第49話 潮の国ミーシェア ― 海風の街セレナ ―
果てしない水平線が広がっていた。太陽の光が波の粒を散らし、風が潮の香りを運ぶ。
海沿いの道を走る馬車の中で、仲間たちは窓から身を乗り出して歓声を上げた。
「うわぁ……! 本当に海だ!」
ミーシャの金色の瞳が輝く。白い砂浜、カモメの声、そして遠くに見える帆船。“潮の国”ミーシェアは、帝国の灰色とは正反対の色に満ちていた。
「セレナまでもう少しです。王国一の港町――魚が美味しいらしいですよ」
手綱を握るケインが微笑むと、アイカが頷いた。
「戦いばかりの旅だったものね。たまには休息も必要だわ」
「……ええ。せっかくだから、みんなでゆっくりしましょう」
そう言って、エリスは風に揺れるローブを押さえながら空を見上げた。その目には、どこか安らぎと、ほんの少しの祈りがあった。
昼過ぎ、馬車はついに大都市セレナの城門をくぐった。街全体が青い屋根で統一され、白い石造りの家々が海風に映える。港には数え切れないほどの帆船と商船が並び、甲板の上では水夫たちが網を修繕していた。潮の香りに混じって、魚と焼いた貝の匂いが漂ってくる。
「すっごーい! ほら見て、海運ギルドだって!」
ミーシャが看板を指差すと、そこには巨大な錨のマークが掲げられていた。海の交易を担うギルド”ブルータイド商会”。近海の輸送、造船、航海士の育成までも手掛けるこのギルドは、国の生命線と言われていた。
「この街では“海の加護”を祈る儀式が毎朝あるらしいですよ」
エリスが手帳を読み上げる。
「船乗りたちは出航前に、潮水で手を清めて海神レイラへ祈るんですって」
「宗教というより、生活の一部って感じね」
アイカが頷く。
「そういうの、嫌いじゃない」
港の市場は活気に満ちていた。魚、真珠、香辛料、旅人のための護符まで並び、売り手の声が絶えない。リュカは興味津々で貝殻細工を手に取る。
「これ、すごく綺麗……光ってる」
「“潮の結晶”だ。魔力を少し帯びてる」
ケインが解説する。
「封印の気配が混じってるような……気のせいか?」
「封印の残響が海にも届いてるのかも」
アイカが小さく呟いた。
そんな穏やかな空気の中――事件は唐突に起こった。
「おい、そこの嬢ちゃん! それは見本品だぞ!」
市場の魚商人が叫ぶ。見ると、ミーシャが魚を一本ぶら下げて逃げ出していた。
「ちょっと味見を――って言ったのに、お金取るなんて聞いてないわ!」
「当たり前でしょー!?」
リュカが慌てて追いかける。
「ミーシャ! 戻りなさい!」
アイカの怒声が響く。商人たちがざわめく中、ケインとハントが苦笑いを交わした。
「……まあ、旅が平和だと、こいつは必ず何かやらかすな」
「悪意がない分、質が悪い」
「誰が悪いってぇ!?」
ミーシャが振り返りながら叫び――足を滑らせ、桶の中に突っ込んだ。
「ぎゃあああ! 冷たい!」
「……魚臭くなったわね」
アイカが呆れる。
「さすがミーシャさん、体を張って笑いを取るとは」
エリスがくすくすと笑った。場が笑いに包まれ、商人も
「まったく、愛嬌があるな」
と笑って許してくれた。こうして小さな事件は笑い話となり、一行は港の奥へ進む。その道すがら、アリーシャがぽつりと呟いた。
「……この街にも、封印の痕跡があるのかしら」
ケインが頷く。
「海の底に、古代の祠が沈んでいるらしい。そこに“蒼の封印”があると――噂だ」
夜。港の灯が海面に映り、波が光の粒を揺らしていた。街の喧騒も遠ざかり、潮騒だけが静かに響く。ケインは波打ち際に立ち、剣を腰に下げたまま風を感じていた。
「こんな静かな夜、久しぶりね」
振り返ると、アリーシャがいた。髪を解き、月光を受けて銀糸のように光っている。
「……眠れないのか?」
「ええ。海の音が心地よくて」
彼女は砂の上に腰を下ろし、夜空を仰いだ。
「カルネさん、あなたに何かを託していたんでしょう?」
ケインは少しだけ間を置いてから答えた。
「“炎は形を変えても、意志は残る”――そう言っていた」
「意志、ね……」
「導師の思想も、あの人の理想も、結局は“再生”を望んでいた。だがその手段が違っただけだ」
波が寄せ、引く。アリーシャは目を細めた。
「あなたはどうするの?」
「俺は――守る。たとえ世界そのものを敵に回しても」
その言葉に、彼女は微かに笑った。
「やっぱり、あなたはまっすぐね」
風が吹き抜け、二人の間に潮の香りが流れた。
宿は港近くにあるイェシェン国風の温泉宿だった。木造の建物に紙障子、畳の部屋、そして湯けむりが立ち上る露天風呂。
「うわぁ、落ち着く~!」
ミーシャが感嘆の声を上げる。
「ちゃんと男女別々だからね!」
アイカが釘を刺す。――はず、だった。
湯船の奥、岩の陰からケインが顔を出した瞬間。
「……あれ?」
反対側からミーシャが湯桶を持って登場した。
「え? なんであんたいるの!?」
「いや、こっち男湯って書いて――」
「看板、裏返ってたんじゃない!?」
そこにエリスが湯上がりタオルを巻いて入ってくる。何を考えているのか、エリスはケインの手を自分の豊かな胸に当てて
「これも神の思し召しですね。身体の隅々までよく見てください… あっ、す、すみません! って、ケインさん!? 目をそらしてください!」
「見てない!」
「見たでしょ!」
「見てないって!」
「もー! ケインのバカッ!!」
アイカの叫びが響き、次の瞬間――ぱしん、と見事な音が浴場に響いた。
「……いった……」
「はぁ、もう……まったく……」
呆れ顔のアイカと、けらけら笑うミーシャ。
「ま、これも旅の思い出ってことで!」
「いや、思い出にしなくていいから!」
ケインの抗議は、湯けむりに消えた。
夜更け。宿の窓辺に立つケインの目に、港の水面が映る。波間で、淡い光が瞬いた。それはまるで、海そのものが呼吸しているようだった。
「……蒼の封印」
アイカが背後で呟いた。
「ええ。明日、確かめに行こう」
「また、戦いになるかもしれない」
「覚悟はできてる」
二人の視線の先、港の底から青白い光がゆらめき、まるで“何か”が目覚めを待っているかのように波打った。そして――風が強く吹き、遠くの鐘楼が一度だけ鳴った。潮風が、嵐の前触れのように冷たく感じられた。
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