第2話 魔族の少女と出会う
森は静まり返っていた。
鳥の鳴き声ひとつしない。
代わりに、湿った土の匂いと、遠くで鳴く獣の唸りが響いている。
人間領から離れて三日。
俺――カイルは、ようやく生き延びていることに驚きながら、木の根元に腰を下ろした。
食料は底をついた。
水袋も空っぽ。
装備は軽いが、身体は重い。
喉の奥が焼けるように乾いていた。
……それでも、死ななかったのは、ただ一つの理由がある。
――《分析》。
足音、風向き、枝の揺れ。
周囲に漂うわずかな魔力の粒。
それらすべてが“情報”として脳に浮かぶ。
俺の視界には、淡い青い線が走り、敵の動きが予測される。
罠を避け、魔物をやり過ごし、獣の出没を先読みして進む。
それだけで、普通の人間よりずっと長く生き残れる。
だが、それだけだ。
派手な攻撃もできず、魔法も使えず。
空腹を誤魔化すために草の根を噛みながら歩き続ける日々。
「はは……追放された英雄の末路が、これかよ」
自嘲混じりの笑いが漏れる。
森の奥に太陽が沈みかけ、空が紫に染まる。
夜が来れば、また魔物が動き出す。
早く休める場所を――そう考えた瞬間。
風が止んだ。
木々が、音もなく“沈黙”する。
まるで、森そのものが息を潜めたようだった。
「……誰か、いるな」
《分析》を展開する。
だが、異常だ。
反応が速すぎる。空間のどこを見ても、残像が走る。
まるで相手の存在自体が霧のように掴めない。
――次の瞬間。
背後から、冷たい風が頬を撫でた。
反射的にしゃがむ。
その頭上を、黒い影が音もなく通り抜けた。
髪のように流れる漆黒。
月光を反射する紅の瞳。
白磁のような肌と、黒衣に包まれたしなやかな身体。
――人間ではない。
その一瞬で理解した。
「ほう、避けたか。今の一撃を」
低く、艶のある声。
木の枝の上、闇の中に立つ少女。
年齢は俺とそう変わらない。だが、その存在感はまるで違う。
目が合った瞬間、心臓が掴まれたような圧迫感。
見た目こそ華奢だが、彼女の中には底なしの“力”が潜んでいた。
「……魔族か」
「正解。――人間のくせに、逃げもせずによく喋る」
少女は微笑む。その唇から、わずかに覗く牙。
吸血鬼――ヴァンパイア。
伝承でしか知らなかった存在が、今、目の前に立っている。
「殺す理由も、特にないんだけどね」
「なら、見逃してくれると助かるんだが」
「……でも、血の匂いがする。人間の血。勇者パーティーの……裏切り者、かな?」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
どうして、そんなことまでわかるんだ。
「まあ、いいや」
少女は軽く足を踏み出した。
次の瞬間、目の前に“いた”。
速い――いや、“見えない”。
動きの軌道すら掴めない速度だ。
だが、《分析》はそれを追っていた。
風の流れ、筋肉の収縮、重心の傾き。
すべてが数字として脳に走る。
「右、斬撃――!」
地面を蹴り、体をひねって避ける。
頬に風圧が走り、髪が宙に舞った。
次の瞬間、彼女の爪が木の幹を切り裂く。
「……おや?」
吸血鬼の瞳が、わずかに見開かれた。
その隙を突いて距離を取る。
胸が上下し、冷や汗が伝う。
……生きてる。あれを避けられた。
「どうやって避けた?」
少女は興味深げに首を傾げる。
まるで、珍しい玩具を見つけた子供のように。
「見えたんだ。あなたの動きの“型”が」
「型?」
「攻撃の瞬間、空気の流れが歪む。筋肉が収縮して、軌道が浮かぶ。それが……見える」
吸血鬼は黙った。
数秒の沈黙のあと、ふっと口元を緩める。
「面白いね。人間のくせに、目がいい。いや、目じゃない……感覚が研ぎ澄まされてる」
「褒め言葉として受け取っておく」
「いい反応だね。怯えてない。普通の人間なら、最初の一撃で腰を抜かすのに」
少女は木の枝から軽やかに降りた。
黒衣が風に舞い、月光がその輪郭を照らす。
「私の名前はリリア・ヴァルメリア。魔王軍の偵察官だ」
「……俺はカイル。元勇者パーティーの分析士」
「勇者の……? へえ、じゃあ、あなたを殺したらちょっとした手柄ね」
リリアの瞳が妖しく輝く。
再び殺気が走る――だが、今度は一瞬で消えた。
まるで、彼女自身がその感情を飲み込んだように。
「……いや、やめた」
「え?」
「殺すのは後にしてやる。あなた、面白いもの。人間にしては」
リリアが指を鳴らすと、背後の影がうごめく。
黒い獣のような魔物が現れ、鎖を運んできた。
「待て、まさか――」
「安心して。血は吸わないわ。魔王陛下に献上する前に、死なれても困るもの」
あっという間に、両腕を拘束された。
抵抗しようにも、すでに体力は尽きていた。
意識が遠のく中、リリアの声だけがはっきりと耳に残る。
「人間にしては悪くない目をしてる。……この森で死ななかった理由、少し興味があるわ」
月が森を照らす。
その光の中で、リリア・ヴァルメリアは妖しく微笑んでいた。
「さあ、人間。魔王軍へようこそ」
――それが、俺とリリアの最初の出会いだった。
そして同時に、俺の人生が再び“動き出した瞬間”でもあった。
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