第24話 声が重なる場所
朝、目覚ましの一回目で目が開いた。
眠気はあるのに、起き上がるまでの距離が昨日より短い。
枕元のスマホに指を伸ばす前に、4-1-6で息を整える。胸骨の裏側が温かくなって、指先の震えが落ちる。
(“おやすみ”が先に置かれてるから、“おはよう”に迷わないんだ)
DM欄を開く。青い月がひとつ、薄く光っていた。
Risa:おはよう。起きれたら、それだけで花丸
Risa:昼、歌のこと、15分でどう?
ねむは「はい」と打つ前に、もう一拍だけ息を置いた。**“大丈夫”の代わりに、今日は“ありがとう”**を選ぶ。
Nem:おはようございます。ありがとうございます。
Nem:昼、お願いします。
送信。画面を伏せる。
窓を開けると、薄い雲の向こうで陽射しが均等に散っていた。ベランダに出て、五分。掌をひらく。空気が手の中から逃げる音がした。
――――
午前の箱VCは、コーヒーの香りみたいな会話で始まっていた。
Kai:クリックを76にする
Yuri:息の速度がそれなら76
Luna:ねむ、今日も“春の声”だね
Nem:春って何色?
Luna:#桜ミルク
Kai:色で言うな
ねむは笑う。笑い声が半音だけ高い。
カイが、デスクをトン、トンと二拍、指先で叩いた。気づく人しか気づかない合図。
Kai:昼は外じゃなくて裏で合わせよう。
Kai:りいささんと重なるところ、試す
Nem:はい
返事を打ってから、ねむは画面の右上――共同サーバーの招待の脇に、昨夜と同じ名前が見えるのに気づいた。
灯守りいさ:オンライン。
胸の中で、何かが一拍だけ速くなる。
――――
昼の15分(歌のこと)
VC2(入室音なし)
『ねむ?』
「はい。白露ねむです」
りいさの声は今日も低めで丸い。
ねむはマイクから四横指分、顔を離して、ポップノイズを避ける。
『昨日の“帰り道の地図”、聴いたよ』
「ありがとうございます」
『今日は、その地図の曲の真ん中を探そう。
——“合図の音”を決める』
「合図の音?」
『“ただいま”の前に、必ず鳴る音。
それを置けば、人は勝手に帰ってくる』
りいさが軽くギターを弾いた。
F → G → Em、そしてCで一度、呼吸を止める。
ねむの胸が、コードに合わせてふっと緩む。
『今、ねむの中で鳴ってる音は?』
ねむは、喉の横に指を添えた。
4-1-6。
胸の奥で、透明な粒がひとつ、ラに近い位置で光った気がした。
「……ラ、です」
『良い。じゃあ、ラを合図にしよう。
“ラが鳴ったら帰っておいで”』
ねむは小さくうなずく。
りいさの笑いが、ミルクみたいにやわらかく混ざった。
『ハモは上に三度で乗る。
でも語尾は二度に落として、“家に降りる感覚”を残す。
息は前じゃなくて上へ押し出す——風船を浮かせるみたいに』
「……やってみます」
ねむは口を開いた。
ラ。
りいさが上に三度で絡む。
二人の声が、部屋の空気をふわりと持ち上げる。
『語尾、落として』
「ら——い(二度)」
『そう。そこに**“ただいま”の鍵**がある』
鍵、という言葉に、ねむの指先があたたかくなった。
帰ると開くは、たしかに同じ形をしている。
『次。子音の手前に空気を置く。
“た・だ・い・ま”の“だ”を、0.1秒待って。
——相手の目を見るみたいに』
昨日、言われたこと。
“大丈夫”の代わりに“目を見る”。
ねむは、言葉の向こうにだれか一人を置いて、0.1秒を待った。
「た(息)だ(鍵)いま」
『うん。誰かに届いた』
りいさの声が、ほんのすこしだけ低くなる。
**“届いた”**の判定は、波形でもMIXでもなく、人でしかできない。
『最後に、ねむだけの癖を入れて。
たとえば、“おかえり”の“り”で笑う』
「笑う?」
『笑ってから言う。“り”の直前に笑いの息だけ。
ねむがねむになる』
ねむは、やってみた。
声の前に、笑いの息だけを置く。
りの頭で、胸の奥が熱くなった。
『はい。花丸』
返事が出ない。
出せなくて、息だけが半音上がる。
『15分、ここまで。
ねむ、水。そして太陽。そして、ごはん』
「……はい」
『えらい』
通話が切れたあとも、部屋の中には合図のラが薄く残っていた。
――――
裏あわせ(箱×共同作業)
