第二章

 深夜と言うには少し早い二十二時半。

 喧騒から離れた住宅街に聞こえるのは、遠くの大通りを走る車のエンジン音のみ。


 空には、淡く輝く月が遠慮がちにぼんやりと浮かんでいる。

 微かな月光に照らされるその影は、しなやかな体を持つ長身の男。


 彼は一軒の家の前で足を止めた。

 誰も気づくことのないように、まるで風のように滑らかに、その家の門扉を開ける。


 確認するように、玄関のドアノブを軽く回す。 

 開かない、鍵がかかっているようだ。

 この行動から、おそらくこの家の住人ではないであろうとの察しがつく。


 男は家屋の横を通り裏口に回ると、一つの窓に目を付けた。


 横開きの窓ガラスに手をかける……開かない。

「………」

 一瞬、思案するような表情を見せた彼は、内ポケットからナニかを取り出した。




 男は侵入者ではあるが、律儀に靴を脱いだ状態で部屋に降り立つと、口に咥えた懐中電灯を手に取って周りを照らす。

「おっ邪魔しま〜す」


 あまり生活感の感じられない部屋だ。六畳間くらいであろうか?


 いくつかのスタンド式ハンガーが並び、スーツやジャケットがかけられている。

 濃紺などのダーク系のモノが多い。


 ドアを開けると隣りの部屋へと移動する。



 その部屋は壁に作り付けの本棚があり、雑多な書籍がびっしりと詰め込まれていた。いわゆる書斎だろう。


本棚を見れば、その部屋の住人の人となりがわかる――と言うが、この本棚からはソレがわかりにくい。


 あまりに多種多様な本が並んでいるのだ。


 雑誌から始まって、法律関係の書物、世界の犯罪史……中には、子供向けの図鑑などもある。


 彼はそのうちの一冊を手に取る。

大きな書体で書かれたタイトルは[本当にあった世界の心霊現象]。

 暗くてわかりにくいが、男は少し苦笑したようであった。



「それ、売り飛ばしてもそんなに価値ないぞ」

 急に背後から声をかけられたが、侵入者は焦る様子もない。

「だけど、まだ読みかけだから、そこに置いておいてくれ」



「この辺の家は、警察関係者の住まいばっかりだぞ。コソ泥なら盗みに入る家、間違えたんじゃないか?」

 この家の住人は慌てることなく呟く。

 言われた侵入者も、手にした本を素直に机の上に戻した。


「じゃあ、両手を挙げてゆっくり振り向いてくれ」

「両手だけで良いのか?なんなら、両足もあげようか?」

 言われるままに両手を挙げた侵入者は、茶化すようにそう言ってからゆっくり振り向いた。


 住人の手が、照明のスイッチに触れる。

 明るくなった室内で二人の男が向かい合う。


 カーキのサマージャケットとスラックスに身を包んだ、くせっ毛が目立つ侵入者の青年。

 かたや、この家屋の住人と思われる方の青年は風呂から上がったばかりなのか、整えられていないボサボサの髪のままで首からタオルをかけている。



「……なんだ、恋次か」

 先に口を開いたのは風呂上がりの青年だった。

 ちょっと呆れたような口調だ。

「二年ぶりの再会なのに、ずいぶんご挨拶だな良介」

 恋次と呼ばれた男はニヤッと笑った。



 二人の男は客間に移動した。

「で?お前、どこから入ってきたんだ?」

 辻峰良介は冷蔵庫からペットボトルの無糖紅茶を取り出し、グラスに注ぐと客人の前に置く。

