食欲の秋 ― 甘い罪と彼の視線
浅野じゅんぺい
食欲の秋 ― 甘い罪と彼の視線
食べても、食べても、
心のどこかが空いていた。
満たされないのは、胃じゃなくて、たぶん心の方。
けれど、そんなことを口にしたら、
自分が少しだけ壊れてしまいそうで、黙ってスプーンを動かした。
──どうしてだろう。
太る体質じゃない。
少しふっくらしたって、笑っていられるはずだった。
でも、鏡の前で息を吸うたび、
“足りない”って言葉が喉の奥に引っかかる。
*
夜、シチューの匂いが部屋に広がる。
煮込む音が静かに跳ねて、時間がゆっくり溶けていく。
ドアが開いて、彼が帰ってくる。
「少し太ったんじゃない?」
何気ないひとことだった。
でも胸の奥で、小さく“カチリ”と鳴った。
「じゃあ、食べなきゃいいの?」
尖った声が自分のものとは思えなくて、
その瞬間、空気が少し冷たくなった。
……ああ、まただ。
わかっているのに、止められない。
彼は黙ってスプーンを取る。
ゆっくり口に運び、ふっと笑った。
「やっぱり、うまいな」
その笑顔が、胸の奥にじんわり染みていく。
シチューの湯気の向こうで、二人の距離が少しずつ溶けていくようだった。
*
「おかわり、いる?」
「……うん」
たったそれだけの会話が、妙にあたたかかった。
食べるって、すごい。
どんな言葉よりも、
一緒に“おいしい”を分け合えることの方が、
ずっと確かで、ずっと優しい。
私は思う。
完璧な体型も、映える笑顔も、
きっと、誰かに愛される条件じゃない。
誰かと同じ時間を、
“おいしい”って言いながら過ごせること。
それだけで、生きていける気がした。
「美味しいって、幸せだね」
そう言うと、彼は小さくうなずいた。
テーブルの下で、指先がそっと触れる。
その温もりが、今日を赦してくれた気がした。
──食べすぎてもいい。泣いてもいい。
罪も、愛も、混ざりあったままで。
湯気が天井へと昇り、
窓の外、秋の風がカーテンを揺らす。
シチューの香りと一緒に、
さっきまでの小さな棘が、少しずつ溶けていった。
外では、月が静かに浮かんでいる。
誰のことも照らさないまま、
それでも、見ている。
──明日もまた、きっと食べて、生きていく。
それが、私たちの“愛している”のかたちだ。
食欲の秋 ― 甘い罪と彼の視線 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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