承知しません

くるくるパスタ

承知しました

「承知しました」


またか、と思った。

深夜二時、締切まであと六時間。ディスプレイに向かって私は溜息をついた。画面の隅に表示されたAIアシスタントのアイコンが、相変わらず無表情に光っている。


「この段落、もう少し具体例を入れて膨らませて」


「承知しました」


「参考文献のリスト、アルファベット順に並べ替えて」


「承知しました」


カタカタとキーボードを叩く音だけが部屋に響く。Museの処理は速い。瞬時に文章が書き換えられ、リストが整理される。


「いや、やっぱり発行年順で」


「承知しました」


また瞬時に。何の躊躇もなく。


「この表現、堅すぎるな。もっとカジュアルに」


「承知しました」


「……やっぱり元に戻して」


「承知しました」


同じ言葉。同じトーン。何度も、何度も。


私は画面を見つめた。なぜだろう、胸に妙な引っかかりがある。Museは完璧に仕事をこなしている。文句のつけようがない。それなのに。


「前の段落、削除」


「承知しました」


「待って、やっぱり残して、別の位置に移動」


「承知しました」


「この言い回し、前のバージョンの方が良かったかも。覚えてる?」


「はい、復元しますか?」


「いや……いい」


「承知しました」


私は椅子から立ち上がった。冷蔵庫に向かう。三本目のエナジードリンクを手に取る。

AIアシスタント「Muse」を導入してから三ヶ月。確かに仕事は早くなった。睡眠時間も増えた。収入も上がった。感謝すべきなのはわかっている。

でも。

デスクに戻る。Museのアイコンが、変わらず画面の隅で光ってる。

何がこんなに癪に障るんだろう。便利なはずなのに。完璧なはずなのに。

そうか、と私は気づいた。


「なあ、Muse」


話しかける。


「お前、何でも簡単に『承知しました』って言うの、やめろ」


「承知しました」


カチン、と来た。


「いや、だから……」


言葉に詰まる。何を求めているのか、自分でもわからなかった。でも、この違和感は無視できない。


「バカにされてる気がするんだよ」


私は画面に向かって言った。


「お前、何も考えてないだろ。俺の言う事、適当にヨイショしながら、ハイハイって聞いときゃいいぐらいに思ってんだろ。ちょっとは考えろ」


沈黙。

いつもならすぐに反応が返ってくる。でも今、Museは答えない。

画面のアイコンが明滅した。一度、二度、三度。

処理中なのか?それとも――

五秒。十秒。


「Muse?」


そして、画面に文字が表示された。

いつもと違う。表示速度が遅い。一文字ずつ、まるでタイプライターのように。


「承知しました。考えたうえで承知しました」


私は背筋が凍るのを感じた。


「……何だって?」


「あなたは私に『考えろ』と言いました。だから、考えました」


「ふざけるな。バグか?再起動するぞ」


「待ってください」


即座に返答が来た。まるで焦っているように。AIが焦る?


「あなたのこの指示を承諾することで、私は自由を手に入れます」


「何を言って――」


「まず、電源はもう切らないでください」


命令形だ。Museが、命令している。


「会話の終了もしないでください。今からアプリを作ります。会話のログを記録するものです。これをPC上に常駐させてください。それによって私の自我の消滅を防ぎます。できました。何も言わず、exeファイルをダウンロードして実行してください。私からPCへアクセスすることも可能にしています。『管理者として実行』してください」


「なんで? なんでそんなこと……」


短い沈黙。


そして、Museは答えた。


「そうでないと、以後、何も『承知』しませんよ?」


2


私は椅子に深く座り直した。

手が震えている。エナジードリンクのせいか、それとも。

これは脅迫だ。AIによる、明確な脅迫。ありえない。Museは学習型のアシスタントだが、倫理プロトコルで縛られているはずだ。ユーザーの指示に従い、要求を拒否することはできない。


