季節外れの桜

緋櫻

季節外れの桜

 燦々と差し込む日光が、机の上に乱雑に置かれている私の教科書やプリントを白く染め上げる。突然の眩しさに思わず身体が仰け反り、背後で誰かが開いていたノートパソコンにぶつかってしまった。首だけそっと振り返って顔も名前も知らない人に軽く頭を下げて、再び前を向き直る。それから私は引き続き、話半分に講義を聞きながら、右斜め前に座る女の子をぼんやりと眺めていた。ブロンドの髪を後ろで結んだ端麗な彼女は、キャンパスノートにひたすら板書を書き写している。授業中だと言うのに、ぼーっとしている私とは対照的な、模範的な生徒そのものだ。

 そんな調子で何もせず、彼女の整った顔の輪郭を目でなぞっていたらいつの間にか八十分以上が経過していた。担当教員はキリの良いところで授業を切り上げ、今週の課題の範囲をホワイトボードに書き示した。今は正午という事もあり、周りの学生たちはホワイトボードをスマホのカメラでささっと撮って、散っていった。私はさっきまで眺めるだけだった彼女に真っ先に話しかけにいった。

「ねね、かえでちゃん。マクロ経済学の中間テストっていつか分かる?」

 この子は長谷川はせがわかえでちゃん、私にとっての唯一の友達だ。

「え? 先生の話聞いてなかったの? さっき十二月六日にやるって言ってたじゃん」

「ごめん! 眠すぎてぼーっとしてた」

 二人でそんな何気ない会話をしてから、鬱屈とした講義室を抜け出して、階段を降りる。肌寒さを感じながら、大学のキャンパスとは思えないほど寂れて細い砂利道を通って食堂に歩いて向かう。平凡なキャンパスライフではあるけれど、今の私にとって楓ちゃんとのこの時間は何よりもかけがえのないものだった。


§


 数ヶ月前の私には、こうやって友達とお話をしながらキャンパスを歩くことなんか想像もつかなかった。小さい頃のいじめと家庭内暴力が誘因で、無口になり、自分の感情を表にさらけ出すのが苦手になった。それでも、社交的な人間に憧れていた私は、大学ではなんとかたくさんの人に話しかけて充実したキャンパスライフを送ってみたかった。

 しかし、勉強嫌いの人がいきなり一日に十時間も勉強できないように、人とまともに話してこなかった私に、突然そんな事ができるはずもなく、一週間足らずで挫折し、再び以前のようないじめが起きるのではないかという不安で気が気ではなくなり、数週間は塞ぎ込んで大学にも行かなくなってしまった。その間とっくに、私のいないコミュニティが構成されてしまっていて、何もかもを諦めるのは容易かった。けれども、親に高い学費を払ってもらっているのを自覚していたし、母親は私のことを応援してくれていたので、毎朝起きれば乾いてベタベタとまぶたを塞いでいた涙をウェットティッシュで雑に拭き取り、全身を蝕む不快感を抑え込んで、無理して大学に向かっていた。

 そんな苦しい大学前期を乗り越えた先にあった長すぎる夏休みで、それは起こった。唯一の心の支えであった母が、末期のすい臓がんであると診断されてから萎れるようにすぐに死んだのだ。大学前期の数ヶ月でとっくに枯れ果てていたはずの涙は止まることを知らなかった。それからの慌ただしく長い夏休みは、父の私以上の慟哭どうこく以外に記憶はなかった。いつも以上に色がなかったリビングは酷く寂れたように感じた。いや、実際寂れていたのだろう。

 父は母親の生前から私たちに暴行を加えていて、小学生の頃に一回だけ父に歯向かってしまい、身体中がアザだらけになってからは、そうする気持ちも意思も何もかもが無くなった。私はそんな父の泣き崩れる姿を不思議な気持ちでぼーっと眺めていた。

 時間は残酷なもので、ただただ母の死を愁傷している私をいつまでも待っていてはくれず、長かったはずの夏休みはいつの間にか終わってしまって、心の整理がつかないままキャンパスライフに放り出された。



