第48話 旅路のはじまり ― 馬車と潮風 ―

夜明け前の帝都ガルガンティアは、まだ灰の匂いを残していた。崩れた尖塔の残骸が霧に包まれ、かつての栄華を静かに葬っている。ケインは丘の上でその光景を見つめていた。赤く焼け焦げた街並みの向こう、東の空が少しずつ青に変わっていく。新しい旅の始まりを告げるように――。

「もう行くのね」

背後からアイカの声がした。風に揺れる銀の髪が、朝の光を反射して輝く。

「ここに長居しても仕方ない。導師の次の足跡を追うなら、南の海を越える必要がある」

ケインは短く答え、背に刀を戻した。彼の視線の先には、新しく買い入れたばかりの馬車があった。白と黒の二頭立て。幌は青布で覆われ、荷台には木箱や樽が積まれている。帝国の職人が作った頑丈な造りで、旅にはうってつけだ。

「……本当に買ったのね」

ミーシャが腕を組んで呆れたように言った。

「借り物だと、いつも壊すからな」

ハントが苦笑する。

「心当たりがあるのか?」

ケインが肩をすくめる。

「お前らが暴れるからだよ。雷だの炎だの、馬が気絶するんだ」

「うっ……それは、まあ……」

アイカが視線を逸らした。アリーシャが荷台の方で小声を上げる。

「えっと、これ……積みすぎでは? ポーションと食料と……本が十冊も……」

「旅に知識は必要だから!」

ミーシャが胸を張る。

「知識より軽さが必要なのでは……」

リュカがぽそりと呟いた。

「リュカちゃん、それ正論すぎて刺さるわ!」

そんな他愛ないやり取りが、夜明けの空気を少しだけ和ませた。


朝靄の中、馬の鼻息と木箱を運ぶ音が響く。エリスが馬の頭を撫でながら小さく祈りを捧げていた。

「聖光の加護を。この馬たちが無事に旅を終えられますように」

彼女の白いローブが淡く光り、馬の瞳が穏やかに瞬く。

「やっぱり聖女だな。馬まで落ち着くとは」

ハントが感心したように言う。

「えへへ、ちょっとした祝福です」

その笑顔に、場の空気が柔らかくなる。荷を積み終えると、ケインは御者台に上がった。

「行くぞ。次の目的地はミーシェア王国、港町セレナだ」

アイカが隣に腰を下ろし、風を読むように目を細めた。

「南西に下れば一週間。だけど……帝国の残党が動いてる。警戒は怠らないで」

「ああ、わかってる」

馬車がきしむ音を立てて動き出す。道端の草花が朝露をはじき、彼らの旅立ちを祝福するように輝いていた。


昼下がり。 空は広く、風は心地よく、街道の先には穏やかな丘が続いていた。馬車の中では、ミーシャが楽器のように木箱を叩きながら歌を口ずさんでいた。

「行け行け雷の剣士~♪ 背中の刀は稲妻よ~♪」

「炎の舞姫アイカちゃん~♪ 剣舞ひと振り風が咲く~♪」

「……ミーシャ、やめろ、その歌詞やめろ」

ケインが額を押さえる。

「えー、評判いいのに!」

「誰がだ」

「わたし!」

「自己評価だけか」

笑いが起こる。エリスは微笑みながら、小さな鍋を火にかけていた。

「お昼はスープにしますね。セレナの魚介風に……えいっ」

香草と塩の香りが馬車内に広がる。

「うわ、いい匂い」リュカが目を輝かせる。

「エリス、料理上手になったな」

ハントが褒めると、彼女は少し照れたように頬を染めた。

「アイカさんに教えてもらったんです。味見、お願いします」

「おっ、弟子の成長か。いい師弟関係だな」

ミーシャが笑いながらスプーンを奪う。

「ちょっと! 先に食べないで!」

「うん、美味い。やっぱりわたしの指導がいいのね!」

「いや、教えたの私なんだけど!?」

「ははは……」

ケインが苦笑する。こうして、戦場の匂いの残る帝国を離れ、旅は少しずつ“生”の温かさを取り戻していた。


日が傾くころ、丘を越えた先の小川のほとりで野営をした。火を囲みながら、ハントが地図を広げる。

「帝国からミーシェアまでは平地が多いが、途中の湿地帯は魔物が出る」

「護衛ギルドの報告でも、ここ数日魔力反応が増えてる」

アイカが指で地図をなぞる。ケインは焚き火の火を見つめながら、低く言った。

「導師の“封印統合”……炎、水、雷。もし七つ全てが一つに戻れば、世界は壊れる」

「でも、それが導師の目的なの?」

エリスが問いかける。

「破壊じゃない。再生――そう言ってた」

「再生と破壊は紙一重だ」

ハントが静かに言った。

「古代の魔導士たちも同じ理屈で世界を壊した」

「……導師はそれを知っていて、なお進んでいる」

ケインが目を閉じた。

「だからこそ、俺たちは止める。炎の国を救えなかった分まで、今度は護る」

風が焚き火を揺らした。その炎に照らされるケインの横顔を、アイカはそっと見つめていた。彼女の胸の奥に、小さな痛みが走る。戦いの中で失われたもの、守りきれなかった命。それでも、隣にいる男の瞳はまだ前を向いていた。――あの日、剣を交えたときから、ずっとこの背中を見ている。アイカは小さく息を吸い、静かに呟いた。

「……次は、私たちの番ね」


翌朝。馬車が丘を下ると、眼下に青が広がっていた。果てしなく続く海。太陽の光が水面で跳ね、白い波が岸を撫でている。リュカが目を輝かせて叫んだ。

「すごい……これが海……!」

ミーシャが伸びをして笑う。

「やっと来たね、海の国!」

エリスは目を細め、祈るように呟く。

「この海の向こうに、まだ見ぬ精霊たちが……」

ケインは御者台で手綱を引き、海風を胸いっぱいに吸い込んだ。

「潮の匂いだ。懐かしい」

「懐かしい?」

アイカが首を傾げる。

「師匠と旅してた頃、初めて見た海もこんな匂いだった」

「……いい思い出ね」

「いや、嵐で三日三晩流された」

「……」

「笑うな」

「笑ってない」

ふっと、二人の間に穏やかな笑みが零れた。丘を越える風が、旅人たちの髪を撫でる。馬車の轍が砂地に線を描き、遠くへと伸びていく。導師の影はまだ遠い。だが、確かにこの瞬間だけは、誰もが“生きている”と感じていた。蒼い空の下、彼らは新たな旅路へ――。潮風が未来を告げるように、柔らかく頬を撫でていった。

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