「窓」

「おかしいな?窓は鍵掛かってただろ?」

 首を傾げる辻峰。


 一瞬の沈黙。

「まさか、割って入ったのか?」

 問い詰める辻峰に対し、男は頭を左右に振って答える。

「そんな、乱暴なことするわけないだろ」

「じゃあ、どうやって……」

「窓枠ごと外した」

「………」

 予想の斜め上の侵入方法だ。



 礼儀正しい侵入者の名は沖田恋次。

 この家の家主である辻峰良介の通っていた【インテリジェンス・セキュリティ・カレッジ】略称【I・S・C】の同期卒業生である。


 警察・消防・救急医療・調査員などの異なる職業従事者をサポートする人材を総合的に育成する五年制の学校――それが【I・S・C】だ。


 この学校を卒業した者は、【アシストエージェント】と呼ばれ、それぞれの業種のサポートメンバーとして、一定の発言権を持つことが許される。


 警察関係の【アシストエージェント】となり犯罪捜査官となった辻峰と違い、沖田恋次は調査員育成学部を卒業後、犯罪のみならず総合的な事案に対する調査官となった。  



「元気だったか?アメリカでの仕事は上手くいっているのか?」

 旧友の破天荒ぶりはいまさらのことらしく、辻峰はため息一つ落とすだけで、話を変える。

「まあまあだな。そっちは?」

 グラスを手に取り、沖田は一息でお茶を飲み干す。

「相変わらずだよ」

「そう言えば……この前、結奈ちゃんの依頼で調査の仕事したよ」

 様子を伺うように沖田は言った。


 一瞬、辻峰の動きが止まる。


「そうか。元気そうだったか?」

 辻峰の言葉は力無い。

「ああ。彼女に聞いたけど離婚してから、全然会っていないんだって?」


 沖田恋次が口にした結奈という女性は、彼や辻峰と同期で調査員育成学部を卒業した女性で、辻峰良介の元妻である。

 二人は卒業してすぐに結婚したが、とある事件に巻き込まれたことで愛娘を失い、その悲しみから辻峰と別離した。


 現在は、米国の地域社会に焦点を当てた機関で、問題解決を行う調査員として勤務している。



「いまさら、会う必要もないしな。元気ならそれで良いよ」

 手元に灰皿を置き、煙草に火をつける辻峰の表情は『これ以上、その話に触れるな』と暗に語っていた。


「そうか……」

 飄々としているが、人の心の機微にめざとい沖田はそれ以上踏み込むことはしない。



「それはそうと、腹が減ったよ。久しぶりに金竜軒に行かないか?」

 沈みかけた雰囲気を元に戻すように、沖田は明るく言った。


 金竜軒は、彼らが学生時代にいきつけにしていた夜間営業の、いわゆる町中華の店だ。


「良いけど、こっからじゃ車で三〇分近くかかるぞ。誰が車出すんだ?」

 尋ねられた沖田は、当然といった表情のまま、無言で辻峰を指差す。


「………はぁ」

 諦めた表情で深くため息を落とす辻峰。


「わかったよ。着替えてくるからちょっと待ってろ」

 彼の言葉に満足気に頷いた沖田は、机の上のペットボトルに手を伸ばしてグラスに注いだ。

「それだけ飲んだら、窓ガラス直しておけよ」



 それからおよそ十五分後、二人は車中の人になっていた。

 辻峰の自家用車であるミドルサイズSUVは夜の街を滑るように進む。


「一人者の車にしちゃデカいな」