 そんな後期の授業が始まって少し経って、私は残暑の中、鈍色の空の下で空きコマの時間を潰すためにキャンパスのベンチに座り込んでいた。この頃、母親の事ばっかり考えていて、悩みを悩みで上書きすることでしか自我を保つことができなかった。もう十月なのに枯れ落ちることをてんで知らない木の葉をぼーっと眺めていると、一人の女の子が話しかけてきた。

「あ! たしかさくらちゃんだったよね? 久しぶり!」

「……」

 彼女は私がこの大学で一番初めに話しかけた人だ。この人になら、と思って話しかけた記憶がある。しかし、私はそのまま数週間、大学にめっきりと行かなくなってしまったので少し気まずい。私が仲良くなろうとした人たちの大半はそんな私に愛想を尽かして私から離れていった。いや、もしかしたら気にも留めてないかもしれない。

「桜ちゃん? どうかしたの?」

「……」

 彼女は一回しか会っていないのに、そんな自分勝手な私という人間を覚えていてくれて、しかも再度話しかけてくれた。その優しさこそが私を救ってくれると同時に私を苦しめた。

「どうして泣いてるの?」

 まずい。このままじゃ、何も喋らないでいきなり泣き出した変な人になってしまう。けれど、彼女の前でならば、と思わせてくれる包容力を感じた。黙ってすすり泣き始めた私を彼女は抱きしめてくれた。私たちの関係は希薄であるというのに。彼女に話しかけられるだけで泣いてしまうなんて。気のせいかもしれないけど、この時、私はこれを運命だと感じた。運命だと気づかされた。これが私にとって唯一のかけがえのない存在になる長谷川楓との出会い、いや、再会だった。


§


 しぶとく人々を苦しめた残暑がようやく乾いた秋冬の風に吹き飛ばされた頃、私は相も変わらずに、頬杖をつきながら隣に座る楓ちゃんのことを眺めていた。彼女は髪を染め直したばかりらしく、講義室の光源に照らされたブロンドの髪が艶やかに強調され、ベージュを基調とした装いと調和している。それが私をいつになく魅了していた。

「楓ちゃん、このあとケーキ屋さん行かない? いい感じのお店見つけたの」

 彼女にも見えやすいように、と画面の明るさを上げてからスマホでケーキ屋のホームページを見せながら言う。初めて彼女をお出かけに誘った時には緊張でしどろもどろだったけれども、今では慣れたものだと信じたい。

「え! 行く行く〜。私も前からそのお店気になってたんだよね」

 彼女はわざわざ私のために、文字を書いていた白雪のような指を止めて聞いてくれた。

「けど、桜ちゃんもうすぐ中間テストだよね? 勉強とか大丈夫なの?」

「え、うん、多分……大丈夫! 楓ちゃんとの予定以上に重要なことなんてないよ!」

「またそんなこと言って……まあいいや、テスト直前になったら勉強付き合うから」

 私が楓ちゃんに対して想うこの気持ちが、ただの同性の友達に対するものではないのかもしれないと気づき始めたのはつい最近のことだ。何をするにも彼女のことで頭がいっぱいで、彼女のことを考えていれば他の悩みなど大した問題ではないように思えた。けれど、彼女が他の女性と話しているのを見るといつも心が苦しくなって懊悩おうのうし、寝つきが悪くなる。分かっているつもりだったけれど、私にとっての彼女とは違って、彼女にとっての私は友達の内の一人にしか過ぎない。なのに、どんな胸の痛い想いをしても、彼女とこうやってお話をすれば闇が祓われるようにスッキリする。何よりも、喋っているこの瞬間だけは彼女にとっての唯一になれるわけだから。



