焦げても、美味しい日々を。 ―風香ベーカリー短編集―
白(はく)
🍞パン屋〈風香〉の日常 ― 焦げた恋と、焼きたての朝 ―
ミルダの森は、今日もいい匂いがしていた。
焼きたてのパンの香り。
それだけで、みんなが笑顔になる――そんな、穏やかな朝だった。
「アレンさん、こっちのクロワッサン、また焦げました……!」
「おーいミレイユ、それは“いい色”って言うんだ。
焦げじゃなくて、“香ばしい”だ。」
「でも中まで黒いんですけど……!」
「……あー、それはちょっと焼きすぎたな。」
二人のやりとりに、客の子どもたちがくすくす笑う。
パン屋〈風香〉は、森で一番人気の店になっていた。
村人たちは“元勇者と魔王の娘の店”と呼んで親しみ、
アレンはもう“英雄”ではなく“パン屋のおじさん”になっていた。
昼下がり。
リフィアが店の奥から顔を出した。
白いエプロン姿に、ほのかに小麦粉がついている。
「アレンさん、聖堂の子たちがパンを買いに来ましたよ。
“お祈りパン”十個です。」
「ああ、リフィアの“奇跡の塩パン”だな。人気すぎて困る。」
「いえ……あれはただの塩です。
でも、“祈るように焼いた”のは本当です。」
リフィアは微笑む。
あの頃の涙は、もう痛みではなく、やさしさに変わっていた。
彼女は教会を離れ、この村で“パンと祈りの学校”を開いている。
一方、外ではルカが大きな木のテーブルを修理していた。
焦げた腕で、器用に釘を打つ。
手際が良すぎて、村の子供たちに「ルカおじちゃん、大工さんみたい!」と笑われている。
「……大工でも、火は使う。焦げても、直せばいい。」
「おじちゃん、それこの前も言ってたよ!」
子供たちが笑うたび、彼の顔に小さな笑みが浮かぶ。
昔の彼からは想像できないほど、穏やかな笑みだった。
夕暮れ。
村の広場では「パン祭り」が開かれていた。
みんなが持ち寄ったパンを並べ、香りで夜風を満たす。
「アレンさん、見てください!
あれ、わたしが初めて焦がしたパンです!」
ミレイユが嬉しそうに、小さな黒いパンを掲げた。
表面は少しひび割れていたが、どこか誇らしげに輝いている。
「お前……それまだ取ってたのか。」
「はい。焦げても、おいしい日が来ると思ってましたから。」
「……そうだな。」
アレンは笑いながら、そのパンを半分に割った。
湯気が立ち上り、焦げの奥から、甘い香りが溢れた。
「うまい。」
「ほんとですか?」
「ああ。少し苦いけど――
“最初の香り”がする。」
ミレイユは頬を染めて、照れくさそうに笑う。
夜。
祭りが終わり、焚き火の光の中で、四人が並んで座っていた。
森を吹き抜ける風が、パンの香りを運んでいく。
「……あの夜から、世界は変わりましたね。」
リフィアが呟く。
「ああ。神の光なんかより、
このパンの香りのほうが、ずっと温かい。」
ルカが笑う。
「焦げても、焼き直せるからな。」
アレンが続ける。
ミレイユは小さく頷いて、星空を見上げた。
「焼き直せる世界……素敵です。」
星が流れる。
パンの香りが夜空へ昇る。
焦げた世界を焼き直した四人の物語は、
今、日常の中で静かに息づいていた。
「明日も焼こう。焦げても、きっと――いい香りがするから。」
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