今夜、月が寄ってきた
Natska
今夜、月が寄ってきた
今夜の月は、えらい機嫌がええ。
空にポンと浮かんで、まるで「どや、今日も照らしたるで」言うてるみたいだ。
風がぬるくて、どっちつかずな夏の気配が漂っていた。
遠くで犬が一声ほえて、あとは静かや。
街の灯りがひとつ、またひとつ眠っていくたびに、空だけが起きてる。
夜のベランダ。
ナユは麦茶をストローでくるくる回し、リョウマはその隣で、ただ静かに見ていた。
「なぁ、リョウマ。今日の月、えらい近くに見えるな」
「気のせいやろ」
「ううん、あれ絶対ちょっとこっち寄ってるで。わたし今日かわいいから」
「月にまでモテアピールすな」
ナユは笑って、ストローの棒をかじった。
その音が、夜気にほどけて消える。
ベランダの照明が切れて久しく、明かりは月ひとつ。
その光が、彼女の髪をすべるたび、夜の空気がかすかに金色を帯びる。
リョウマは、冷たい金属の手すりに手を置いた。
そこに残る体温が、自分のものか彼女のものか分からない。
遠くの国道を走る車の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
光はやわらかく、時間だけが静かに進んでいく。
「……月、ほんま綺麗やな」
「そやな」
「言ったら、なんかあったかなる」
「……それでええと思うで」
「え?」
リョウマは、しばらく黙った。
空を一度見て、ナユを一度見て、
そのあいだに、胸の奥で何かが小さく鳴った。
言葉になるには、まだ早い音。
けれど確かにそこにある。
息を吸って、ほんの少しだけ笑う。
風が頬を撫でた瞬間、
彼女の髪が、月の明かりをさらって揺れた。
「……月が、綺麗ですね」
ナユは、少し笑いをこらえるみたいに言った。
「ぷっ。なんで急に標準語なん?」
ストローをくわえたまま、ナユは笑った。
その口もとが、月の光を受けて、ほのかに透けて見える。
リョウマは視線を逸らす。
心臓が、さっきまでの会話のテンポと
ぜんぜん違うリズムで鳴り始めた。
喉の奥に、言葉が残っている。
声にしたら、たぶん壊れる。
けど、黙っていても、胸の中ではちゃんと意味を持つ。
ナユは何も知らん顔で、空を見上げていた。
その横顔に、月が触れている。
ほんまに、寄ってきとるみたいや。
リョウマは、そっと息を吐いた。
届かんでもええ。
届かんほうが、綺麗かもしれん。
月が綺麗ですね──。
それはきっと、伝わらんままが、いちばん静かで、いちばん正しい。
今夜、月が寄ってきた Natska @Natska
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