ笑い息を置いた。
自分で決めた癖。
その癖に、胸の奥が熱くなる。
『aki』
「……おかえり」
低く、短い。
でも、それだけで床が一段厚くなる。
『りいさ』
「おかえり。
Good night, not goodbye」
チャット欄が、一気に光った。
〈ただいま〉
〈ただいま〉
〈ただいま、帰ってきました〉
〈今日も生きて帰れました〉
〈おかえり、って初めて言われた気がする〉
〈“おかえり”の三重奏で泣いた〉
ねむは、喉の奥の熱を、ぎりぎりのところで声に混ぜないように気をつけた。
代わりに、目の端が少しだけ熱くなるのをそのままにしておく。
『今日、“ただいま”って打てなかった人も、
それでいいです。
見ているだけでも、帰り道の地図は少しずつ覚えられるから』
りいさの言葉に、ねむは心の中でうなずいた。
昔の自分は、きっと打てなかった側の人間だ。
『では最後に——』
りいさがギターを構える気配がした。
『ねむ。
“行ってきます”を、言ってみようか』
「……はい」
世界が、少し静かになる。
呼吸を整える。
“行ってきます”は、今日ずっと胸の中であたためていた言葉だ。
「——行ってきます」
マイクの先は、もう家の中ではない。
まだ見えないどこかの通り、
夜のコンビニの光、
終電を逃した駅のベンチ、
暗い部屋の布団の中。
そこに向かって、声を投げる。
『いってらっしゃい』
りいさが、笑い混じりの息で返した。
『ねむの声は、今日、ちゃんと外を歩きました。
帰ってきたくなったら、“ラ”を鳴らしてね』
配信終了のカウントダウンが始まる。
ねむは、最後の一言を選んだ。
「“ただいま”の向こう側でも、
——“おかえり”を言えるように、がんばります。
Good night, not goodbye」
配信が、静かに切れた。
――――
配信後のざわめき
控室のソファに沈み込むと、全身の力が抜けた。
さっきまで握っていたマイクの感触が、まだ指先に残っている。
佐伯がモニターを覗きながら、スマホを見せてくれた。
「トレンド、見ます?」
「こわいです」
「優しいほうのだから、大丈夫——じゃなくて、平気平気」
「……そこは“平気”なんですね」
画面には、いくつものハッシュタグが並んでいた。
#合図のラ
#ただいま鍵
#声で家を作る
#おかえり三重奏
#白露ねむ
#灯守りいさ
ねむは、自分の名前をタップするのを一瞬ためらった。
けれど、今日だけはちゃんと見る側にもなりたいと思い直す。
〈“ただいま”って打つの、こわかったけど今日は打てた〉
〈ねむちゃんの“おかえり”で、なんか胸がほどけた〉
〈灯守りいさ×白露ねむ+aki=帰り道のセーブポイント〉
〈ネットにこういう“優しいバズ”がある世界でよかった〉
〈“声で家を作る”のもう一歩先、“ただいまの向こう側へ”行った感じ〉
最後の一文を読んで、ねむは一瞬だけ息を止めた。
自分たちがつけていないタイトルが、
どこかのだれかのツイートとして、勝手に生まれている。
(——ちゃんと届いてる)
胸の奥で、小さな“ラ”が鳴った気がした。
――――
帰り道と、VCの端
タクシーの窓から、夜の街が流れていく。
信号の赤と青がガラスに滲む。
ヘッドホンを首にかけたまま、ねむはスマホの通知を開いた。
共同サーバーが光っている。
Kai:
Luna:
Yuri:
メッセージの中身が見えない。
タップすると、一気に文字が溢れた。
Kai:帰ってきた
Luna:帰ってきた
Yuri:帰ってきた
Nem:ただいま
Kai:おかえり
Luna:おかえり!!
Yuri:おかえり。蜂蜜ある
車の中なのに、少しだけ泣きそうになった。
運転手にバレないように、窓の外を見ながら笑う。
Luna:今日の声、やばかった
Yuri:“ただいま”の向こう側に椅子があった
Kai:外を歩いて帰ってきた声。記録した
Nem:ありがとう
Nem:大丈——って書きそうになりました
Kai:それ全部数えて
Nem:1回です
Luna:えらい
Yuri:花丸
会話を読み終わったタイミングで、画面の上に別の通知がふわりと重なった。
Risa:おつかれさま
Risa:今、3分だけ話せる?