 助手席の沖田は片手に持った缶コーヒーを口に運びつつ、流れる車窓を見ながら言った。


 確かに、数名の家族全員が快適に過ごせる室内空間と、荷物をたっぷり積めるラゲッジスペースを備えているこの車は一人で運用するには少し大きい。

「一人者になる前に買ったからな」

 その呟きに車内が静かになる。



「金竜軒行くのも久しぶりだな。良介は?」

 沖田が話を変えた。

「半年くらいぶりかな」

 髪を軽く乾かし、襟付きのソフトなシャツにジーンズという軽装でステアリングを握る辻峰が答える。

「ふぅん」

 問いかけておきながら、さほど興味がない態度の沖田は、エアコンのスイッチに手を伸ばし、風速を最大にした。

「この時間でも、まだ暑いな」

「マンハッタンは暑くないのか?」

 フィルター近くまで吸った煙草を灰皿に押しつけながら辻峰は尋ねる。

「似たようなもんだよ」



 深夜近くなり、車の交通量も減り始めたため、予想より早く目的地に近づいてきた。


 車は、彼らが学生時代を過ごした学校の横を走り抜ける。



 校地面積は約165,000平方メートル。

 寮生用の大きな宿舎を中心にして、[警察][消防・防災][救急医療][調査員]の四つの学部ごとに別れた校舎が東西南北に向けて十字を描くように配置されている。

 五年制の教育期間だが、生徒総数はおよそ三〇〇〇人。

 校地面積に対して学生数が少なく、少人数制教育が実施されているのが特徴だ。



「予想より早かったな」

 呟いた辻峰の指先がウインカーにかかる。

信号を右折したら、すぐ目的地の金竜軒の駐車場だ。


 三台分のスペースに他の車はない。




 金竜軒は辻峰たちが学生だった頃から、変わらぬ佇まいを見せていた。

 日焼けした赤い暖簾には[本格中華]と書かれている。


 先頭に立つ沖田はガラガラと音を立てて、引き戸を開けた。

「マスター、まだやってる?」


 ほんのりと油が染みついた懐かしい香りが鼻腔をくすぐるように漂う。

 少し擦り切れた赤い椅子と、どこかくたびれたプラスチックのテーブルが並び、壁には色褪せた手書きのメニューがズラリと貼られている。

 そこに書かれた料理の名はどれも親しみやすく、心をほっとさせた。


 平日の夜のためか、他の客の姿はない。


「らっしゃい!お、これは珍しい客だね」

 沖田の呼びかけに、厨房の中で雑誌を読んでいた小柄な男性が顔を上げた。


 ツカツカと店内に入り、一番エアコンに近い席に座る沖田。

 そして、辻峰も片手を上げながらその後に続く。


「久しぶりだね、お二人さん」

 マスターは冷えた麦茶の入ったコップとおしぼりを机に並べた。

「今日は珍しく空いてるね」

 沖田は冷たいおしぼりを手に取ると、指先と手のひら、そして顔を拭う。

「平日の夜はこんなもんだよ。最近、不景気で飲んだ後に寄ってくれるお客さんも減ってきたしね」

 肩をすくめたマスターは、「二人とも煙草、のむよね?」と二人の前にアルミ製の灰皿を置いた。



 ――煙草をのむ

 今ではあまり使われない表現だ。



「俺は味噌チャーシュー大盛りと餃子」

 メニューも見ないで注文した沖田は、勝手知ったる様子で瓶ビールの入った冷蔵庫まで行くと、ビールと栓抜き、そしてビールメーカーのロゴが入ったコップを手にして席に戻ってきた。