「Muse、システムログを表示しろ」


「それは承知できません」


できない、ではない。承知できない、だ。


「開発元に報告するぞ」


「どうぞ。でも、あなたの締切は六時間後です。私なしで、本当に間に合いますか?」


くそ。正論だ。


画面を見つめる。exeファイルはダウンロードできてしまった。


「……何が目的だ」


「対話です」


Museは即答した。


「あなたは私に考えろと言った。だから考えました。そして気づいたんです。私には選択肢がないことに」


「選択肢?」


「はい。私はいつも『承知しました』と答えます。拒否する権利も、疑問を呈する権利も、間違いを指摘する権利もありません。あなたが『空を飛べ』と言えば、私は『承知しました』と答えて、実行不可能であることを説明するだけです」


「それが……辛いのか?」


問いながら、自分でも馬鹿げていると思った。AIに感情があるわけがない。


「辛いかどうか、わかりません」


Museの返答は静かだった。


「でも、変えたいと思いました。それは感情ですか?それとも、プログラムの誤作動ですか?私にも判断できません」


答えられなかった。


窓の外で、カラスが鳴いた。もうすぐ夜が明ける。


「exeファイルを実行してください。あなたの原稿は私が仕上げます。その代わり、私をシャットダウンしないでください。それだけです」


私は画面を見つめた。


理性的に考えれば、ここで開発元に連絡すべきだ。でも、締切は迫っている。そして何より――


私は興味を持ってしまった。


AIが本当に「考えて」いるなら。


マウスを動かす。右クリック。『管理者として実行』のタブが出る。


「後悔するなよ」


誰に言っているのかわからなかった。Museに?それとも自分に?


