第6話 勇者たちの影

 その噂が、最初に流れたのは北部前線の陣営だった。

 ――「魔王軍に、人間がいる」


 誰かの冗談だと、最初は誰も信じなかった。

 だが、報告が重なるにつれ、兵士たちはざわつき始める。

 「戦術が変わった」「奇襲が読まれている」「まるで人間の軍のようだ」――と。



 王国軍本営。

 勇者レオンは、怒りのままに机を叩きつけた。


「魔王軍に、人間がいるだと? 笑わせるな!」


 金髪を揺らしながら立ち上がったその目には、焦燥の色が宿っていた。

 周囲の仲間たち――僧侶マリア、戦士ドルフ、魔導師セリナ――は言葉を失っている。


「ですが、勇者様。前線からの報告は一致しております」

 参謀役の文官が震える声で報告を続けた。

「敵は、以前のように突撃してきません。こちらの陣形を見抜き、回避し、待ち伏せまで……。まるで――」


「まるで、俺たちの戦い方を知っているようだ、か?」

 レオンの唇が歪む。

「そんな奴、一人しかいねぇよ」


 その言葉に、場が凍る。

 僧侶マリアが、ためらいがちに名を口にした。

「……カイル、ですね」


 空気が重く沈む。

 数か月前、彼らの仲間でありながら追放された青年。

 地味で、目立たず、だが常に正確な助言をくれた“補佐官”。


 レオンは忌々しげに舌打ちをした。

「分析だの戦略だの、机上の空論ばかりほざいてた男だ」

「でも、あの人の言ってた通りに戦えば、勝率は高かったじゃないですか」

 セリナが静かに呟く。


「だったら何だ?」

 レオンが怒鳴る。

「俺は“勇者”だぞ! 戦場を導くのは剣であって、頭じゃねぇ!」


 誰も、言い返せなかった。


 だがその怒声の裏には、誰よりも痛い“予感”があった。

 ――カイルが生きている。

 ――そして、敵に回った。


「……いいだろう」

 レオンの声は、低く震えていた。

「裏切り者は、討つ。それが人間であろうと関係ない」



 一方その頃、魔王国ヴェルデア。


 資料室の窓際で、カイルは冷たい風を受けていた。

 空には、灰色の雲がゆっくりと流れていく。

 遠くの地平線で、雷光が一瞬だけ光る。


「……来るな」

 呟きは、誰に向けたものでもない。


 最近になって、勇者軍の動きが明らかに変わっていた。

 突撃ではなく、慎重な布陣。

 情報の隠匿。

 そして、偵察線がこちらの動きを探るように伸びてきている。


 《分析》が告げていた。

 ――勇者軍が、こちらを“探している”。


「……やっぱり、レオンたちか」


 思い出すのは、かつて共に旅をした日々。

 拙い剣の練習に付き合ってくれたマリア。

 馬鹿騒ぎして笑っていたドルフ。

 夜通し戦術を語り合ったセリナ。


 ――そして、全てを断ち切ったあの夜。


『お前の“分析”なんて、役に立たない。勇者の戦いに頭は要らねぇ!』


 あの言葉が、今も耳の奥に残っている。


「……今さらどう思われても構わない」

 カイルは深く息を吐いた。

「俺は、もう“魔王軍の戦略官”だからな」


 背後から声がした。

「独り言が多いな、人間」


 振り向くと、リリアが扉の影にもたれていた。

 黒衣の裾が風に揺れ、月明かりが赤い瞳を照らす。


「……考えごとをしていました」

「どうせ、昔の仲間のことだろう?」

「鋭いですね」

「顔に書いてある」


 リリアはゆっくり歩み寄り、窓の外を見上げる。

「お前が過去を背負うのは勝手だが、足を止めるのはやめろ。魔族は過去を悔やむより、次の戦を考える」

「そうですね……俺も、そろそろ切り替えます」


「いい心がけだ」

 彼女の唇がわずかに緩む。

「ちょうど良い。明日、前線へ出る。お前の“頭”、貸してもらうぞ」


 カイルは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。

「了解しました。リリア隊、初陣ですね」


「ふん、人間がどこまで通用するか――見せてもらおうじゃないか」


 夜風が吹き抜ける。

 遠くで、雷鳴が再び轟いた。


 ――こうして、カイルの“魔王軍での初陣”が始まろうとしていた。

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