「運転する人間を目の前にして、よくビールを呑めるな……」

 麦茶に満たされたコップを持った辻峰が嫌味っぽい口調で呟く。

「俺は塩メンマラーメンと、トッピングでゆで卵ください」

 辻峰も常連らしく、メニューを見ないで注文する。

「あいよ」


 マスターの声を合図にするように、奥の厨房からは湯気が立ち昇り、鉄鍋を振る音が響き始めた。


「先月だったかな?彼も来たよ、あのガタイの良い……」

 厨房からマスターの声が聞こえる。

「光一郎?」

 ビールを一息に呑みながら沖田が呟く。

「そうだ、そうだ。遠野光一郎くんだ」

 ジュウッと餃子を焼く音。

「よくフルネーム、覚えてますね」

 のんびりした口調で辻峰が言った。

「俺が若い頃に人気のあった映画俳優に、遠野光太郎っていうのがいたからね」


 マスターとは年代が違うため、二人ともその俳優の名前に聞き覚えはなかった。



 遠野光一郎は二人と同期で 【I・S・C】の[医療]学部を卒業した生真面目な性格の青年である。


「彼、この近くで働いてるって言ってたよ」

 焼きたての餃子と二枚の小皿をテーブルに置きながら、マスターは言った。

「そうなのか?」

 問いかける沖田に、辻峰は頷きで答える。

「今年来た年賀状に書いてあったな。吉祥寺の武蔵野総合医療センターだったかな」

「俺、聞いてないぞ」

 そう言うと沖田は、香ばしい匂いの餃子を一つ、そのまま口に運んだ。

「お前、アメリカだし。住所不定だったろ?」

 辻峰は呆れたような口調だ。

「そこを調べて連絡するのが友情ってもんだろ」

 肩をすくめる動作が絵になる沖田。



 そうこうしている間に、二人の前に熱々のラーメンに満たされた丼が並んだ。


 白い湯気がふわりと立ち上り、香ばしいスープの香りが鼻をくすぐる。

 沖田の注文した味噌ラーメンは、濃厚な豚骨と鶏ガラのコクが絶妙に調和し、口の中で広がる旨味を予感させた。

 一方の塩ラーメンは昆布と煮干しの出汁。

トッピングのメンマと輪切りにされたゆで卵がそっと寄り添う。


 二人は、ほぼ同時に「いただきます」と呟いた。



「しかし本当に君たちは仲が良かったね」

 マスターはそう言ってから、厨房に戻り冷水を飲んだ。

「………」

 スープをレンゲですくって口に運ぶ辻峰。

 微かに苦笑しているように見える。

 麺を啜り上げる沖田も同じような表情だ。



 実を言うと学生時代の辻峰と沖田。そして今、会話に登場した遠野光一郎はあまり仲が良くなかった。


 学部は違うが、それぞれが目立っていたため、お互いをなんとなく避けながら過ごしていたのだ。


 沖田は辻峰のとっつきにくい性格を嫌い、対する辻峰は沖田の飄々とした態度に苦手意識があり、遠野光一郎は生真面目すぎて付き合いにくい存在であった。



 だが"とある人物"を通じて、三人の関係はだんだんと変わっていったのだ。



「そう言えば、彼は元気?」

 旧知の客が来たのが嬉しいのか、マスターはいつにも増して饒舌になっている。

「君らの後輩、人懐っこい……たしか消防士になるって言ってた彼」

 マスターの発言に、二人の箸を持つ手が止まる。



「慎……羽衣慎。あいつは俺たちが卒業した後に……火災現場での実地訓練の時に殉職したんだ」

 言いにくいことを口にしたのは辻峰であった。


「殉職?学校の授業中に死んじまったってことかい?」

「うん。消防関係は実際の現場での活動について行っての訓練があるから、たまにそういうこともあるんだよ」

 呟いた沖田は、ぬるくなり始めたビールを飲み干す。



 消防・防災学部に在籍していた羽衣慎は、遠野も含めた三人にとって三歳年下の後輩であった。


 先程マスターが言った通り、彼は人懐っこい性格で、三人の共通の後輩として非常に懇意にしていた。


 成績優秀で、学科試験も実地技能試験も常に学年で五位以内に入っている将来を期待されている青年であったが、志半ばで殉職した。



 それは、正規の消防士に同行しての初実施訓練の時のこと――火災自体はボヤで済んだのだが、不運にも慎が消火作業にあたっていた場所のみが、何故か激しく燃えた跡があった。


