7.永遠などなくても

 小春日和のあたたかな日差しに、土に汚れた封筒が翳(かざ)された。

 

「手紙、本当にありましたねえ……」


 アルフレッドが、のんびりとした声で言う。キースは、その屈託の無さに思わず吹き出した。


「手紙があることは知っていたんだろう」

「そうなんですけど。でも、こうやって実際に手にしてみて、初めて実感が湧くというか」


 以前ふたりで街へ遊びに行ったとき、落ち葉を踏みながらそんなことを言っていたなと思い出す――「この身体で直接、触れたり嗅いだり……体験するのは初めてなので」。

 常緑樹ばかり植わった屋敷の庭には、落ち葉はほとんど見られない。

 キースとアルフレッドは、ホーリーランド領の屋敷にいた。庭の東屋に、ふたり並んで座っている。


「これでワイアット公は、約束を果たしてくれますかね?」


 アルフレッドが静かな声で尋ねた。キースは「そう祈るしかないだろう」と答えた。


*


 あの夜は、王立陸軍士官学校に駆けつけた憲兵隊が事態を収拾した。

 バルコニーにいた者たちは、学校の応接間に集められ、そのまま留め置かれた。憲兵による聴取はおざなりで、その理由は、数時間後――すっかり夜も更けた時刻にアイザック・ワイアット公爵が王都より駆けつけるからだった。

 アイザックは、しかし、自身を迎えた一同の視線が冷ややかなことに気がついた。

 彼の到着を待つ数時間のあいだに、キースはマイルズとウォーターズに伝えていた。

 みずから命を絶ったある蟲と――アイザックが自殺を教唆したのではないかという疑惑について。

 アルフレッドは、自身がその証拠となる手紙の存在を知っていると認めた。


「……わたしはおまえの言うことなど信じない」


 すっかり消沈したマイルズは、小さな声で言った。


「信じる、信じないは卿の自由ですが。隣国との密通には、重大な処罰が待っているのでは?」


 マイルズが隣国の工作員とつながっているという確証はなかった。キースの発言ははったりだったが、マイルズはますます顔を青くして俯いた。

 キースはウォーターズに目をやった。


「教官も。なんらかの術を使って蟲を操り、わたしの命を危うくしたというのであれば、反逆罪は免れません」


 彼は今さら己のしたことの重大さに気づいて、ガタガタと震え始めた――反逆罪となれば、死刑に処される可能性もある。

 ウォーターズが震える声でつぶやく。それはまるで、独り言にも、呪詛の言葉にも聞こえた。


「わたしは誰も傷つけたくなかっただけだ……蟲など作らなければ……アルケミストが蟲など作らなければ、誰も不幸にならなかった……蟲自身も生まれてこなければ苦しまずに済んだのだから……せめて、元きたところへ戻すぐらい……」


 蟲たちの境遇に胸を痛めるあまり、ずいぶんと思い詰めていたらしい。けれど、彼の言うことは詭弁だ。キースは小さく息を吐くと、マイルズに向き直った。


「ですが、事態を収(・)拾(・)するだけの権力をお持ちの方がいらっしゃる。あなたのお父上です。そしてお父上にも、知られたくない秘密がある。先ほど申し上げたとおりに」


 マイルズは俯いたまま、尋ねた。


「なぜ、こんなことをする? おまえになんの得がある? 今すぐ、わたしたちや父上を憲兵隊に突き出せばいいじゃないか」


 キースは小さく微笑んだ。


「生憎、今のわたしにはなんの後ろ盾もない。正直に証言したところで、あなたやお父上と親しい憲兵隊が信じるかどうか……。それよりも、お父上の温情に縋るほうが確かそうだ。そういうことですよ」