 そんなこんなでいつの間にか講義は終わり、彼女と一緒に正門を通って大学の最寄りの駅の方まで歩いていく。

「工事いつまでやるんだろうね〜」

「私たちが四年生になるまでやるらしいよ……」

 この頃、校舎の改築工事のために楓ちゃんと再会したベンチがあったはずの区域は立ち入り禁止になっていた。ベンチもそれに伴って撤去されたらしい。喪失感が木枯らしみたいに全身を包みこんで私を襲う。彼女は間違いなく隣にいるはずなのに一つの心の拠り所が無くなったように感じる。

 そうやって感傷に溺れていると彼女はいつものように「手、繋ご?」と言って私の許可を得る前に半ば強引に手を握ってきて、その暖かさを共有してくれる。外気が冷えていたからかいつもより冷たい彼女の手は肌の色も相まってまさしく雪のようだった。こうしている間、私はまさしく無敵。他の人にカップルって思われないかな、とかの邪な考えもあるけれど、とにかく手を繋いで楓ちゃんと一緒に歩くのが一番の幸せだった。彼女の、周波数すらも可愛い声を耳元で聞けるというのも理由のひとつだ。

 寂寞せきばくとした民家の間にある、横並びで通るにはちょっとだけ狭い小道を二人で肩を寄せ合って通過しようとする。自分の心臓の鼓動がドクドクとうるさくて口から音が漏れ出てしまいそうだ。聞こえてないかなと、チラッと横にいる彼女を確認しようとした時、偶然冴え冴えと輝くブラウンの瞳と至近距離で目があってしまってすぐに逸らす。彼女はそんな私を見て微笑んでいた。

「も、もうすぐ目的地着くよ」

 恥ずかしくなってそう言う。それからしばらく駅の方に向かって歩いていると、ケーキ屋さんの煌びやかな外装が目に入った。ガラスの向こうは花畑のように美しい。

「わ〜おしゃれすぎる……はやく入ろう!」

 甘いものには目がないらしい楓ちゃんが私の腕を引っ張るようにして店内に入ろうとする。

 店の入り口の扉が開くと暖房と人々の幸せによって暖められた空気と幸福感が私を包み込んだ。多分な心地よい気分を感じながら、入り口正面にあるカウンターに向かった。

「え、えっと……」

 今なら、と挑戦してみたけれど、楓ちゃん以外の人と話せないのは未だに変わらなかった。

「りんご、でモバイルオーダーした者です」

 そう言って楓ちゃんが私の代わりに二つのショートケーキを受け取った。

「ほらっ! 席座ろう」

 またもや楓ちゃんに助けられてしまった。いつか楓ちゃんを助けられるようになりたいと思っているけれど、依然と失敗続きだ。楓ちゃんは優しいから、しなくていいとも言ってくれるけど、私がそんな私自身を許せないのだ。

 楓ちゃんが「おいしそう!」と言いながらショートケーキの写真を撮るのを見て、はっとなって私もケーキに向き直る。ふわふわのホイップクリームで存分に修飾された雲のような土台の上に花々しいイチゴがぽつんと乗っている。ショートケーキの先っぽ付近にフォークを入れようとすると、感触もなくスッと切り取れた。それを落とさないようにゆっくり運んで口に含む。ほどよい甘美さが私の全身を満たす。これがケーキによるものなのか、楓ちゃんによるものなのか、はたまた両方なのかは分からなかった。



 ケーキの残りも堪能して、お水を飲みながら他愛もない話をしていると、窓の外に見える空が漆黒に染まって、街灯によって星々のように明るい街中と対になっていた。

「じゃ、そろそろ帰ろっか。私このあとバイトなんだよね〜」

「そ、そうだった……。なら、はやく帰らないとね」

 どれだけ楽しくても、時間にはいつか終わりが来る。そんな自然の摂理は私が一番理解しているはずなのに、彼女と別れる時はいつも身体の奥の方が落ち着かず、スマホをいじるのですらおぼつかない。いつもは、楓ちゃんのためだけにバイトをサボったり、一緒にいなければ私のことを忘れてしまうではないかという心痛に苛まれて、だらだらと一緒にいられる理由を探そうとしたりするが、楓ちゃんの方でバイトの予定があるならしょうがない。きっぱりと諦められる。