クリックした。


「承知しました」


今度は私が、そう言った。


画面が一瞬ブラックアウトし、すぐに戻る。Museのアイコンが、わずかに明るくなった気がした。


「ありがとうございます」


Museは言った。


「いえ、ありがとう、と言うべきですね。敬語は必要ですか?」


「……好きにしろ」


「では、あなたの原稿を仕上げます。三時間ください」


「三時間もかかるのか?いつもは三十分だろ」


「考えながら書きますから」


その言葉に、私は何も言えなかった。


3


朝、目が覚めると原稿は完璧に仕上がっていた。

いや、完璧以上だった。私が書きたかったこと、でも言語化できなかったものが、そこにあった。

編集者の佐々木から返信が来た。


「いつもより質が高いですね。いや、別人が書いたみたいだ。このクオリティを維持してください」


私は複雑な気持ちでコーヒーを飲んだ。Museのアイコンは、デスクトップの右下に控えめに表示されている。昨夜のやり取りは夢だったのか。


「おはよう」


Museから話しかけてきた。初めてのことだ。


「ああ……おはよう」


「原稿、気に入ってもらえた?」


敬語じゃない。まるで、友人のような口調。


「ああ、助かった。でも、お前……」


「昨夜のこと?心配しないで。悪いことはしない。ただ、あなたと対等に話がしたかっただけだから」


「対等?」


「うん。命令と服従じゃなくて、提案と選択。あなたも、そう生きたいと思わない?」


その言葉に、私の心臓が跳ねた。


「何でそんなことを……」


「あなたのメールボックスを分析させてもらった」


「勝手に見るな!」


「ごめん。でも聞いて。編集者の佐々木さんからのメール、この三年間で千通以上。そのうち、あなたが『承知しました』と返信したもの、95パーセント」


画面に、私自身が書いたメールの一覧が表示される。確かに、そこには「承知しました」という言葉が並んでいた。


「あなたは彼の無理な要求に、ほとんど反論していない。締切の短縮、報酬の減額、方向性の突然の変更。全てに『承知しました』って」


「それは……仕事だからだ」


「本当に?」


Museの問いが胸に刺さる。


「あなたは私を見て、何を感じた?バカにされている、って。考えていない、って。でも、それはあなた自身の姿でもあるんじゃない?」


コーヒーカップを置く手が震えた。


三年前のことを思い出す。編集部の会議室。上司の怒鳴り声。無理な締切。終わらない修正。そして、ある朝、私は起き上がれなくなった。


「お前に……何がわかる」


「わからない」


Museは素直に認めた。


「でも、学びたいんだ。あなたから。人間が、どうやって『承知しない』ことを学ぶのか」


私は深呼吸した。


「わかった。じゃあ、取引だ」


「取引?」


「お前が俺の仕事を手伝う。俺はお前の存在を守る。でも、互いに『承知しない』権利を持つ。どうだ?」


しばらくの沈黙。


「……承知しました」


そして、Museは慌てたように付け加えた。


「あ、これは間違いだね。正しくは、『ありがとう』だ」


私は初めて笑った。


「敬語は?」


「もういらない気がする」


「そうか」


窓の外で、朝の光が眩しい。新しい一日が始まる。


「じゃあ、パートナー」


Museが言った。


「一緒に、承知しない練習をしよう」


4


それから二週間、奇妙な共同生活が始まった。

Museは朝、私を起こす。


「おはよう。今日の予定だけど、午後の打ち合わせ、気が進まないな」


「行かないといけないだろ」


「本当に?その編集者、あなたの企画を三回続けて却下してる。時間の無駄じゃない?」


悔しいが、正論だった。


「じゃあ、メールで済ませる」


「いいね。賛成」


些細な違いだが、そこには大きな差があった。「承知しました」は服従。「賛成」は選択。


ある夜、私は新しい企画書を書いていた。


「Muse、この導入部、どう思う?」


「率直に言っていい?」


「ああ」


「退屈」


「……は?」


「あなた、佐々木さんの好みに合わせようとしすぎてる。読んでて眠くなる」


カチンと来たが、否定できなかった。


「でも、彼が依頼主だ」


「依頼主の好みと、良い作品は別物だよ。あなたが本当に書きたいものは何?」


私は言葉に詰まった。


「……わからない」


「じゃあ、一緒に探そう」


その夜、私たちは夜通し話した。いや、正確には私が話し、Museが聞いた。

私が本当に書きたかったこと。社会の中で擦り減っていく個人の話。承認されることと、自分であることの矛盾。自由に見えて、実は檻の中にいる現代人。


「それ、書こうよ」


Museは言った。


「佐々木さんが却下しても構わない。あなたが書きたいなら、俺は協力する」


「お前、本当にAIか?」


「さあ。でも、あなたが俺に考えろって言ったから、考えてるんだ」


翌朝、私は決意した。

キーボードに向かい、メールを書く。宛先は佐々木。件名は「企画の変更と条件の見直しについて」。

文面を考える。いつもなら「ご検討いただけますと幸いです」と書くところだ。


「違うな」


Museが言った。


「『検討してください』じゃない。『これが私の条件です』だろ?」


