霧の館
凍。
第一章ー
午後五時を過ぎたころ、僕は霧の中を歩いていた。
ナビは狂い、スマホの電波も途絶えた。車は途中の坂道で動かなくなり、仕方なく徒歩で目的地を目指している。
灰色の霧がすべてを包み、道も、足元すらぼやけている。
――確かに、依頼書には「白鷺館(はくろかん)」と書かれていた。
地方新聞の記者として、心中事件の取材を頼まれたのだ。十年前、ある画家の一家がこの館で全員死亡した。だが、詳細な記録はどこにも残っていない。
霧の奥に、それは突然現れた。
山の中腹に、異様なほど大きな建物――洋館と日本家屋を継ぎはぎしたような造りの“白鷺館”。
屋根には瓦、玄関は石造りのアーチ、壁は白い漆喰と黒い梁が交差している。
霧のせいで輪郭がぼやけ、まるで浮かび上がっているようだ。
重たい木の扉をノックした。
返事はない。
だが――ギィ、と軋む音を立てて扉が勝手に開いた。
中は驚くほど静かだった。
埃は少なく、家具も整っている。誰かが住んでいるようにも見える。
正面には古い振り子時計があり、ちょうど五時十五分を指していた。
「……お入りください」
声がした。
背筋が凍る。
霧の中にいたときの湿った空気とは違う、ひやりとした冷気が肌を撫でた。
振り返ると、白いドレスの女が立っていた。
歳は三十前後。肌は雪のように白く、唇は紅い。黒い髪が肩で揺れ、目はまっすぐ僕を見つめている。
どこか古風で、時代錯誤な印象を受けた。
「あなたが、取材に来た方ですね?」
「ええ。新聞社の……」
「存じています。十年前のあの日から、誰もここを訪れませんでしたから」
女は微笑んだが、その笑みは氷のようだった。
リビングに通されると、暖炉が静かに燃えていた。
外は霧が濃いのに、火はゆらゆらと安定している。
壁には無数の絵が掛けられていた。どれも風景画だが、妙に歪んでいる。木が人の形に見え、空が血のように赤い。
「ご主人が画家だったとか」
「ええ。夫は白鷺志郎(しらさぎしろう)という名でした。少し変わった人でしたけど……」
女は視線を落とした。
その表情は悲しみとも、懐かしさともつかない。
「事件のことを、伺っても?」
「事件?」
女の声が少し震えた。
「ええ……十年前、ご家族がここで亡くなったという話を」
暖炉の火が一瞬、強くなった。
女の顔が赤く照らされ、瞳の奥で何かが揺れた。
「――あの日のことは、あまり思い出したくありませんの」
そう言って、彼女は立ち上がり、廊下の奥へと歩いていった。
僕はその背を目で追いながら、妙な違和感を覚えていた。
足音が、しない。
床板は古びているのに、まるで足が地を離れているかのように音が消えていた。
館の中を見せてもらいながら、僕はメモを取った。
二階には書斎、奥にはアトリエがあるという。
階段を上る途中、壁に並んだ肖像画の中で、一枚だけ目を引くものがあった。
白いドレスの女――今の彼女にそっくりな人物が描かれている。
だが、額の隅には小さく「故・白鷺 玲奈」と記されていた。
――“故”?
喉の奥がひゅっと鳴った。
まさか、と思いながらも、彼女が先に立って歩く背中を見た。
その姿は、どこか霞がかって見える。
書斎には古い日記が並んでいた。
机の上には乾いた筆と絵具皿。
カレンダーは十年前の日付のまま止まっている。
「ご主人の作品は……?」
「ええ、こちらに」
彼女はアトリエの扉を開けた。
そこは薄暗く、窓ガラスには黒い布がかけられている。
中には数十枚の絵が立てかけられていた。どれも未完成だ。
一枚だけ、布がかけられた大きなキャンバスがあった。
「それは?」
「……夫の最後の作品です」
女が布を静かにめくった。
――息を呑んだ。
描かれていたのは、館のリビング。
暖炉の前に立つ一人の男。
顔は――僕だった。
「……どういう、ことですか?」
「夫は未来を描く画家でした。あの日も、こうして誰かが訪ねてくると」
彼女の声が少しずつ遠くなる。
「“この人が、私を解放してくれる”と……」
視界がぐらりと揺れた。
暖炉の火が一瞬で消え、部屋全体が闇に沈む。
気づくと、彼女の姿が消えていた。
目を覚ますと、僕は玄関の床に倒れていた。
外から朝の光が差し込んでいる。
時計は午前七時を指していた。
夢だったのか――?
そう思いながら立ち上がると、部屋の空気が異様に冷たい。
暖炉の灰は真っ黒に焼け焦げており、壁にかかっていた絵は一枚もなかった。
ただ、床の上に一枚のスケッチブックが落ちている。
表紙には、鉛筆でこう書かれていた。
> 「取材者、白鷺館にて発見」
> 「名前:不明」
> 「発見日時:2015年10月17日」
十年前の日付だ。
胸が、音を立てて鳴った。
外に出ようと扉に手をかけた瞬間、どこからか囁き声がした。
「――やっと、解放してくれてありがとう」
振り返ったが、誰もいない。
霧の中に伸びた館の影が、ゆっくりと消えていく。
その日の夕方、地元警察の記録にはこう残されている。
「旧白鷺館跡地において、取材中の男性記者が失踪。
館は十年前に全焼しており、現存していない。」
(了)
霧の館 凍。 @HiK0B0Shi
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