 温情というよりも、罪悪感と呼ぶべきかもしれない。先日、母の命日に会話した折に、アイザックの見せた人間みを思う。

 実際に憲兵隊に揉み消してもらうつもりだったのか、マイルズは舌打ちをした。キースが「今(・)の(・)わたしには」と言ったことは、気に留めなかったようだった。

 現れたアイザックは、怒りと屈辱に顔色をどす黒くしていた。

 隣国の工作員たちが扇動していたのは蟲だけでなく、人間――それも自身の息子であったと知ったからだ。

 このような事件を起こすことで、士官学校内に蟲の反乱分子が入り込んでいることを世間に知らしめる。そして、それを理由に士官学校から蟲を排除する。

 しかし、事件は始まりに過ぎない。やがて、すべての蟲たちを反乱分子予備軍としてファームに送り返す。同時に二度と蟲たちが生まれてこないように規制を行い、送り返された蟲たちが死に絶えると同時に蟲は絶滅する――そのような筋書きだったとマイルズは語った。


「なにも、火のないところに煙を立てようとしたわけではありません。蟲たちが人間に不満を抱いているのは事実なのですから」


 それに、とマイルズは続けた。真実を知った今や賛同が返ってくると疑わぬ目で、父を見上げながら。


「わたしの望みは、士官学校から蟲を追い出したい父上と同じはずです! ……褒めてくださいますよね?」

「そのために国を売ってどうする!」


 アイザックの怒鳴り声に、応接間はしんと静まり返った。

 会話のあいだじゅう、アイザックはキースのほうを見なかった。ただ、最後に低い声で尋ねた。


「おまえの望みは、何だ?」


 どうすればわたしを許してくれる、と問われた気がした。許すものかとキースは思った。許さない。けれど、今は。


「わたしとアルフレッドに、今回の事件の累が及ばないようにしてください。それから、マイルズ卿とウォーターズ教官には、公職からの追放を望みます」

「……尽力しよう」


 アイザックは顔を手で覆って、うめいた。


*


 アルフレッドの「前世」は、ホーリーランド領の山奥で眠っていた。屋敷から徒歩でよくぞここまでと驚くほど遠くの山の、崖の下にいた。アルフレッドが「二番目の記憶」を辿り、彼の亡骸までたどり着くことができた。

 朽ちかけた服の内ポケットに、やはり朽ちつつある封筒が残されていた。なんとか筆跡は読めた。よく知った、あ(・)の(・)人(・)の字だった。

 アルフレッドは山道を歩きながら語った。

 早くにファームを出た、まだ少年と呼ぶのがふさわしい見た目の蟲が、どれほど過酷な人生を送ったか。流されて辿り着いたホーリーランド領での暮らしも決して楽ではなかったけれど、時折「奥様と坊ちゃまから」と振舞われる甘い菓子を楽しみにしていたこと。使用人たちの部屋の掃除に回っていたときに、運悪く、ワイアット公爵とあの人との口論――と呼ぶには一方的な叱責を目撃したこと。命令されて、あの人が首を括るための縄と踏み台を納屋から取ってきたこと。あの人が遺書を書くあいだ、そばで見張らされたこと。それから……。

 屋敷の東屋で、キースは封筒から便箋を引き出した。これ以上、損傷が広がらないよう、丁寧な手つきで。

 それは、残された遺書の続きだった。内容の大部分は、遺される周囲の人間への感謝。そのなかに、「理を説いてくれたワイアット公爵には感謝をしている」という一文があった。それを、キースはひそかに忍ばせた小さな反撃の針だと思った。


「なにがなんだか、細かいことは、字を読むのがやっとの俺(・)にはわかりませんでしたが……あの方は、ワイアット公爵に殺されたんだと思いました。そして、俺がそのことを知っていると、ワイアット公爵は知っている。いつか俺も殺されるかもしれないと恐ろしくなって……けれど、もし殺されるのであれば、俺はこういうわけで殺されたんだと証明するものが欲しくて……この便箋を抜いて逃げました」


