猫柳 星の不満。

猫柳 星

第1話 園児編

初めまして。猫柳 星と申します。

私は、畑が何列も連なるような、ごくありふれた田舎町で生まれ育ちました。

遠くまで見渡せば、麦の穂や稲の波が風に揺れ、季節が巡るたびに景色の色が少しずつ変わっていく、そんな穏やかな場所でした。

友人にも恵まれていたと思いますし、幼いながらに日々の小さな出来事を楽しむことのできる子どもだったと自負しています。


けれど人の恐ろしさ、そして「生きるとは耐えることなのだ」と知ったのは、まだ保育園に通っていた頃のことでした。


そのきっかけを作ったのは、当時担任を務めていた女性の保育士さんです。

ここでは仮に“イノ先生”と呼ぶことにいたしましょう。

私は今でも、その方の表情や声色、匂いさえも鮮明に思い出すことができます。


イノ先生は、私が転ぶといつも舌打ちをしました。

かけっこの最中に転倒したときには、他の子どもたちが駆け寄るよりも早く笑い声を上げたのです。

私はそのとき初めて、「大人」という存在が、必ずしも子どもを守ってくれるわけではないのだと知りました。


私は幼い頃は食が細く、食事の時間も人より遅い子どもでした。

イノ先生は、そんな私を見るたびに苛立ちを隠しませんでした。

ある日のことです。先生が食事の補助をしてくださる際、スプーンを手に取り、私が口をつけていた、その金属の部分を鼻先に近づけました。

そして、わざとらしく「おえっ」と嗚咽するような声を立て、顔をしかめたあと、にやりと笑いました。

それは、幼い私にとって“拒絶”そのものを形にした笑顔でした。

あの瞬間の光景は、今でも胸の奥に焼きついて離れません。


話は少し変わりますが、私は体も強くはなく、しばしば体調を崩しては登園が遅れることがありました。

そのたびに「また遅い」と叱られるのが常でしたが、ある日、珍しく体調がよく、少し早めに登園できた日がありました。

そのとき、イノ先生は開口一番こう言いました。

「うわっ、最悪……もっと遅く来るかと思ったのに」

その言葉を聞いた瞬間、私は混乱しました。

遅れても叱られ、早く来ても嫌がられる。

幼い頭では到底理解できませんでしたが、“私は何をしても嫌われているのだ”ということだけは、はっきりと分かりました。


さらに、理不尽な出来事は続きました。

おやつの時間になると、先生は私にだけこう告げるのです。

「猫柳さんは足が遅いから、オヤツ少なめね」

理由になっていない理由を笑顔で突きつけられ、私はただ俯くことしかできませんでした。

他の子どもたちがクッキーを四枚、五枚と受け取る中、私の手のひらに落ちるのはたった一枚、あるいは二枚だけ。

しかも、私に渡されなかった分のクッキーは、イノ先生自身の口に運ばれていきました。


その光景を見ても、当時の私は怒ることも泣くこともできませんでした。

ただ、心のどこかが少しずつ冷えていくのを感じながら、

「どうして自分だけがこんな目に遭うのだろう」と、言葉にもならない疑問を胸に抱えていたのです。


あの頃、私はまだ“世界は大人が作る正しい場所”だと信じていました。

ですが、あの保育園での日々を境に、その信仰は静かに崩れ落ちていきました。

善意と悪意の境目は案外あいまいで、人は笑いながら他人を傷つけることができる――

幼い私は、それを誰よりも早く知ってしまったのです。


その経験が、私という人間の根に深く染み込み、今もなお、心のどこかに影を落としています。

けれど、同時にそれは、私が“人間という存在”を考え続ける理由にもなりました。


猫柳の不満-----園児編はまだ続きます。

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