エピローグ
洗面台の鏡の前で息を止める。はらり、はらり、と黒い髪が白い陶製の洗面器に落ちていく。
しばらくして、キースは鋏を動かす手を止めた。鏡のなかから、不思議な色の瞳がじっとこちらを見つめ返してくる。
光の加減によって赤にも金にも見える、濃いアンバーの瞳。今は、平凡な茶色に見えた。
思ったより上手く切れた。ほっとして、それから腕時計をたしかめた。出かける直前に始めることではなかったかもしれない。服を濡らさないように急いで顔をすすぐと、コートを羽織って外に出た。
アルフレッドが外出先から帰ってくる時間だった。寮の部屋で待っていてもよかったけれど、すぐにでも顔を見たかった。
アルフレッドは、「過去の記憶」を消すことに決めた。保持していれば「初期不良」としてファームに送り返される恐れのある、「前世」と「前々世」の記憶をだ。
「あなたのそばに居続けるために、憂いは取り除いたほうがいいでしょうから」と彼は言った。
施術は、ジョン・アップルビーの知り合いである「野良アルケミスト」が行うことになった。ジョンに相談した二人が「それはいったい……?」と尋ねると、「お行儀のいい人たちだなあ」と彼は呆れていた。要は、闇医者のようなものらしい――なんらかの事情でファームを追放されたアルケミストたち。「もちろん慈善事業じゃないんで、高くつきますけどね」とジョンはキースの知らない手つきをした。「なんだそれは」とまたキースが尋ねると、アルフレッドは「俺、これはさすがに知ってます。お金を示すサインですよ」と得意げにした。ジョンはその会話を聞きながら、やはり呆れた顔をしていた。
本当は、少し不安だった。
彼が自分を慕うようになったきっかけ。それを取り除いてしまったら、彼の自分への気持ちは変わってしまうのではないか。過去の記憶を消す施術は、今ここにいるアルフレッドの記憶も危険に晒すと、以前に聞いた覚えもある。
その不安を吐露すると、アルフレッドは驚いた顔をして笑った。
「だいじょうぶですよ。なにがあっても、俺のあなたへの気持ちは変わりません。過去の記憶が消えてしまっても、今の俺があなたのことを好きでいますし……もし今の俺の記憶が消えてしまっても」
アルフレッドは、キースの頬を大きな両手で包み込むと、ちゅ、と唇にキスを落とした。
「あなたに出会ったら、またすぐに好きになる。そんな気がするんです」
それでも不安げな顔をしているキースをなだめるために、彼は何度も繰り返しキスをしてくれた。
閉じられた大きな門扉の隣、通用門を通って外に出る。煉瓦の塀に背を預けて、キースはアルフレッドが現れるのを待った。祈るように、繰り返し指先で唇に触れながら。
やがて門の前で乗合馬車が止まって、そのなかから長身を小さく折りたたんで男が降りてくる。白い巻き毛、大きな紅い瞳。以前ふたりで買った濃紺のセーターを着ている。門の前に立っているキースを見ると、満面の笑みを浮かべて走り出した。
やがて、ふたりはきつく抱き合って、キスをした。
蟲めずる貴公子は三度目の邂逅で愛を知る ありふれた愛 @arifureta_ai
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