青の崩壊

@aono_haru17

第1話

プロローグ

夜が静かに降りてくるたび、彼は一つの記憶だけを思い出す。

それは痛みでも、希望でもなく、ただ確かにそこにあった透明な声。

――その声が、全ての始まりだった。

深夜0時すぎ、カーテンを開けっぱなしの部屋に、灰色の街灯がぼんやりと射している。

結城一世は布団の中で天井を見つめていた。

眠れない夜は、いつも彼をあの場所へ連れていく。

心の中にしかない“もうないもの”へ。

スマホの通知はもう数時間前から途絶えている。

友達はいる。表面上の関わりも途切れてはいない。

でも、内側で繋がっていると感じられるものは、たった一つしかなかった。

そしてそれは、今ここにはない。

誰かに期待することが怖くなっていた。

“優しくされたい”よりも、“裏切られたくない”が先に来る。

それが当たり前になってしまったのは、あの日からだ。

きっかけなんて、誰も覚えていないような些細なことだった。

それなのに、自分の中では世界が終わったような気がして、

時間が止まってしまったように思えた。

そんな“あの日”が、彼にはある。

一世は静かに目を閉じた。

でも、その閉じた瞼の裏側にだけ、彼女はまだ生きていた。

微笑みながら、泣きながら、彼を見つめていた。

「なあ、俺……生きてて、いいのかな」

自分でも口にした言葉に驚きながら、彼は息を吐いた。

答えはない。けれど、それでも世界は次の日を連れてくる。

もう戻れない場所で、彼は今日もまた、夢の中に逃げる。

第1章:ふたり、壊れる前の静けさ

葵と出会ったのは、春の匂いが残る教室だった。

まだ桜が舞っていて、世界がほんの少しだけやさしく見える季節。

結城一世は、転校初日の席で名前を呼ばれたあと、教室の隅にいたその子と、目が合った。

葵は目をそらさなかった。

誰よりも静かで、でも、何かを言いたそうな瞳をしていた。

その一瞬で一世は気づいた。「この子は、自分と同じだ」と。

休み時間、葵は誰とも喋らずに机に突っ伏していた。

けれど、周囲から孤立しているわけではなかった。

“話しかけにくい”という無意識の線が、彼女の周囲に自然と引かれているだけだった。

一世はその線を、気づかないふりをして越えた。

「ねえ、なんで寝たふりしてんの?」

葵は少しだけ顔を上げて、目の端で一世を見た。

「寝てる方が楽だから」

その答えが、なぜかやけにリアルで、一世は笑った。

「じゃあ、俺も寝たふりしよっかな。楽したいし」

葵は、初めて口角をわずかに動かした。

それが、ふたりの始まりだった。

その日、ふたりは人気のない川沿いを歩いた。

夕方の風はまだ肌寒くて、葵の黒いカーディガンが時折風に揺れた。

沈黙が続いても、一世は不安にならなかった。

むしろ、何も言わない時間こそが、彼女との距離を近づけてくれている気がした。

「誰かと一緒にいるのって、めんどくさいよね」

葵が不意に口を開いた。

「でも、今日みたいな日は、ひとりじゃなくてよかったって思える」

「そうなんだ」

「……一世って、変わってるよね。普通、こういうの嫌がるでしょ」

「俺もそう思ってたよ。人といるのって、苦手だった」

「だった?」

「うん。でも今は違うかも」

葵はそれ以上何も言わなかったけれど、

その日、ふたりは川沿いで日が沈むまで並んで座っていた。


その後も、ふたりの距離は少しずつ近づいていった。

葵は徐々に言葉を増やすようになり、

一世はその変化を、静かに、でも確実に受け止めていた。

学校の帰り道、コンビニでアイスを買って、

公園のベンチで食べながら他愛もない話をする日々。

「生きるのって、めんどくさいよね」

「でも、アイスはおいしいじゃん」

「……たしかに」

そんなやりとりが、何気ないけれど一世にとっては特別だった。

あの日々は、確かに“救われている”と感じられる時間だった。


ある日、葵はぽつりと呟いた。

「もしさ、私が突然いなくなったらどうする?」

「え、急にどうした?」

「別に。ただの仮定」

一世は少しだけ考えて、答えた。

「多分、俺もちょっとだけ壊れると思う」

葵は少しだけ、目を伏せて笑った。

「じゃあ、いなくならないように頑張る」

数週間後、一世は葵の様子が少しずつ変わっていくのに気づいた。

笑う頻度が減り、目を合わせなくなり、返事も短くなる。

だけど彼女は何も言わなかった。

一世もまた、それを問い詰めることができなかった。

ある日、放課後の教室でふたりきりになったとき、

一世はついに問いかけた。

「最近、なんか元気ないよね」

葵は、窓の外を見たまま答えた。

「バレてたんだ」

「そりゃあな。毎日見てるし」

