第二話 魔王の娘、パンを焦がす

朝の森は、焼きたての香りに包まれていた。

……いや、正確には“焦げた香り”である。


「ミレイユ、煙が……っ! 煙が出てる!!」


「ひゃあああっ!? パンがっ、パンが燃えてますっ!!」


アレンが慌てて窯のふたを開けると、

黒焦げになった何かが中でぼうぼうと燃えていた。


「……これはもう、炭だな。」


「す、すみませんっ……! 少しだけ魔法の火を足したつもりが……!」


「“少し”ってどれくらいだ?」


「気持ち的には、ほんの一匙……。」


「気持ちは計量スプーンじゃない。」


ミレイユはしょんぼりとうなだれた。

彼女の銀の髪に、うっすらと焦げの匂いが染みついている。

そんな彼女の姿が妙に愛おしくて、アレンは思わず笑った。


「ま、最初から完璧なパン屋なんていないさ。俺も、初めて焼いたときは石にした。」


「……アレンさんでも、ですか?」


「ああ。あの頃は勇者だったけど、パン職人の腕は魔物以下だった。」


ミレイユはくすりと笑い、手のひらを見つめる。

その白い指先に、ほんのり小麦粉がついていた。


「でも、なんだか楽しいですね。失敗しても、怒られないのは久しぶりです。」


アレンは言葉を失った。

その一言に、彼女がどんな場所で育ったのか――想像できてしまったからだ。


彼は代わりに、穏やかな声で言う。


「焦がしたパンも、ここでは勲章だ。今日の分は“努力の味”ってことで。」


「努力の味……なんだか素敵な響きですね。」


その日の午後。

ふたりは村へ初めて降りた。


石畳の道に木造の家々。

妖精や獣人が行き交う穏やかな風景に、ミレイユは目を丸くした。


「人間と魔族が……一緒に暮らしてるんですね。」


「この村は変わり者の集まりだからな。誰でも歓迎される。」


「……私でも、ですか?」


「焦げさえ出さなければ。」


「出してしまいましたけど……!」


そう言って笑う彼女に、通りがかりの妖精の少女が声をかけた。


「お兄ちゃんたち、新しいパン屋さんの人でしょ! パン、いつ開くの!?」


アレンは思わず返す。


「うーん、まずは煙が減ったらな。」


「けむり? パン屋なのに煙で商売するの?」


「まあ……いろいろ事情があるんだ。」


そんなやりとりを眺めて、ミレイユは小さく笑った。

その笑顔が、ほんの少しだけ春の光を帯びて見えた。


夕暮れ。

森の丘の上、小屋に戻ったふたりは再び石窯の前に立っていた。


「今日こそ、焦がさないように……。」


「よし、火加減は俺が見る。ミレイユは生地を。」


彼女の手元で、小麦粉と水が静かに混ざる。

ミレイユは集中した表情で捏ねながら、小さく呟いた。


「アレンさん。」


「ん?」


「私、ここに来てよかったです。」


「どうして?」


「あなたといると……“生きてる”って感じがするんです。」


アレンは少しだけ息を呑んだ。

その言葉は、戦場でも聞けなかった“真実”のように響いた。


「そうか。なら、パン屋を開いて正解だな。」


ミレイユははにかみ、うなずいた。

その時――


「……あっ。」


「え、ちょっと待て、その音は――」


ぼんっ!!


再び石窯が炎を上げた。

魔法火が暴走し、パンが空高く舞い上がる。


「ご、ごめんなさいぃぃ!!」


「いい! 焦げは命の味だ!! ……けど、火は消そう!!」


森中に響く悲鳴と笑い声。

その煙の向こうで、ふたりのパン屋は少しずつ形になっていく。


夜。

星空の下、アレンは窯のそばに腰を下ろした。

焦げたパンのかけらを割り、ひとかけ口に運ぶ。


「……意外と、悪くないな。」


「ほ、本当ですか?」


「うん。少し苦いけど、なんか……温かい。」


ミレイユは顔を赤らめながら、嬉しそうに笑った。


「焦げたっていいんです。

 だって、次はきっと美味しく焼けますから。」


その言葉に、アレンはふっと目を細めた。

――そうだ。焦げても、もう一度焼けばいい。

それが、平和に生きるということだ。


夜風がふたりの髪を揺らし、

焚き火の中で小さなパンの香りが、静かに森に溶けていった。

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