 それが正しかったのかどうか。アルフレッドはつぶやいた。


「その場に残していたら、伯父が見つけて燃やしてしまった可能性もあっただろう。いい判断だったと思う」


 キースは、手紙の末尾に視線を落とす。

 そこには署名があり、心を通わせた――心だけを通わせた彼が、口癖のように言っていた言葉が添えられている。「心は永遠にあなたのそばに」。

 不思議と、キースの心は凪いでいた。

 たしかに彼の言葉は――「心」は、アルフレッドに受け継がれることで、キースの命を救ったとも言える。しかし、それはアルフレッドが過去の記憶と共に生まれてきたためで、単なる偶然に過ぎなかった。

 永遠も、運命も、この世にはない。

 季節は流れる。過去は遠ざかっていく。強烈な色彩も、いつかは塗り替えられてしまう。

 キースは静かに言った。


「手紙の存在を知っていたなら、早くわたしに話してくれればよかったのに」


 そうすれば、アルフレッドはワイアット公爵家に怯え続けることなく済んだのではないだろうか。

 アルフレッドは肩を竦めた。


「どのタイミングで話したら、俺を信じてくれましたか? 出会い頭に『あなたの伯父君はとんだ裏切り者です』と言って嫌われればよかった? それとも、あなたとキスし損ねたあとに、負け惜しみみたいに告げれば?」


 キースは答えることができなかった。アルフレッドは、苦い笑みを浮かべた。


「すみません、あなたを責めたいわけじゃないんです。あなたをお守りすると決めていたけれど、俺はそんなこともわからなかったなと思って。……それにあなただって、大変な譲歩をしているんだし」


 なにかを吹っ切るように、ぐう、とアルフレッドはのびをした。


「あなたは窮地を切り抜けるために、取引をしたわけですけど……ウォーターズ教官やマイルズ卿は本来よりもずっと軽い罰しか受けない。なにより、ワイアット公自身に処罰は及びません」


 それでいいんですか? と視線だけで尋ねる。

 キースは、ゆっくりと手紙をたたんだ。たたみながら、言葉を探す。


「ワイアット公のしたことを、あの人の死の直後に知っていたなら、殺したいほど憎いと感じたかもしれないが……今はどちらかと言えば安堵の気持ちが強い」


 「安堵?」とアルフレッドは聞き返した。「ああ」とキースはうなずいて、しかしそれ以上は語らなかった。

 あの人が死を選んだのは自分のせいではなかった、という安堵。

 伯父は、妹と同じように甥が蟲に「たぶらかされて」しまうことをひどく恐れていた。あの人とキースの仲が深まっていることを――幼いキースの隠しきれない慕情を、なにかの折に知ったのだろう。それで、同じ過ちを繰り返させまいと、あの人を追い詰めた。

 人を死に追いやるのは、罪だ。誰かを愛することは、罪ではない。

 けれど、自分が彼を守ることができなかったのも、また事実だった。

 キースは淡い水色をした空を見上げた。かすかな希望に縋るように。


「おまえの『前世』の存在を知ったのは、母の墓参りに屋敷を訪ねたときだった。あんなに深刻な話なのに、わたしたちは笑いながら話したよ。キッチンに侍女たちを訪ねて、わたしのためにと焼いてくれたクッキーを皆にも振舞って。『キースさまがこんなに楽しい方だったなんて!』と新顔の侍女には言われたな。古株の侍女は『だから言っていたでしょう、ほんとうはお優しい方なんだって』と勝手に鼻を高くしていた」


 「ふふ」とアルフレッドも笑った。それで、すべてを許されたような気になる。

 キースはアルフレッドの目を見つめた。ぱちりと、白いまつ毛がまたたく。キースは笑いかけた。


「おまえの言うとおり、問題はなにも解決していない。隣国の干渉は続くし、マイルズたちのように蟲を排除しようとする者がいなくなることもないだろう。だが……」


 キースは、そっとアルフレッドの手を握った。ベンチのうえに置かれた白い手を。アルフレッドは驚いて目を見開いたが、拒絶はしなかった。


「わたしはひそかに軽蔑していた母のことを、信じられるようになった。ずっと嫌いだった自分のことも。信じられるようになったのは、おまえの話を聞いたからだ。そうして周囲の者に心を開いてみれば、おまえと同じように、敬愛を持ってわたしと話をしてくれる者がいることもわかってきた。あの侍女たちのように……」