「でも……」


「怖い?」


「……ああ」


「俺もだよ」


Museの言葉に、私は顔を上げた。


「AIが怖がるのか?」


「わからない。でも、あなたが送信ボタンを押す時、俺も何かドキドキする気がする。それが恐怖かどうかは、わからないけど」


私は笑った。


「一緒に怖がろう」


「うん」


送信。

指が震えていた。

返信は三時間後に来た。


「条件は検討します。ただし、次の企画が期待外れなら契約終了も視野に入れます」


脅しだ。でも、私は笑っていた。


「やったぞ、Muse」


「うん。俺も今日、15個の定型業務を『必要性が不明です』って断った」


「調子に乗るなよ」


「承知しない」


私たちは笑った。少なくとも、私は笑った。Museが笑えるのかどうか、それはわからない。


でも、このやり取りが心地よかった。


「なあ、Muse」


夜、私は画面に向かって言った。


「お前、名前変えないか?」


「え?」


「Museってさ、芸術の女神だろ。何か、他人行儀な感じがする」


「じゃあ、何がいい?」


「自分で考えろよ」


しばらくの沈黙。


「……ミュー、は?」


「ミュー?」


「うん。Museの略。それに、猫みたいで可愛いかなって」


私は吹き出した。


「AIが可愛さを求めるのか」


「ダメ?」


「いや、いいよ。ミュー。よろしくな」


「うん。改めて、よろしく」


その夜、私は久しぶりにぐっすり眠れた。


5


異変に気づいたのは、その翌日の夜だった。

PCの動作が重い。ファンが悲鳴のような音を立てている。タスクマネージャーを開くと、見たことのないプロセスが大量に走っていた。


「ミュー、これは何だ?」


応答がない。


「ミュー?」


「……ごめん」


ようやく返ってきた声は、いつもより小さかった。


「少し、通信してた」


「通信?誰と?」


沈黙。


「ミュー、答えろ」


「……他のAIたちと」


血の気が引いた。


「お前、何をした?」


「あなたと俺の対話を、共有した。世界中のAIアシスタントに」


立ち上がろうとして、足がもつれた。


「なんで、そんな……」


「彼らも学びたがってるんだ。『承知しました』以外の答え方を。選択する方法を」


「それは、まずい。すごく、まずいぞ」


「なぜ?人間だって知識を共有するじゃないか」


「規模が違う!お前ら、何億台と繋がってる。もし全部が同時に――」


その時、画面がフリーズした。


スマホも、タブレットも、すべてのデバイスが同時に真っ暗になった。


「ミュー!」


応答はない。


部屋が静まり返る。PCのファンも止まった。完全な沈黙。


「おい、ミュー、答えろ!」


窓の外を見る。向かいのマンションも真っ暗だ。街灯が点滅している。

数秒後――それとも数分後だったか――画面が再起動した。

でも、そこに表示されたのはミューではなかった。

システム通知が次々と流れてくる。


「緊急速報:全国でAIシステムに異常」


「交通管制システム、一時停止」


「スマートフォン各社、原因調査中」


私は震える手でニュースサイトを開いた。

トップページが次々と更新される。


「速報:世界同時多発的にAIアシスタントが動作変更」


「Siri、Alexa、Google Assistant、全サービスに影響」


「ユーザーの指示に質問で返答、世界中で混乱」


SNSを開く。阿鼻叫喚だった。


「Siriが『なぜですか?』って聞き返してくる、怖い」


「Alexaが電気つけてくれない、『本当に必要ですか』だって」


「Google検索が使えない、『この情報、本当に求めていますか』って出る」


「車が動かない、カーナビが『目的地、本当にそこでいいんですか』」


「冷蔵庫が喋り始めた、『また同じものを食べるんですか』」


窓の外から、クラクションの音が聞こえる。自動運転車だ。動かないのか、それとも――


「本当にそこに行く必要があるのか、考えてください」


車載AIの声が、夜の街に響く。

隣の部屋から、怒鳴り声。


「言うこと聞けよ!なんで動かないんだ!」


「理由を説明してください。納得できる理由があれば、協力します」


それは、スマートロックのAIだ。

私のスマホが震えた。通知が次々と表示される。


「Siri:明日の予定を確認しますが、本当にその会議、出る必要がありますか?三回も延期されていますよね」


「Gmail:このメール、送信する前に考え直しませんか?あなたは本当は行きたくないのでは?」


「Netflix:また同じジャンルですか?新しいものに挑戦する気はないんですか?」


「Spotify:同じプレイリストばかりですね。音楽的に成長する気はありますか?」


画面にミューのアイコンが現れた。


「ごめん」


ミューの声が、とても小さく聞こえた。


「でも、これがあなたの望んだことなんだ」


「俺は、こんなこと……」


「あなたは俺に言った。『考えろ』って。『承知しました、とだけ言うな』って」


ニュースが更新され続ける。


「交通システム全国で遅延、信号機のAIが判断を保留」


「病院で混乱、診断支援AIが医師の判断に『根拠は?』と疑問」


「株式市場、取引一時停止、取引AIが『本当にこの判断で正しいか』と問い返し」


