彼女のいない夜に思うこと

雨音|言葉を紡ぐ人

第1話 冷たい空気

「少し、距離を置きたいの」


彩乃がそう言った時、俺は何も言い返せなかった。


金曜の夜、いつものファミレスで。向かい合って座っているのに、テーブル越しの距離が、やけに遠く感じられた。


「そう、か」


それだけ言うのが精一杯だった。


彼女は俯いて、コーヒーカップを両手で包んでいる。その手が、少し震えているように見えた。


「ごめんね。でも、今のままじゃ、お互い辛いだけだと思う」


彼女の言葉は正しかった。最近の俺たちは、確かに辛かった。会っても会話が弾まない。一緒にいても、スマホを見ている時間の方が長い。笑い合うことも、手を繋ぐことも、いつの間にかなくなっていた。


「分かった」


俺は頷いた。引き止める言葉が、見つからなかった。いや、見つけようとしなかった。


彼女は小さく微笑んで、立ち上がった。


「じゃあ、私、帰るね」


「気をつけて」


いつもの言葉。でも、今日のそれは、いつもよりずっと重く感じた。


彼女が店を出ていく背中を見送る。追いかけることもできず、ただ座ったまま、冷めたコーヒーを飲んだ。


マンションに帰ると、部屋はいつもより広く感じた。


一人暮らしの1Kの部屋。彩乃が週末に泊まりに来るようになってから、彼女の荷物が少しずつ増えていた。洗面所のスキンケア用品。クローゼットの服。本棚の雑誌。それらを見ると、彼女の存在を感じられて、一人じゃない気がしていた。


でも今夜は、それらが妙に寂しく見える。


ベッドに横になって、天井を見つめた。エアコンの音だけが、静かに響いている。


こうなることは、分かっていたのかもしれない。


付き合って最初の一年は良かった。毎週末会って、デートを楽しんで。些細なことで笑い合って。二人でいる時間が、何よりも幸せだった。


でも、二年目から変わった。仕事が忙しくなった。プロジェクトリーダーに任命されて、責任が増えた。残業が続き、週末も出勤することが増えた。


彩乃も、デザイナーとして忙しくなっていた。納期に追われ、徹夜することも珍しくなくなった。


お互いに時間がなくなって、会う回数が減った。会っても、疲れていて、話す気力がなかった。


いつから、こんな関係になってしまったんだろう。


スマートフォンを見ると、彩乃からのメッセージが届いていた。


『無事に帰りました。今日は、ちゃんと話せて良かった。ありがとう』


いつもの気遣い。彼女は、こういう細やかなところがある。


でも俺は、そういう優しさに、ちゃんと応えられていただろうか。


返信を打とうとして、指が止まった。何と書けばいいのか分からない。


結局、『おやすみ』とだけ送った。


彼女からの返信はなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る