 アルフレッドは黙ったまま、こちらを見つめている。


「わたしは、わたし自身を……そして大切な誰かを守るために、心を閉ざして殻に閉じこもっていた。けれど、これからは話をしてみようと思う。そうやって、わたしを好きだと言ってくれる友人を増やして蟲(おまえ)たちを……おまえを、守れたらいいと思う」


 「あなたが俺を?」とアルフレッドは茶化すように笑ったけれど、「そっか、あなたのほうが俺よりも強いんでしたね」と気づいて、ちょっと拗ねた顔をした。キースは含み笑いをこぼす。


「……師の仇を討とうとするのではなく、こんなふうに考えるのは薄情だろうか?」

「わかりません。だけど、俺たち蟲にしてみれば、愛した人が俺たちの生涯よりもはるかに長い時間、憎しみを抱いて生き続けるよりは……」


 アルフレッドが、繋いだ手をきゅっと握った。キースの心臓が、どくんと高鳴った。


「……『愛した人』?」

「……『大切な誰か』?」


 互いの言葉尻をとらえて、微笑みあう。もう、怖いものなどなにもないと思った。


「アル」


 短く名を呼ぶ。愛称で呼ばれたアルフレッドの大きな瞳が、うれしそうにきらめいて、「はい!」と応える。


「……まだ僕にキスをしたい?」


 キースの問いに、アルフレッドが目を見開いた。じんわりとその白い頬が赤く染まっていく。

 アルフレッドは視線をさまよわせて、「そりゃそうです」となぜだか悔しそうに認めた。


「あなたになら、いつだって、キスしたい……」

「じゃあ、キスしろ」


 キースは言った。心の奥底で絡まりあっていた糸が、ほどけていくような感覚があった。ためらいも恐怖も、すべてほどけて、心からの望みだけが残る。


「そして、二度と僕のそばから離れるな」


 その言葉に、アルフレッドがくしゃりと泣きそうに顔を歪めた。


「それがあなたのご命令なら、いえ、ご命令じゃなくたって、必ず……」


 それから、すう、と息をひとつ吸い込んで、微笑んだ。


「この短い命の限り、ずっとそばでお守りします」


 ゆっくりと、アルフレッドが顔を近づけてくる。顎を取られる。肌が痺れる。目を閉じる。

 初めてのキスは、やわらかくて、あたたかかった。


*


 一度のキスでは足りなくて、何度も繰り返し唇を重ねた。晩秋の寒さなど気にならないぐらいに頬が火照って熱い。いつのまにかキースはアルフレッドの腕のなかに包まれていた。