共同チャンネル:#合図のラ(作業ログ)
Kai:BPM76。Key=C。合図=A4
Yuri:語尾二度落ち→**“家”**の落とし
Luna:#ただいま鍵 #おかえり笑い息
Nem:合図、練習します
Kai:クリック送る
Yuri:ミックス前提:-1.5dBで空気層
Luna:語尾“い”だけリバーブSend 7%(短め)
設定が、ゆっくりと部屋の空気みたいに整っていく。
ねむはクリックを耳に入れ、ラの音を何度も触っては離した。
(——鳴ったら、帰っておいで)
その言葉が、たぶん自分に一番、効いている。
――――
夕方・スタジオ前
スタジオの外階段は、風ですこしだけ寒い。
ねむが階段を上りきる前に、扉が内側から開いた。
カイが出てくる。
いつもの無表情。だけど今日は、瞳の温度が半度だけ高い。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
「“合図のラ”、聴いた」
「どうでしたか」
「帰ってきた」
ねむは、言葉に一拍、遅れて笑った。
カイの指が、デスクじゃないのにトン、トンと二拍、空気を叩く。
この二拍が**“よくやった”**の合図だと、もう分かる。
「今日は、外箱向けのテストをやる。
配信じゃない。録り切り1分。
“ラ”を三回——最初はねむひとり。二回めは俺の下。三回めにりいさが上で入る」
「……りいささん、来るんですか?」
「いや、データで来る」
ねむの胸の奥が、ひとつ跳ねた。
音で同じ部屋になれるということ。
それは配信よりも、もっと近い。
――――
テスト録音(1分)
クリック:76
Key:C
構成:A(ねむソロ)/A(ねむ+カイ下)/A(ねむ+カイ下+りいさ上)
ブースの中で、ねむはマイクから四横指。
ヘッドホンの右耳を少し外す。自分の生の声を混ぜるため。
最初のラ。
胸の前で小さく合図をするみたいに、目を閉じる。
「ら——」
二度落ちで“家”に降りる。
笑い息で“り”を作る。
二回目、カイが下に入る。
低いのに柔らかい。自分の声の床が、厚くなる。
三回目。上がふわりと乗った。
りいさの帯域は、想像より細い。細いのに、表面張力が強い。
(——これが、重なるってことだ)
息の出口が三方向に開く感覚。
終わりの二度落ちで、三人の声が同じ床へ降りる。
録り終えた瞬間、ねむはブースのガラス越しに、カイの眼を見た。
目を見る練習を、そのままやった。
カイは、デスク上をトン、トン。それから親指をすこしだけ上げる。
ねむはヘッドホンを外し、胸の奥の熱を笑いで逃がした。
「送る。りいさへ」
送信ボタンを押す指。
1分もせずに、共同サーバーにメッセージが落ちた。
Risa:受け取った
Risa:帰ってきたね
同じ言葉。
違う声。
合図が、ちゃんと世界に広がっている。
――――
夜の短配信(告知しないテスト枠・メン限)
配信タイトル(メン限):合図のラ(テスト)
同接(メン限):4.8→6.9万
タグ:#合図のラ #ただいま鍵 #内緒の家
「こんばんは、白露ねむです。
今日は1分だけ、新しい合図を試します。
“ラが鳴ったら帰っておいで”。
——それだけ」
BGMを切る。
クリックは流さない。
ラ。
胸の前で小さく、鍵がかちゃと鳴る音がした気がした。
「ら—— ら—— ら——」
最初はねむの声だけ。
二回目に床が生まれ、三回目で湯気が立った。
〈今帰った〉
〈帰ってきていいんだって、身体が先に理解した〉
〈“ただいま鍵”、ほんとに鍵だ〉
〈泣いてるけど泣いてない、喉があったかい〉
「ありがとう。
この合図が、誰かの家になりますように。
Good night, not goodbye。
“ただいま”は、先にここへ置いておきます」
配信を閉じる。
椅子を回す。
背中の筋が一本、ほどけて落ちた。
――――
SNSの夜(断片)
〈メン限の“合図のラ”ヤバい。鳴った瞬間に帰れた〉
〈“二度落ち=家の床” は天才の概念すぎ〉
〈#ただいま鍵 が実装されたので報告〉
〈“笑い息”の“り”で泣いた〉
〈りいさ様帯域、細いのに強いって何〉
〈三方向の息で家が建った〉
ねむはスクロールをやめ、DMを開く。
青い月から、短い文。
Risa:明日、30分いける?