「うち、ちょっと大変でさ。

……いや、“ちょっと”じゃないかな」

葵は苦笑しながら、椅子に深く座り直した。

「親のことで色々あって。家にいたくないんだ」

「それで、最近……」

「うん。学校だけが、ちょっと楽だったのに、

最近はそこも苦しくなってきちゃって」

その言葉に、一世は何も返せなかった。

ただ横に座り、黙ってその話を聞いていた。

葵は続けた。

「だからね、一世がいてくれて、ほんとに助かってる。

でも……助けられてるって思えば思うほど、怖くなるんだよね」

「なんで?」

「だって、それが壊れたら、もう逃げ場がなくなっちゃうから」


その日の夕方、一世は家まで送るふりをして、

途中の公園で一緒に座ったまま、何も言わずに空を見ていた。

葵はうつむきがちに、「ありがと」とだけ呟いた。

それが、ふたりが“はじめて心から繋がった”瞬間だったように思えた。

だけど一世は、

その繋がりが“壊れたときの痛み”までをも、

この時すでに、どこかで予感していた。

一世が葵の家に初めて行ったのは、梅雨が始まる少し前だった。

「今日、うち来てくれない?」

放課後、そう言った葵の声は、少し震えていた。

理由は聞かなかった。聞かなくても、何かが限界に来ていることはわかった。

葵の家は、古い団地の3階だった。

靴を脱いで上がると、空気が湿っていた。

生活のにおいというよりも、“塞がれた時間”のにおいだった。

部屋には誰もいなかった。

葵の親は、夜遅くまで帰ってこないという。

「ごめんね、汚いでしょ」

「別に、普通だと思うけど」

「そう言ってくれると助かる」

葵は部屋の隅の布団に座り、一世も横に腰を下ろした。

無音の部屋。時計の針の音だけが、カチカチと静かに鳴っていた。

「ここにいると、いろんな音が聞こえるの。

心臓の音とか、自分の呼吸とか、時計の音とか……

それがだんだん怖くなるんだよね」

一世はそっと手を差し出した。

言葉ではなく、指先だけでその孤独に触れるように。

葵はためらったあと、その手を握った。

それがどれほど深い“助けて”だったのか、一世はその時まだわかっていなかった。

それからというもの、葵はたびたび「家に来て」と言うようになった。

最初の頃は間隔が空いていたけれど、徐々にその頻度は増えていった。

理由は言わない。ただ、そばにいてほしいのだとわかっていた。

ある夜、二人で布団に横になっていたとき、葵がぽつりと話し始めた。

「夜が怖いんだ。

寝て、起きて、また朝が来る。

それを繰り返すだけの日々が、だんだん自分じゃない気がしてくるの」

「俺は、そういうとき、ゲームとか音楽でごまかす」

「一世って、ちゃんと逃げ方を知ってるんだね」

「でも、そっちの逃げ方のほうが深刻だよ。

だって、俺は“何か”で紛らわせられるけど、

君は“誰か”じゃなきゃ埋められないんだろ?」

葵は小さくうなずいた。

「……ごめんね」

「謝らなくていいよ。俺はそれで、いいんだ」

本心だった。

葵のそばにいられるなら、それだけでよかった。

たとえそれが“都合のいい存在”だったとしても。

でもその夜、葵はふとこう言った。

「いつか、一世がいなくなったらって考えると怖い。

でも、その“いつか”が来るって、もうどこかで分かってる」

「なんで?」

「だって、幸せって、壊れる前に気づけないものだから」

一世は言葉を失った。

彼女は自分以上に、終わりを信じていた。

出会いよりも、別れの気配に敏感なまま、大人になろうとしていた。

「もう無理かもしれない」

ある日、葵は教室のベランダでぽつりとそう言った。

授業の合間、ふたりだけがそこにいた。

彼女の声は、風に溶けるように小さくて、でも確かに耳に残った。

「何が?」

「全部。生きるのも、期待されるのも、答えるのも」

一世は返す言葉を見つけられなかった。

励ましも、慰めも、その場には似合わなかった。

「じゃあ、やめる?」

「……え?」

「頑張るの。頑張るのを、やめてみる?」

葵は驚いたように目を見開いた。

その後、ふっと目を細めて、ほんの少し笑った。

「一世ってさ、そういうとこ、ズルいよね」

「ズルい?」

「うん。いつも、こっちが“落ちてもいい”って思わせてくれるくせに、

落ちた瞬間、一番近くで見てるから」

「それ、嫌?」

「……すごく、ありがたい」

その日の帰り道、葵は一世の袖をつかんだまま、なかなか離さなかった。

信号が青になっても、手は離れなかった。


一世の中でも、何かが変わり始めていた。

葵のために自分を削ることが、当たり前になっていた。

優しさという名の依存。

愛情という名の執着。