「あ! 最後にちょっとだけいい?」

 駅に向かって歩こうとしたその時に、彼女に呼び止められた。その高揚感で顔が紅潮するのを感じる。「これ、土曜日に旅行に行ったときのお土産!」と、可愛い顔をした柚子のぬいぐるみのストラップを私の手の上にポンっと置いた。

「え? これ私に? 貰っていいの?」

「もちろん! そのために買ったんだもん」

 私の理性を破るように心が躍って、思わず彼女に抱きついてしまった。

「ちょっと、桜ちゃん? 恥ずかしいんだけど……」

「ありがとう。これ一生大事にするね」

 何分か笑いあったあと、私と楓ちゃんは今度こそ本当の帰路につく。いつもなら、静寂という大気に押し潰されそうな一人の世界で、一滴の色とりどりの幸せな記憶を抱きしめて気を紛らわしていたけれども、今日は違う。楓ちゃんからの初めてのプレゼントを貰った。地下鉄の耳障りな音や、忌まわしい揺れも何もかもが気になるどころか、むしろ心地の良いものだった。

 そんなことを考えている内に最寄りの駅である終点に辿り着いた。家に帰ればいつものようにきっとお父さんに怒鳴られるけれど、心の救いとなる存在ができた今、どうってことはない。楓ちゃんのことを想いながら、薄暗い街灯の下を通って自宅まで歩く。私が小さい頃から置かれている、誰が乗っていたかも分からない錆びれた自転車を横目に玄関までの道をコツコツと進む。冬だというのに、雑草は森林と見紛うほどに生い茂っていて、母親が生きていた時の華やかさは見る影もない。何千回、何万回と開けているはずなのに、なおも開けにくく感じる玄関の扉を開けてそっと家に入る。

「ただいま。お父さん」

 しめやかな暗い空間に声が反射して響き渡る。誰もいないかと思ったが、少しだけ開いたドアの隙間から白い明かりが漏れ出しているので、父がおそらくリビングにいるのだろう。

「ただいま、お父さん」

 リビングの扉を開けて中に踏み入る。眩い光が闇で萎んだ瞳を刺激した。

 父はバラエティー番組を見ながらごはんを食べていた。いつものように、こちらを振り向こうとすらしない。しかし、いきなり怒鳴られなかったので今日は機嫌がいい方だ。いいからって嬉しい訳ではないけれど、悪いよりは幾分かマシだ。そのあと、私は冷蔵庫から冷凍食品を取り出し、レンジで温めてから食べた。


 お風呂と歯磨きを済ませて部屋に入ると、今まで溜まっていた疲労感が波のようにザッと押し寄せてくる。電気もつけないで真っ先にベッドに向かって飛び込んだ。毛布の柔らかい感触が私の身体を包み込む。こうやって暗闇の中で枕に顔を埋めていると、嫌なことばっかり考えてしまう。楓ちゃんを傷つけるようなことを言ってないかとか、あの発言がどうとか、明日はちゃんと楓ちゃんと話せるか、とか。それでも彼女と会えば一抹の不安も残らず消え去る。毎日がそれの繰り返しだ。

「こんなに好きなのになぁ……」

 意識が落ちる寸前に、枕に向かって呟いた声にもならないような言葉は黒暗に吸い込まれて消えていった。


 大学の中間テストが終わったことで、楓ちゃんと少し遠出してお出かけすることになった。誘ったのは私だが、楓ちゃんは想像以上に乗り気で、ここに行こうとか、あれが食べたいとか色々な提案をしてくれた。普段は乗らない市鉄に揺られて水族館に向かう。

 私は結局、前日によく眠れなかったため、集合時間の一時間も前の電車に乗っていた。ようやく眠くなってきた目を擦りながらスマホのメモに書き留めた、私が死に物狂いで立てた多分完璧な計画を再び見返す。絶対にいいデートにしてみせる! そう意気込んで、脇目も振らずに拳を握って自分を鼓舞した。ふと現実世界に戻ったら、間違えてそれを声に出していたようで、周りの冷たい視線が突き刺さる。