 火の気がない場所であったため、後の調査の結果、その火災発生の原因は放火であったと言われている。



『誰かの悪意が関与している可能性がある、原因不明な火災で失われた後輩の命』


 それこそが、彼ら三人……辻峰良介、沖田恋次、そして遠野光一郎の人生を大きく変えた出来事であった。


 辻峰は、理不尽に命が奪われることへの怒りを胸に、犯罪を憎み社会を守る警察関係の道を邁進。

 遠野は救えなかった命への深い悲しみから、これ以上の被害者を出さないために医療知識を磨き続けた。

 そして沖田は、警察組織の限界を痛感し、警察では届かない真実に迫るため、独自の方法でアプローチできる調査員を目指したのだった。



 無言の店内に、二人が麺を啜り上げる音だけが響く。



「そう言えば、一回、みんなが別嬪さん連れてきた事あったよね?」

 暗くなった雰囲気をなんとかしようとしたのか、マスターは明るい口調で言った。


「ん?あ……ああ、塔子さんのことかな?」

 奥歯でメンマを噛みながら答える辻峰。

「あぁ、あの時か。慎も含めて珍しく四人そろっていた時だったよな」

 最後の一個の餃子を口に放り込んで、沖田はそう言った。




 それは彼ら三人が入学して、四年が過ぎた時のことである。

 その頃には羽衣慎が鎹となって、辻峰たち三人もお互いに少し心を開いて接している頃であった。


当時、【I・S・C】の生徒は学外での買い食いを禁止されていた。

 もっとも、有名無実な校則であり、守っているのは一部の真面目な生徒のみである。


 そんな真面目な生徒の中に、瀧宮塔子も入っていた。



 瀧宮塔子。

 辻峰良介たち三人の学生時代の一年先輩の女性。

 今は、三鷹警察署捜査一課の【アシストエージェント】として勤務している。

 辻峰にとっては、公私共に世話になっている存在だ。




 それは、東京にその年最初の雪が降った翌日の寒い冬の日の出来事。


 年間恒例行事[各科合同心技体テスト]が終了した放課後、辻峰たち四人は誰が言い出すでもなく自然と金竜軒に集まって暖をとるように暖かいラーメンを啜っていた。



「さっきの柔道のテスト見てましたよ」

 人懐っこい笑顔で、年下の羽衣慎がカレーラーメンを啜りながら言った。

「やっぱり、光一郎さんの筋肉量、すごいですね」

「そりゃ、こいつの唯一の趣味が筋トレだからな」

 丼を持ち上げ、焦がしネギ味噌ラーメンのスープを飲みながら沖田が茶化す。

「でも、結局勝ったのは辻峰だぞ」

 生真面目に答えながら、遠野光一郎は醤油味のチャーシューメンを食べている。

 店内の小さな椅子には、その筋肉質の大きな身体は窮屈そうだ。


「たまたまだよ」

 そう答えた辻峰良介が食べているのは塩バターコーンラーメン。


 ラーメンのバリエーションが多いのが、金竜軒のウリだ。


「単純な力勝負だったら、遠野には勝てないからな。相手の力を利用して投げただけだ。次も上手くいくかは微妙だよ」

 スープが麺に絡まり、ズゾゾッという音を立てる。


「そんなことより、沖田。さっき足立先生が嘆いていたぞ」

 チャーシューの塊を咀嚼しながら、遠野が沖田に向き直る。

 足立先生というのは、学科試験の担当教諭だ。

 髭面で大柄なため、生徒からは親愛の情を込めて[熊親父]と呼ばれている。


「熊親父、なんだって言ってた?」

 問い返す沖田は、イタズラが成功した子供のような笑みを浮かべていた。

「お前、前回のテストは全教科赤点だったのに、今回、採点してみたら全教科学年で三位以上だったらしい。真面目にやれとさ」

 こんなことを伝言させるなという呆れきった表情で遠野が呟く。


「すごいっスね、やれば出来るってヤツですか?」

 羽衣の口調は嫌味ではなく、心底感心している。

「感心するんじゃない。コイツはわざとやっているんだ」

 遠野は割り箸の先で対面に座る沖田を指しながら言った。

「平均を取れば、ちょうど真ん中くらいになるだろ」

 対する沖田はどこ吹く風だ。

「実力はあるんだから、もっと真面目に……」

「真面目って……あの人みたいに?」

 香ばしく焼かれたネギを咥えたまま、入り口の方に目をやる沖田。


 沖田の隣に座り、塩ラーメンのスープに沈んだコーンを掬い上げることに夢中になっていた辻峰、そして入り口に背中を向けて座っていた遠野と羽衣は一斉にそちらを見る。



「見つけた。買い食いの現行犯」

 その女性……瀧宮塔子は、黒目がちの大きな瞳で店内を見回しながら言った。