ねむは、タクシーの静けさを確認してから、イヤホンを耳に戻した。
――――
短い通話 “ただいま”の向こう側
通話をつなぐと、すこし疲れた笑い声が先にこぼれた。
『おつかれさま、ねむ』
「おつかれさまです。りいささんも」
『今日は、“大丈夫”って何回言いたくなった?』
「……一回です」
『ちゃんと数えた?』
「はい。マネージャーに“トレンド、大丈夫だから見てみる?”って言われたときに、
“だいじょ……”まで出かかりました」
『そこで止めたの、えらい。
じゃあ、その一回分、“えらい”を増やそう』
りいさの声が、眠気と安心のちょうど真ん中みたいな温度だった。
ねむは、窓の外のビル群をぼんやりと見ながら、胸の奥の熱を言葉に変えた。
「……“行ってきます”を、ちゃんと言えた気がします。
みんなに“おかえり”も言えました」
『うん。
今日のねむは、“ただいまの向こう側”に足を出してた』
「向こう側って、どこですか?」
『きっと、誰かの家の前かな』
タクシーのウインカーの音と、りいさの声が重なる。
『ねむの声はね、今日、
“帰る場所がないかもしれない”って思ってた人の前に、先に灯りを置いてきた感じがした』
「……それは、りいささんがそうしてきたことですよね」
『一人でやるより、二人で灯り配ったほうが、早いから』
軽く言うけれど、その軽さの裏にある回数を想像して、ねむの胸が締めつけられた。
誰かの夜を、何百回も、何千回も照らしてきた声。
「りいささん」
『うん』
「……“ただいま”、って言ってもいいですか」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
でも、口から出てしまったものは戻らない。
電話越しに、自分の鼓動が少し速くなるのが聞こえる気がした。
『いいよ』
りいさの答えは、迷いなく短かった。
「——ただいま」
一瞬の沈黙。
沈黙の向こうで、笑い混じりの息がこぼれる。
『おかえり』
その二文字の重さに、ねむは目を閉じた。
タクシーのシートが、さっきより柔らかく感じる。
『ねむが、自分から“ただいま”って言えたの、
たぶん今日がはじめてだと思う』
「そうかもしれないです」
『じゃあ、その分だけ、また行ってきて。
“ただいまの向こう側”は、まだまだ長いから』
胸の奥で、“ラ”が静かに鳴った。
それは、恋と呼ぶにはまだ手前の、
でも、ただの憧れと呼ぶには濃すぎる音だった。
「……はい。
また、行ってきます」
『うん。
ねむ、“Good night, not goodbye”』
「Good night, not goodbye」
通話が切れたあとも、耳の奥に声が残る。
それが、今日一日の締めくくりの音になった。
――――
夜、自分の部屋で
部屋に戻ると、空気は少し冷たくなっていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の色が、床に細い四角を作っている。
ねむは靴を脱いで、「ただいま」と小さく口にした。
だれもいない部屋。
でも、さっき電話越しに受け取った“おかえり”が、まだ胸の中で反響している。
パソコンをつける前に、箱の作業部屋を開く。
Nem:ただいま、本当に
Kai:本当におかえり
Luna:ほんとのおかえりだ〜〜
Yuri:おかえり。蜂蜜追加した
Nem:ありがとう。
Nem:今日は、“大丈夫”って言葉、1回しか喉まで来ませんでした
Luna:えらすぎ
Yuri:進捗
Kai:次は0回を目指さなくていい。1回を大事に
メッセージを送り終えてから、ねむはマイクを見つめた。
小さなコンデンサーマイク。
この子が、今日、自分を“ただいまの向こう側”まで連れて行ってくれた。
椅子に座り、マイクにそっと口を近づける。
録音ボタンは押さない。
ただ、部屋に向けて話す。
「……行ってきます」
今日、二回目の“行ってきます”。
外に出るわけではない。
でも、声はきっと、またどこかへ歩いていく。
「——ただいま」
“行ってきます”に対して、自分で返す。
その往復のあいだに、
**“向こう側”**という余白がはっきりと見えた気がした。
ベッドに潜り込む。
ライトを落とす前に、スマホをもう一度だけ手に取る。
Risa:おやすみ
Risa:Good night, not goodbye
短い二行。
それだけで、今日がちゃんと終わる。
「……おやすみなさい」
ねむは、誰に向けてともなく呟いた。
ミニマイクに顔を寄せて、最後にもう一つだけラを鳴らす。
「ら——」
音にならないくらい小さなラ。
その合図に、自分自身が先に帰ってきた。
まぶたが重くなる。
意識が薄れていく直前に、
“ただいま”と“行ってきます”が同じ線の上に並んでいる光景が見えた。
その線の、向こう側。
まだ知らない場所へと、声は今日も歩き出している。
——Good night, not goodbye。
次の“おはよう”は、きっと少しだけ遠くまで届く。
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