十三月の乙女はかく去れり

雨谷結子

一 名を奪われた娘

「はじめまして、三番目のリアラ様」

「……リアラ」


 私はまだ耳慣れないその響きを確かめるように呟く。

 リアラ。そう、私の名は近頃唐突にリアラになった。数日前、神託によってリアラ、、、に選ばれたのだ。

 私を出迎えたのは、腰に細身の剣を佩いた、白い甲冑に白い外套姿の、騎士と思しき若い男。彼の身体からは、教区の神殿に礼拝に行くたびいつも嗅いでいた、没薬ミルラの排他的な匂いがした。

 そんな清廉な佇まいとはそぐわず、口元には軽薄な笑みが浮かんでいる。


「……あなたはどなたですか」

「分かってらっしゃるくせに」


 男は見透かすみたいに金の髪と揃いの琥珀色の眸を眇める。


「夏の王の花嫁たるあなたがお望みとあらば、端的に自己紹介をいたしましょう」


 男は芝居がかったしぐさでうやうやしく胸に手を置くと、その場に跪いた。


「ひと月後、あなたを夏の王の御許にお送りする――有り体に言えば、御身をこの剣で刺し貫く聖騎士のお役目を預かっている者です。どうぞよろしく、リアラ様」



 *



『いつまでも誰かのものにならないと、神さまのお嫁さんにされちゃうのよ』


 それは幼い頃に姉から聞かされた、秘密めいた御伽噺。あながち嘘でもないことは知っていたけれど、雷に当たるみたいにとびきり間の悪い、どこか遠い世界の出来事だと思っていた。


 夏の王の花嫁リアラ。またの名を、十三月の乙女。凶兆である赤い月が昇った年、その娘は神託を受けて、聖都にある大神殿に連れてこられる。なぜなら赤い月は、その年の冬至の日の夜明けに、とこしえの冬である十三月が訪れる合図だから。

 その昔、世界は暗く、生きとし生けるものの息吹のない十三月の忌まわしき冬に鎖されていた。しかし夏の王がリアラを花嫁に迎えると、光と生命と豊穣がもたらされた。

 そんないにしえの神話を繰り返すように、数年に一度赤い月が昇る。

 三年ぶりの今年は、冬至の日のひと月と少し前にその凶兆が現れた。死霊の棲む海の彼方におわす夏の王の元にリアラが嫁げば、十三月は退けられる。だからリアラは冬至の日の夜明け前までに、聖騎士によって魂と肉体とを切り離される。

 要するに、神に捧げられる贄となって死ぬのだ。


「まあ、リアラ様。なんとおうつくしい」


 夏の王に仕える巫女たちが、小鳥が囀るみたいな声でおべっかを口にする。

 神殿に到着して早々、私は聖騎士によって彼女たちに引き渡され、着古しのつぎはぎだらけの衣を剥ぎ取られた。清潔なお湯をはった浴槽に浸かって、垢だらけの身体をきれいさっぱり清められる。


「リアラ様には必要のないものですから」


 巫女はそう言って、白一色の仕立てのいい貫頭衣の代わりに元々着ていた衣も僅かばかりの手荷物も取り上げようとしてしまう。

 はっとして庇うように荷に手を伸ばせば、巫女たちは困った様子で顔を見合わせた。


「――テオ様にお任せいたしましょう」


 年嵩の巫女が、場を取りなすように言う。それで彼女が聖騎士を呼んだので、私はようやく彼の名がテオであると知ることができた。

 巫女たちはすぐに部屋の外に下がってしまって、テオと二人きりになる。暖炉の前で立ち尽くしていると、彼は浴槽のへりに腰掛けた。その手には、薄汚れた革袋がある。


「ご存知でしょう。リアラ様は、リアラ様でなかった頃の持ち物は捨ててこなくちゃいけないんですよ。ま、守ってくださる方はいらっしゃいませんが」


 テオは革袋を広げる。なにかと思って覗き込めば、中には書簡や絵筆、羽根ペン、針や裁ち鋏があった。書簡は手垢がつくほど読み返された形跡があり、道具はいずれも使い込まれて傷や汚れがついていた。


「……それ、今までのリアラ様の?」

「ここ四十年ほどのですがね」


 テオは愚問だとばかりに肩を竦める。

 神殿に来る前に、全体で数えると、私は二百何番目のリアラだと言われた。その数字がずしりと重みをもった気がした。

 テオは私の手元にちらりと視線を寄越す。


「家族からの手紙でも?」

「……いいえ。蝋板です」


 私はこわごわ、包みを広げる。板が黒ずんだ蝋板には、びっしりと文字が刻まれていた。少し癖のある、慣れ親しんだ私の字だ。


「町で気候学の学者先生の手伝いをしていたんです」

「感心ですね。どんなお手伝いを?」

「気温や日照時間、風向き、降雨量……そういうものの観測です。先生はもう六十で、足が悪いので」

「……そんな真似をなさっていたから、嫁き遅れたのでは?」


 そんなことは、今さら他人に言われなくても分かっている。

 敬虔な信徒である両親に愛された姉は、十五のときには隣町に嫁いでいった。私はもう十八歳。あのときの姉よりも年上になってしまったのに、つい半年ほど前に地元の名士の息子からの再婚話を断ったばかりだった。

 あの求婚を受けていたら、今ここにいるのは神託を受けた別の娘だっただろう。なにせリアラは、純潔でなければならないのだから。


 ――でも、私は、あと少しだけ。


「ははあ」

 テオは訳知り顔で笑った。


「織物職人の娘に、画家工房の娘。ここに来るのはそんな娘ばかりです。俺は無理やりあなたの持ち物を奪い取ることはしませんが、忠告します。信念なんてものは早々に手放したほうが、余生を穏やかに過ごせますよ」


 信念、と私は唇の裏側で繰り返した。先生の元で働くことになったときも、結婚話を蹴ったときも、両親からは散々我儘だ、身勝手だと詰られた。だけど、私のなかにあったのは信念などという崇高な代物ではなかった。


 私は単に、観測が好きだった。もっと言えば、好きなだけだった。


 だから現実と折り合いをつけて、結婚までの刻限だって決めていた。十七歳までと思っていたのが十八歳までになって、それが十九歳までにずるずると伸びたけれど、ゆくゆくはそんなことはやめて、人並みに結婚するつもりだった。

 ――でも。

 あと少しだけでいいから、風を浴び、太陽に目を眇めて、その移り変わりに大騒ぎする先生の講釈に耳を澄ませていたかった。


「……あと少しだけ、私の手元にあったところで、夏の王はお怒りにならないんじゃないですか」

「ええ、まあ。これまでのリアラ様も、数日もすれば寄越してくれましたしね」


 そう。我儘で身勝手な私は、どうせひと月後にはいなくなる。リアラとして、死ななければならないのだから。


 だけど、それまでのあいだだけは。


 私は静かに目を閉じる。微かに走った胸の痛みには、気づかないふりをした。

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2025年12月27日 17:00
2025年12月28日 17:00

十三月の乙女はかく去れり 雨谷結子 @amagai_y

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