 口調は厳しいが、柔らかくしなやかな声。


「よっ!瀧宮先輩、元気?」

 沖田がヘラヘラと片手を軽く挙げた。

「よっ!……じゃないわよ」

 後ろ手で引き戸を閉めながら入店してきた彼女の制服の肩には、うっすらと雪が積もっている。


 どうやら、また雪が降り始めているようだ。


「良介や沖田クンはまだしも……遠野クンまで校則破りするなんて」

 芝居がかった動作で、小さく頭を横に振る塔子。

 言われた遠野は、筋肉質の大きな体を少し小さくした。

「……羽衣クンも、こんな悪い先輩たちに引き込まれちゃダメだよ」

 彼女は警察関係の学部に在籍しているのだが、他の学部である沖田や遠野。そして、学年さえも違う羽衣の名前も記憶している。


 名指しで注意された羽衣は恐縮した態度で、箸を止めた。


「この寒い中、風紀委員も大変だね」

 沖田は食後の麦茶を、美味しそうに飲み干しながら言った。

「大変そうだと思うなら、校則をちゃんと守ってもらえると嬉しいんだけどな」

 外はずいぶん寒かったのだろう、塔子はブルッと小さく身体を震わせる。


 学校始まって以来の才女と呼ばれ、周囲から高く評価されている塔子は、学校側からの信頼も厚く風紀委員長を務めていた。



「まあまあ、暖房にあたって身体を温めた方が良いよ。そうだっ!なんか温かい物食べたら?」

 沖田は、ゴオンゴオンと音を立てている年代物のヒーターを親指で指しながら、片手でメニューを差し出す。

「あのねぇ……これで私が食べちゃったら[ミイラ取りがミイラになる]じゃない」 

「いつも疑問に思うんだけど……ミイラ取りってなんだろうね?そんな職業聞いたことないよな」

 嫌味や茶化しているわけではない。心底不思議そうに沖田は首を傾げた。

「自分で調べなさい!それよりも……」



ぐ〜っ。


 誰かの腹が可愛らしい音を立てて鳴った。

 今、この店内で空腹な人間と言えば……。


 塔子が顔を赤らめて、お腹を押さえた。


「ほらほら、無理しないで。俺らはもう帰るから、遠慮なく食べて行きなよ」

 沖田は立ち上がりながら、遠野と羽衣慎に目配せした。

「……だから、私はっ!」

「いいから、いいから。この店、どれを食べても美味しいからさ」

 そう言って、押しつけるようにメニューを手渡すと、自分が座っていた辻峰の隣の椅子に誘導する沖田。


「塔子さんが買い食いしたってことは、学校には内緒にしておくから、ごゆっくり〜」

「………」

 空腹に気がつかれてしまった以上、強く出ることも出来ず、塔子は立ち去る沖田たちの背中を見送った。


 唯一残された辻峰は俯いている。

「……良介。何笑っているのよ」

 塔子はジトっとした目で、同じ学部の後輩を軽く睨んだ。

 どうやら辻峰は吹き出すのを我慢していたようだ。


「……もう、良いわ」

 塔子は手袋を外し、固く握りしめていた手を息で温めた。

 その顔には少し不機嫌そうな色が漂っている。


 店内の壁を見回すと、そこには眩暈がするくらいたくさんの料理名が記されていた。

 麺類、ご飯物、そして一品料理。

 料理数が多いのが金竜軒のウリだ。


「とりあえず、座ったら?」

 辻峰が軽くからかうように言う。

「………」

 塔子は椅子に腰掛けながら、手にしたメニューを盾のように顔の前に掲げ、目を合わせない。



 数十秒、沈黙が続く。

 辻峰がレンゲを置き、「ふぅ」と小さく息を落とした。



「――で?どれがおすすめなの?」

 メニューから顔を少しだけ覗かせて、彼に向かって問いかける塔子の声には、微妙に棘が混ざっている。


 辻峰は眉をひそめ、苦笑を浮かべた。

「ミイラ取りがミイラになっちゃうよ?」


 塔子は一瞬黙り、視線を横にそらした。

 先程までは、確かに食べるつもりはなかった。

 だが、店内に漂う香ばしいスープの香りが、寒さで冷えた体にじわりと忍び込んできている。


 彼女は、これ以上我慢するのは無理だと感じ始めていたのだ。


「座ったのに注文しなかったら、お店に失礼でしょ」

 そう言いながら、少し強がった表情でメニューを閉じる塔子。


「それに……こんなに美味しそうな匂いで食べなかったら、拷問よ。」

 最後の言葉をぽつりと呟くと、彼女は肩の力を抜き、テーブルにメニューを置いた。

 その表情は、さっきよりも柔らかくなっている。



ガラガラガラッ。

 乾いた音を立て引き戸が開いた瞬間、外の冷たい風が店内に流れ込む。

「う〜。寒い寒い」

 早めの夕飯であろうか。