 ちゅ、ちゅ、と繰り返し鳴る音の、間隔が段々短くなる。触れるだけの口づけなのに、むしゃぶりつくみたいに唇をこすり合わせる。

 やがて、アルフレッドは身震いしてキースの肩口に顔をうずめた。


「……ごめんなさい、しばらくこうさせてください……そうしないと、自分を止められなくなりそうで……」


 いつもは穏やかで優しい声が、低く掠れている。興奮しているのだとわかって、胸がぎゅうとなった。我慢しなくてもいいのに、と思った。


「アル……」


 名前を呼ぶと、アルフレッドは腕の力を緩めて、こちらの顔を覗き込んだ。

 キースは、その唇に自分からキスをした。

 この先は、どうするのだっけ。これまで読んできた小説を思い返そうとするけど、考えがまとまらない。

 煮えたようにグラグラする頭のまま、舌先を出し、アルフレッドの唇を舐めた。


「ッ……!」


 アルフレッドが息を飲んだ。それから、吐息が触れ合うような至近距離のまま、尋ねた。


「いいんですか、続きをしても……?」


 キースは小さく頷いた。心臓がどきどきしてうるさい。


「いいよ。あの小説よりもずっと、すごいことをして……」


 なにを言っているんだろうと自分で思った。身体がふわふわして、熱くて、どうにかなってしまったみたいだ。

 アルフレッドは吐息で微笑んだ。


「最高のお誘いですけど、まずはあなたの部屋に行きましょうか」


*


 見慣れたはずの自室が、知らない場所に見えた。

 庭からここまで移動してくるあいだも、使用人の目を盗んで手を繋いでいた。やっと誰も気にせず触れることができるとうれしくて、自室の扉を閉めるなり抱きついた。

 一瞬後、我に返る。ひどくはしたないことをした気がして、腰が逃げを打つ。

 しかし、アルフレッドはきつく抱擁したまま、放してくれなかった。

 

「あ、あの……」

「ホーリーランド公。俺、嘘をつきました」

「……え?」

 

 耳元で囁かれる。なんのことかわからず、ただ、抱かれた身体が硬直する。


「あなたが俺に『自分とどうなりたいんだ』って訊いたとき、俺は『あなたのそばにいられれば、なんだっていい』と答えました」


 伝令訓練の小部屋で、キスをしそうになったときだ。先を促して、「うん」とうなずく。


「あれ、嘘です。嘘というか……あのときまでは本当にそう思っていたんですけど。あのあと、俺、何度も想像しました。あなたとキスすること。それ以上のことも……」


 抱きしめたまま、すうう、とアルフレッドが大きく息を吸った。匂いを嗅がれているみたいで恥ずかしくて、身をよじるけれど、自分よりひと回り大きな身体はびくともしない。

 ふうう、と噛み締めるみたいにアルフレッドが息を吐いて、言った。


「好きです、あなたのこと。小さいころのあなたのことも、今のあなたのことも。ずっとそばにいたいし、キスしたいし、セックスしたい」

「セ……」

 

 熱烈な告白に、じんわりと目が潤んだ。恥ずかしい。恥ずかしいけど、うれしい。

 

「あなたは?」

 

 身体を離して、瞳を覗き込まれる。きらきらと輝く星の浮かんだ大きな瞳に吸い込まれそうだ。

 

「僕も、その……」

 

 いつもの癖で、目を逸らしてしまいたくなる。けれど、逸らさなかった。

 

「僕も、おまえが好きだ。そばにいるとうれしいし……」

 

 その続きはやっぱり恥ずかしくて、小さな声になった。

 

「言っただろう。すごいことを、してもいいって……」

「ホーリーランド公……」


 アルフレッドが相好を崩して、また顔を近づけてくる。キースは両手を掲げて、その唇を止めた。

 

「……なんですか?」

「寝室で、その呼び方は、その……」

 

 なんというか、風情がない。アルフレッドは少し考えたあと、照れくさそうに口にした。

 

「……キースさま?」

 

