殺人処女

匿名

殺人処女である男の朝

毎朝、私は確かめる。


昨日の自分が誰かを殺していないかを。


そう確認できたときだけ、胸の奥の緊張が一瞬ほどけて、安堵がふっと差し込む。


安堵は短くて儚いが、確かに存在する。


それが私の朝の拠り所だ。


自分でも、なぜ毎朝こんなことをしているのか説明がつかない。考えても答えは出ない。


私の脳内はやりたいことで埋め尽くされている。


だが現代社会は、そのような野蛮人を野放しにしない為にある種の「ライン」を引いてくる。


私の欲望は言葉にすらしてはならない種類の衝動として、社会はそれを遠ざける。


それにも関わらず、私の想像はどんどんと深みへと引き込まれる。


どれだけ自分を嘲っても、頭の中は常にその映像で溢れている。


何度、人間の中身を混ぜてみたいと考えただろうか。

何度も、何度も、スナッフフィルムを再生した。


人が泣き叫び臓物を引っ張り出される動画を何度も何度も見た。


自身の性的嗜好のためにあえて殺される男も見た。


テレグラムで手に入れたお気に入りの映像を、映画を鑑賞するかのように繰り返し見るのが私の日課になっている。


我ながら趣味が悪いと思う。


笑えるほどに幼稚で、厨二病の延長線上にあるのだろうと自分を突き放す瞬間もある。


だが突き放しても消えない欲望がある。いつか自分も「する側」に立ってみたい──その欲望は、冷めるどころかひそかに育っている。


当然、現実には法が存在する。


法は線であり、枠であり、私たちを抑止する装置だ。法のない世界を夢見る者は多い。


みな一度は思うだろう、「法がなければ何でもできるのに」と。


だがもし本当にその世界に放り込まれたら、大半の人間はただの弱者に堕するだけだと私は思う。


無秩序は力のある者だけを守り、残りを押し潰す。


快楽殺人者と呼ばれる者たちでさえ、相手が反撃しないという前提に頼っている。


つまり彼らにとっても、力の不均衡と条件の偶然が不可欠なのだ。


私もまた同じだ。幾度「殺してみたい」と考えても、決して殺し合いを望んでいるわけではない。


まるで雛が親に餌をねだるように、私の中の衝動はただせがむばかりだ。


これを欠陥と呼ばずに何と呼べるだろう。


それゆえ、私は考える。日々、細部にまで思考を巡らせる。


毎日、毎分、毎秒、人とすれ違うたびに、その人の消え方を想像する。


どのように消えるのか、どのような痕跡が残るのか──解体や隠蔽のイメージは、具体的な手順には踏み込まずとも、頭の中で幾度も現れては消える。


思考の深さが、想像の鮮明さを育てる。


想像が現実味を帯びるにつれて、私の胸はひどく熱くなり、同時に冷えていく。


海に沈めても、埋めても、いつかは露見するだろうという漠然とした恐れ。


誰にも見つからない場所を求める渇望。


人のいない辺鄙な土地への夢想。


そうした不確かな計算が、私の想像をさらに細密にしていく。だが私は知っている。


完璧な隠蔽など存在しないという事実を。

どれだけ思索を重ねても、世界は何かを察知する。


今の私は「殺人処女」だ。

行為に及んだことはない。


だが「していない」ことと、欲望の純度は別問題だ。


私が本当に恐れているのは、行為そのものではない。むしろ、それが発覚したときに私が受ける社会的制裁だ。


人間は社会的な動物だ。暴かれた者を容赦なく排除し、孤立させる。


孤独、嘲笑、断絶――それらは肉体の死よりも深く、長く苦しい。


私は本気で考える。


人間のほとんどが、一度は誰かを殺してみたいという衝動に駆られたことがあると。


恨みであれ興味であれ、あるいは単なる退屈の穴埋めであれ。


その想いがあるからこそ、人は自制や社会規範を必要とするのだろう。


だが衝動は抑圧されるたびに肥大する。


毎朝、安堵するたびに欲望は少しずつ大きくなっていく。


だから私は考える。完全犯罪を。誰にも届かない完璧な殺人を。


完璧さを夢見ては、同時にその罪の重さを思い描く。


理性と欲望が交差する狭間で、私は今日も生きている。


あぁ、殺してみたい──と。

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