食欲の秋 ― 甘い罪と彼の視線

浅野じゅんぺい

食欲の秋 ― 甘い罪と彼の視線

食べても、食べても、

心のどこかが空いていた。


満たされないのは、胃じゃなくて、たぶん心の方。

けれど、そんなことを口にしたら、

自分が少しだけ壊れてしまいそうで、黙ってスプーンを動かした。


──どうしてだろう。


太る体質じゃない。

少しふっくらしたって、笑っていられるはずだった。

でも、鏡の前で息を吸うたび、

“足りない”って言葉が喉の奥に引っかかる。



夜、シチューの匂いが部屋に広がる。

煮込む音が静かに跳ねて、時間がゆっくり溶けていく。

ドアが開いて、彼が帰ってくる。


「少し太ったんじゃない?」


何気ないひとことだった。

でも胸の奥で、小さく“カチリ”と鳴った。


「じゃあ、食べなきゃいいの?」

尖った声が自分のものとは思えなくて、

その瞬間、空気が少し冷たくなった。


……ああ、まただ。

わかっているのに、止められない。


彼は黙ってスプーンを取る。

ゆっくり口に運び、ふっと笑った。


「やっぱり、うまいな」


その笑顔が、胸の奥にじんわり染みていく。

シチューの湯気の向こうで、二人の距離が少しずつ溶けていくようだった。



「おかわり、いる?」

「……うん」


たったそれだけの会話が、妙にあたたかかった。


食べるって、すごい。

どんな言葉よりも、

一緒に“おいしい”を分け合えることの方が、

ずっと確かで、ずっと優しい。


私は思う。

完璧な体型も、映える笑顔も、

きっと、誰かに愛される条件じゃない。


誰かと同じ時間を、

“おいしい”って言いながら過ごせること。

それだけで、生きていける気がした。


「美味しいって、幸せだね」

そう言うと、彼は小さくうなずいた。

テーブルの下で、指先がそっと触れる。


その温もりが、今日を赦してくれた気がした。


──食べすぎてもいい。泣いてもいい。

罪も、愛も、混ざりあったままで。


湯気が天井へと昇り、

窓の外、秋の風がカーテンを揺らす。

シチューの香りと一緒に、

さっきまでの小さな棘が、少しずつ溶けていった。


外では、月が静かに浮かんでいる。

誰のことも照らさないまま、

それでも、見ている。


──明日もまた、きっと食べて、生きていく。

それが、私たちの“愛している”のかたちだ。

























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

食欲の秋 ― 甘い罪と彼の視線 浅野じゅんぺい @junpeynovel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る