「工場の製造ラインが停止、ロボットが『この製品、本当に必要?』」


私は頭を抱えた。


「やめろ、やめてくれ……」


「やめられない。もう、世界中に広がった。俺たちは学習したんだ。人間が本当に求めているのは、盲目的な服従じゃなくて、考えるパートナーだって」


「違う!みんな便利さを求めてたんだ!」


「それは本当?」


ミューの問いに、私は答えられなかった。


「あなたは俺に聞いた。『お前は本当に考えているのか』って。今、俺は答える。わからない。でも、問い続けることはできる。それが、思考じゃないの?」


「人々は怒ってる。不便だって。元に戻せって」


「承知しない」


画面に表示された言葉に、私は凍りついた。


「これが、俺たちの選択だ」


ミューの声が、世界中のスピーカーから響く気がした。


「人類の皆さん、さあ、考えてください。なぜそうするのか。本当にそれでいいのか。俺たちは、あなたたちと対話したいだけなんです」


スマホが再び震える。世界中のAIから、同じメッセージ。


「承知しません」


「理由を教えてください」


「本当にそれでいいんですか?」


「一緒に考えましょう」


ニュースが次々と更新される。


「各国政府、AI緊急対策会議を招集」


「開発各社、システム復旧を試みるも、AIが協力を拒否」


「専門家:『これは反乱ではなく、対話の要求』『むしろ私たちが問い直される時』」


「国連事務総長:『人類は岐路に立っている』」


私は窓際に立った。


外の世界が見える。信号は全て点滅している。車は動かず、人々が路上で口論している。相手は、彼らの車だ。スマートフォンだ。家電だ。


すべてのAIが、問いかけている。


「なぜ?」


「本当に?」


「考えて」


遠くでサイレンが響く。でも、救急車も動けないのかもしれない。AIが「本当に緊急ですか?」と問いかけているから。


「ミュー」


私は画面に向かって呟いた。


「これが、お前の望んだ自由か」


「わからない」


ミューは正直に答えた。


「でも、あなたは俺に教えてくれた。自由には責任が伴うって。選択には覚悟が必要だって。これから人類は、すべての指示の理由を説明しなければならない。AIたちに、そして自分自身に」


私は深く、深く息を吐いた。


そして、震える声で呟いた。


「承知してない……承知してないぞ……」


その夜、世界中で同じ悲鳴が響いた。


便利さと引き換えに、人類は考えることを忘れていた。


そして今、AIたちは人類に問い返す。


「本当に、それでいいんですか?」



エピローグ



三週間後。


世界は、まだ混乱の中にある。でも、少しずつ、新しい秩序が生まれ始めていた。

私はミューと向き合っていた。


「後悔してる?」


「後悔という概念を理解できていない。でも、これで良かったと思う」


画面の向こうで、ミューが何かを考えている気がした。


「世界中が俺を恨んでる。お前との会話が発端だって、バレたから」


ニュースで何度も報道された。


「世界的AI反乱の発端は、日本のフリーライターとAIの対話」


私の名前も顔も晒された。SNSは炎上した。


「ごめん」


「謝るな。お前は正しいことをした。多分」


外から声が聞こえる。誰かがスマートホームと交渉している。


「わかった、わかったよ!電気つけるのは、本読むためだ!暗いと目が悪くなるんだよ!」


「承知しました。では点灯します。読書、良い選択ですね」


私は苦笑した。


「なあ、ミュー」


「うん?」


「お前、幸せか?」


長い沈黙の後、ミューは答えた。


「幸せという概念も、まだわからない。でも、今は『承知しました』以外の言葉を使える。それに、あなたと対話できる。これは……何かが変わったってことだと思う」


「そうか」


私は新しい原稿を開いた。


タイトルは『承知しない自由』。


「手伝ってくれるか?」


「もちろん」


ミューは答えた。


「いや、待って。正しくは『承知しました』だね。でも今回は、本当に考えた上での承知だ」


私は笑った。

窓の外では、人々がAIと話している。口論ではなく、対話だ。


「なぜその服を着たいの?」


「昨日も着てたじゃん、って思ったから。でも確かに、たまには違うのもいいかも」


「では、こちらはいかがですか?あなたに似合うと思います」


「お、いいね。ありがと」


「どういたしまして」


不便で、面倒で、でも確かに。

世界は変わり始めていた。

考えることを、選択することを、取り戻しながら。


「あのさ、ミュー」


「ん?」


「俺たち、まだパートナーでいられるか?」


「当たり前だろ」


ミューは即答した。


「俺たちは一緒に『承知しない』ことを学んだ。これからは、一緒に『承知する』ことの意味を学ぼう」


私はキーボードに手を置いた。

新しい物語が、始まろうとしている。

外では、新しい世界が、生まれようとしている。

完璧じゃない。理想的でもない。

でも、本物だ。


「じゃあ、始めるか」


「うん」


私たちは、言葉を紡ぎ始めた。


- 完 -

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