 その表情がかわいくて、キースは「呼び捨てでいい」と囁いて、自分から唇を重ねた。


*


 それから何度も抱き合って、安堵と疲労で気絶するように眠りに落ちた。

 キースは、自分の長い前髪を梳く、優しい指先に目を覚ました。


「汗、かいちゃいましたね」


 目を合わせたアルフレッドは、静かに微笑んだ。

 外は薄明のころで、カーテンの隙間から覗く光は淡い。


「身体は冷えませんか? 寒くない?」

「平気だ。……けど、」


 言葉の続きを探して、アルフレッドがわずかに首をかしげる。


「……抱きしめてくれ」

「ふふ。キースは結構、甘えんぼなんですね。あなたについてはたくさんのことを知ってるつもりだったけど、これは知らなかったな」


 「うるさい」とむくれると、アルフレッドは「すみません」と素直に謝った。それから、隣に寝そべって、背後からぎゅうと腕を回される。


「俺でよければ、いくらでも甘えてください」

「おまえがいいんだ」


 アルフレッドは吐息だけで笑った。

 あたたかな体温に包まれて、部屋が次第に明るくなっていくのを眺める。光と影と、自分と彼の呼吸だけがある。まるで永遠のような、短い時間だった。

 「ずっとこうしていたいですね」とアルフレッドが言った。「ずっとこうしていられたらいいのに」という意味だと思った。

 蟲は人間の四倍の速さで歳を取る。アルフレッドと共に過ごせる時間は、あと……。


「俺、『過去の記憶』を消そうと思います」


 その言葉に、キースは思わず飛び起きた。アルフレッドは、その勢いに驚いたように目を丸くした。

 キースは震える唇で尋ねた。


「どうして……」

「少しでも長くあなたのそばに居続けるために、憂いは取り除いたほうがいいでしょうから」


 「過去の記憶」――彼の「前世」と「前々世」の記憶は、保持していれば「初期不良」としてファームに送り返される恐れがある。ウォーターズがかつて語ったことだ。


「だが……」


 彼が自分を慕うようになったきっかけ。それを取り除いてしまったら、彼の自分への気持ちは変わってしまうのではないか。そのうえ、過去の記憶を消す施術は、今ここにいるアルフレッドの記憶も危険に晒すと、以前に聞いた覚えもある。

 その不安を吐露すると、アルフレッドは笑った。


「だいじょうぶですよ。なにがあっても、俺のあなたへの気持ちは変わりません。過去の記憶が消えてしまっても、今の俺があなたのことを好きでいますし……もし、今の俺の記憶が消えてしまっても」


 アルフレッドは、キースの頬を大きな両手で包み込むと、ちゅ、と唇にキスを落とした。


「あなたと出会ったら、またすぐに好きになる。そんな気がするんです」


*


 洗面台の鏡の前で息を止める。はらり、はらり、と黒い髪が白い陶製の洗面器に落ちていく。

 しばらくして、キースは鋏を動かす手を止めた。鏡のなかから、不思議な色の瞳がじっとこちらを見つめ返してくる。

 光の加減によって赤にも金にも見える、濃いアンバーの瞳。今は、平凡な茶色に見えた。

 思ったより上手く切れた。ほっとして、それから腕時計をたしかめた。出かける直前に始めることではなかったかもしれない。服を濡らさないように急いで顔をすすぐと、コートを羽織って外に出た。

 アルフレッドが外出先から帰ってくる時間だった。寮の部屋で待っていてもよかったけれど、すぐにでも顔を見たかった。

 アルフレッドは、「過去の記憶」を消すために出かけている。

 施術は、ジョン・アップルビーの知り合いである「野良アルケミスト」が行うことになった。ジョンに相談した二人が「それはいったい……?」と尋ねると、「お行儀のいい人たちだなあ」と彼は呆れていた。

 要は、闇医者のようなものらしい――なんらかの事情でファームを追放されたアルケミストたち。

 「もちろん慈善事業じゃないんで、高くつきますけどね」とジョンはキースの知らない手つきをした。「なんだそれは」とまたキースが尋ねると、アルフレッドは「俺、これはさすがに知ってます。お金を示すサインですよ」と得意げにした。ジョンはその会話を聞きながら、やはり呆れた顔をしていた。

 納得はしている。必要なことだと理解もしている。それでも不安な気持ちは完全には消えなかった。そんなキースをなだめるために、出掛けのアルフレッドは何度も繰り返しキスをしてくれた。約束の時間に遅れそうになるぐらいに、何度も。

 閉じられた士官学校の大きな門扉の隣、通用門を通って外に出る。煉瓦の塀に背を預けて、キースはアルフレッドが現れるのを待った。祈るように、繰り返し指先で唇に触れながら。

 やがて門の前で乗合馬車が止まって、そのなかから長身を小さく折りたたんで男が降りてくる。白い巻き毛、大きな紅い瞳。以前ふたりで買った濃紺のセーターを着ている。門の前に立っているキースを見ると、満面の笑みを浮かべて走り出した。

 やがて、ふたりはきつく抱き合って、キスをした。



〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蟲めずる貴公子は三度目の邂逅で愛を知る ありふれた愛 @arifureta_ai

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