Risa:外で。みんなに“合図”を見せよう
Nem:はい。お願いします。
Nem:……行ってきます(先に言ってみます)
Risa:いってらっしゃい(先に言っておくね)
文面だけなのに、夜のカフェの湯気みたいな温度が、掌に残る。
ねむは、箱の作業部屋に小さく挨拶を置いた。
Nem:ただいま
Kai:おかえり
Luna:おかえり
Yuri:蜂蜜ある
画面を閉じる。
枕元のミニマイクに顔を寄せる。
「——ら」
囁くようなラに、自分の胸が先に帰ってきた。
**“おやすみ”**は、もう怖くない。
**“おはよう”**が、先に置かれているから。
――――
エピローグ(短い通話)
VC:りいさ(入室音なし)
『ねむ』
「はい」
『今日、**“大丈夫”**って言わなかったね』
「……言いませんでした」
『えらい。花丸。
明日、“合図”をみんなの前でやろう。
——帰ってくる場所を、増やす』
「はい。いってきます」
『いってらっしゃい。Good night, not goodbye』
通話が切れた。
通話が切れたあと、部屋の空気がゆっくり沈んでいく。
りいさの声の温度がまだ残っていて、壁と天井のあいだにうすい膜のような響きが漂っていた。
ねむはヘッドセットを外し、膝の上で両手を重ねる。手の中に、合図のラがまだ震えている。
ライトを落とす。部屋の影が、すこしだけ生きているように見えた。
モニターの青白い光が頬を照らす。
反射した自分の顔が、少し見慣れない。
“帰ってくる場所を増やす”――その言葉の意味を、やっと理解し始めていた。
声とは、思っていたよりもやわらかい刃だ。
切るのではなく、触れるための刃。
その刃の先で、今夜は「ただいま」と「おやすみ」が同じ形をしている。
ベッドに腰を下ろす。
カーテンの隙間から月が見える。
細い弦みたいな月。
弦の音を思い出して、ねむはそっと口を開いた。
音にならない“ら”を唇の内側で転がす。
空気がほとんど動かない。それでも、胸の奥に微かな明かりがつく。
(——“鳴ったら、帰っておいで”)
その言葉は、りいさの声でもあり、今日一日で触れたすべての声でもある。
リスナーたちの“ただいま”の波。
カイの無言の拍。
ルナの“春の声”の笑い。
ユリの“蜂蜜ある”のメッセージ。
みんなが、少しずつ、同じ床に降りてきた気がした。
ねむはスマホを手に取り、もう開く予定のないDM画面を一度だけ見つめた。
「おかえり」という言葉の並びが、文字なのに息をしているように見えた。
タップする。
メッセージの送信欄に、何も書かずにカーソルを点滅させたまま、しばらく指を動かさなかった。
打たない言葉のほうが、いまは多い。
それを知っているから、無理に声にしない。
代わりに、深呼吸をする。
4-1-6。
息を吐くたびに、部屋の空気が少しずつ静まる。
まるで“音の残響”が時間の外へ帰っていくようだった。
壁に映る影が、自分の動きに合わせて薄く揺れる。
その影に、ねむは話しかける。
言葉ではなく、ただ形を借りた感情で。
「……ここにいるよ」
声はほとんど出ていない。
でも、“いる”という事実だけは確かに壁の向こうまで届いた。
自分自身に言っているのか、りいさに言っているのか、もうわからない。
どちらでも、たぶん同じことだ。
だれかのために“おかえり”を言える場所を、自分も欲しかった。
枕に頭を預ける。
天井の線がぼやける。
心臓の拍が静かに一定を刻む。
そのリズムにあわせて、ねむは心の中で言葉を数えた。
一拍め:“おやすみ”
二拍め:“おはよう”
三拍め:“ただいま”
どの言葉も、意味は少しずつ違うのに、胸の中では同じ高さで響いた。
それらをひとつに溶かすと、音ではなく色になる。
——淡い桃色。
昨日の“春の声”よりも、もう少し柔らかい。
たぶん、それが今の自分の声の色だ。
目を閉じる。
耳の奥に、まだ“ラ”の残響がある。
その“ラ”が、ゆっくり遠ざかっていく。
遠ざかるというより、奥に沈んでいく。
まるで、心の内側に埋め込まれた鍵の音が、自分の中に収納されていくようだった。
(明日、“外”に出る。みんなの前で、“ラ”を鳴らす)
その事実を思うと、不安もある。
けれど、不安のかたちは昨日までと違う。
もう“怖い”ではなく、“まっすぐ向かう前の静けさ”に近い。
りいさの声が背中を押すように、風のなかで響いた。
『——帰ってくる場所を、増やす』
その言葉が、もう一度、胸の奥で明かりを点けた。
部屋が完全に暗くなっても、心の内側だけは、灯ったままだ。
「Good night, not goodbye」
ねむは、もう一度だけその言葉を呟いて、そっと微笑む。
小さな寝息が流れ始めるまで、数分の間、部屋は静かに呼吸を続けていた。
外の風が、窓の隙間を撫でる。
世界が“ラ”の合図で、少しだけ帰ってきたみたいだった。
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