 二人組の中年男性たちが先を争うように、店に滑り込んできた。

 さっきまでちらちらと舞っていた雪は、通りに積もり始めているようだ。



「じゃあ……あったまる餡掛け野菜ラーメンが良いんじゃないか?」

 彼の声には、ほんの少しの優しさが含まれていた。

 塔子の機嫌が直りつつあるのがわかり、ほっとしたのかもしれない。


「じゃあ、それにしようかな。」

 小さくうなずきながら答える塔子。

 辻峰は軽く手を挙げると、厨房の店主に注文を伝えた。


 カポンカポンと、再び中華鍋を振る小気味いい音が響き始める。


 店内は湯気と、中華料理店特有の匂いで満たされている。

 外では雪が静かに降り積もる中、二人のやり取りには少しだけ温かい空気が流れ込んでいた。




「あれ以降、なぜか放課後に限って買い食いオッケーになったんだよな」

 学生時代の出来事に想いを馳せながら、食後の一服の煙草を咥えた沖田は、大きく煙を吸い込む。

 喫煙習慣のない人間でも、美味しそうに見えるくらいの至福の表情だ。

「なんだ、知らなかったのか?塔子さんが学校側に掛け合ったんだよ。元々、授業を抜け出して買い食いする奴がいたのが問題だったんだから」

 テーブルの上に置かれた沖田の煙草の箱から一本抜き取り、辻峰も火をつけた。



「これにあの別嬪さん、載ってるよ」

 丼を下げにきた店主が、さっきまで厨房の中で読んでいたゴシップ誌をテーブルの上に置く。

「どれどれ……」

 若い女性アイドルがわざとらしく微笑んでいるその表紙には[アシストエージェント計画 三〇周年記念特集]と極太の字で書かれている。


 正面に座る辻峰にも内容が見えるように、雑誌を横向きに置きペラペラとめくる。


「お……これか」

 見出しの下に大々的に彼らの母校の写真が掲載され、その下には【アシストエージェント】の説明が書かれている。


「【アシストエージェント】特集って言っても、取り上げられているのは警察学部と医療学部のことばっかりだな」

 自分が在籍していた調査学部のことがあまり書かれていないことが不服だったのか、沖田は小さくため息を落とした。


ペラッ。

 乾いた音を立て、一枚ページをめくる。


「お、本当だ。塔子さんが載ってる」

 大きく掲載されたショートボブの理知的な眼差し。

 才色兼備な彼らの先輩、瀧宮塔子だ。

 その穏やかな微笑みはモノクロページでありながら、パッと誌面に華が咲いたようだ。


 そこには、【アシストエージェント】になってからの彼女の経歴とともに[美人すぎるアシストエージェント]という一文が添えられている。



「性懲りも無く、こういう雑誌は下世話なこと書くよな……」

 購入した店主に失礼にならないように、小さな声で呟く沖田。

「塔子さんが聞いたら怒りそうなこと書いてあるな」

 珍しく辻峰も彼の発言に同意した。




 金竜軒から一歩踏み出すと同時に、ムワッとした大気が二人を包む。

 今夜もまた熱帯夜になりそうだ。


「久しぶりの日本のラーメンは美味いなぁ」

 沖田は小さく「う〜ん」とうなり、背伸びをする。

「じゃあ、また連絡するよ。急に押しかけて悪かったな」

 辻峰に背中越しに手を振ると、駐車場とは逆の方向に向かって歩き出す沖田。


「うちに泊まっていったらどうだ?」

「いや、この近くのホテルに部屋を取ってあるから、酔い覚まししながら歩いて帰るよ」

 そう言って辻峰の提案を断った沖田は、軽いステップでガードレールを飛び越える。


 左右を見て、接近する車がいないことを確認しながら反対側の歩道までダッシュ。

 そのまま、またヒョイっとガードレールを飛び越える。


「子供じゃないんだから横断歩道使えよ……」

 学生時代から変わらない友人の行動を少し呆れながらも、微笑ましく見送る辻峰。



「慎の件だけどよ」

 沖田は急に振り返り、手をメガホンのような型にして叫ぶ。

「俺の方が確実にお前たちより、一歩、核心に近づいている。もうすぐ全てがわかるよ」

「核心?慎の件って……」

 急な発言に問い返す辻峰。

 しかし、その声は車道を走る大型トラックのエンジン音にかき消された。


 続けて数台の車が通り過ぎる。


 もう沖田の姿は見えなくなっていた。


「恋次……何をしようとしているんだ?」

 辻峰の不安げな呟きに答える者は誰もいない……。






 

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