でもそれが、“彼女を救っている”のだと信じたかった。

ある夜、ふたりは初めてキスをした。

何の演出もなく、ただ、感情だけがそこにあった。

「……好きになっていいの?」

葵の問いに、一世は「もうなってる」と答えた。

そのとき、葵の目から涙が一粒、こぼれた。

「ありがとう。でも、それが一番怖いんだ」

「わかってるよ。俺も同じ気持ちだから」

二人の間には、越えることのできないであろう線引きがあった。

この一線を越えてしまっては、もう破壊の一途を辿るしかないという確信が、二人には確かに存在した。

「今日、うち誰もいなの」

「……よかったら泊まっていかない?」

「奇遇だね。俺も今日、両親居なくて」

二人は静かに見つめ合い、笑みを共有しながら唇を重ねた。

第3章 傘のない未来

葵と一緒に過ごす時間は、相変わらず穏やかだった。

でも、その穏やかさの中に、どこか張り詰めた音が混じるようになったのは、

「受験」という言葉が現実味を帯びてきた頃からだった。

ある昼休み、一世が進路希望調査を書き終えて葵のもとへ向かうと、

彼女はノートにただひたすら同じ言葉を殴り書いていた。

「やめたい やめたい やめたい」

「……葵」

彼女は驚いたように顔を上げたが、次の瞬間、何もなかったかのように笑った。

「落書き。意味ないよ、こんなの」

そう言ってページを破り捨てた手が、わずかに震えていた。

放課後、ふたりはまた例の川沿いを歩いていた。

寒風が頬を刺すような季節になっていたが、それでもふたりは並んでいた。

「もうすぐ卒業かぁ……信じられないね」

一世がぽつりと呟いた。

「うん……でも、怖いね」

「なにが?」

「全部。大学に行って、自分で生活して、将来を考えて……そんなの、ちゃんとできるのかなって」

「俺も怖いよ。でも……葵となら、少しはマシになるかもって思ってる」

葵は黙っていた。だがその沈黙は、かつての安心ではなく、不安の匂いがした。

その夜、一世は自室で勉強していた。

LINEの通知が何度も鳴る。全部、葵からだった。

「眠れない」「気持ち悪い」「消えたくなる」「一世、いま何してる?」

彼は返信に迷った。問題集を閉じてスマホを手に取る。

「今、勉強してた。どうした? 何かあった?」

既読がついたまま、数分間、返信はなかった。

やがてようやく返ってきたメッセージ。

「ううん。なんでもない。ただ、一世の声が聞きたかっただけ」

一世はスマホを耳に当てながら、小さくため息をついた。

数日後、葵が学校を休んだ。

心配になった一世は放課後、彼女の家を訪ねた。

団地の前で立ち尽くしていると、上から視線を感じた。

顔を上げると、3階のベランダから葵がこちらを見下ろしていた。

彼女は何も言わず、ただ手を振った。

一世はその視線の温度に、微かにゾッとした。

玄関を開けると、葵は部屋着のまま、無言で引き入れてきた。

リビングにはカーテンもなく、日が傾きかけた薄い光が床を照らしていた。

「今日は?」

「体が重くて。何もできなかった」

そう言って、葵は自分の足を見下ろしたまま黙った。

「俺が来て、迷惑だった?」

「違う。……逆。いてくれて助かる」

「じゃあ、何かしてほしいことある?」

葵はふるふると首を横に振った。

「ただ、そばにいて」

その頼り方が、一世の中に小さな違和感を残した。

“助けたい”という気持ちと、“依存されている”という実感がぶつかり合い、

胸の奥で静かにせめぎ合っていた。

卒業式まで、あと3週間。

ふたりは同じ大学への進学が決まった。

嬉しいはずの知らせに、葵は一瞬笑ったあと、すぐに目を伏せた。

「よかったね、受かったね……」

「葵もじゃん」

「……うん。でも、なんか、怖いの」

「また?」

「一世が大学で、私よりずっと自由になって、いろんな人と関わって……

そうやって、私から離れてくんじゃないかって」

「……バカだな。俺が誰を見てると思ってんの」

「それが信じられなくなる時が、あるんだよ」

葵はそう言って、袖で目元を拭った。

卒業式のあと、ふたりは夕焼けの下で並んで歩いていた。

春の風が吹いて、桜のつぼみが小さく揺れていた。

「ねえ、大学行っても、毎日会えるよね?」

「うん。むしろ、いっぱい会おうよ」

「じゃあ、さ……私、実家出たい。……一世と一緒にいたいの」

「え?」

「だめかな……?」

一世は戸惑いながらも、頷いた。

「……考えてみる」

その返事に、葵は少しだけ安心したように笑った。

でも、一世の中で何かがまたひとつ重たくなった気がした。 

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