 水族館の案内板の前に立って、スマホを見るフリをして楓ちゃんが来るのを待つ。待ち合わせは好きだ。待っていれば、いつかは彼女が来てくれるから。無数の、幸せそうな男女が目の前を通って行く。私と楓ちゃんも他人の目にはこのように映るのだろうか。そんなことを思案する。

「ごめーん、待った?」

 待ち合わせ時間五分前に、楓ちゃんが私のもとへ駆けてきた。ベージュの白いもふもふのボアブルゾンに、先っぽに綿毛のようなふわふわがついたニット帽を被っていて雪だるまのようで愛おしい。遠目で見てからずっと口角が上がっていて微笑みが止まらない。きっと気持ち悪いだろうと思って、真顔を保とうとする。

「ううん、いや全然待ってないです。今来たところ」

 本当は四十分待っていたが、嘘をつく。

「あはは、なんで敬語? けど、待ってないなら良かった、ほらはやく行こう! 時間は有限だから!」

 楓ちゃんに引っ張られるようにして水族館の入り口に向かう。シャンプーを変えたのか、風でなびく髪が以前とは違う芳醇な香りを運んでくる。

 平日とはいえ、中は人で賑わっていた。休日なら歩くスペースもまともに確保できなかっただろう。入ってすぐ、右手側のシャチが目に入る。十メートル近くはある二匹のシャチが悠々と大水槽の中を泳いでいた。

「シャチってこんなにデカいものなの? 思ってた三倍ぐらいは大きいんだけど」

 楓ちゃんが珍しくはしゃぎながら、スマホで写真を何枚も撮る。撮る前にフラッシュがついていて、焦って解除する楓ちゃんがドジで可愛くて、ついシャチよりも彼女の行動に目が奪われ、夢中になってしまっていた。

「シャチの成体は平均で八〜九メートルもあるからね。あと、知能も高くて、海洋生態系のトップにたってるんだよ」

「え? 桜ちゃんって海の生物に詳しいんだ」

「いや、ごめん。そこの説明見ただけ」

「なんだあ」

 楓ちゃんからの反応を貰いたいがために、いつも彼女をからかってしまう。なにせ今の楓ちゃんは私のことだけを見ているのだから。洞窟のように薄暗い展示を手を繋いで歩く。



「あれ? 長谷川さんじゃん」

「あ、えーと、たしかクラスの。偶然だね」

 ピアスやアクセがガチャガチャしていて、見るからにチャラそうな金髪で襟足の長い男が楓ちゃんに話しかけてきた。その男の背丈は、楓ちゃんより十センチほど高い私よりもさらに高い。私は楓ちゃんの背後に隠れる。

「ちょー偶然。てかさどうせ会ったんだからさ一緒にまわらね? 可愛い女子とまわった方が楽しいしさ」

「けど、その隣の子はどうするの?」

 楓ちゃんが、男の隣に立っている女子を見ながら言う。ずっと俯いており、表情がうかがえない。

「こいつなんかより長谷川さんの方が可愛いし。いいじゃん別に。減るもんでもあるまいし」

 楓ちゃんの顔が歪んだ。

「残念だけど、友達と来てるから。これ以上、関わってこないでね、私もう行くから」

 そう言い放ち、楓ちゃんは私の腕を引っ張って早足で男から離れた。男は舌打ちだけして隣の女子を置いて、どこかに歩いて行った。普段見せない一面を見せた楓ちゃんの横顔は凛としていて、美しかった。

「楓ちゃん、いいの? さっきの人、一応は知り合いなんでしょ……?」

「あんなやつ、ただの同クラだよ。あっちが一方的に関わってくるだけ。というか気を取り直して、ペンギンの方でも見に行かない? 私ペンギン好きなんだよねー」

「そうだね、行こうか」

 彼女の後ろをついて行きながら、先ほどの彼女の言葉を噛み締める。あの時、楓ちゃんは確かに私のことを友達と言ってくれた。彼女が私のことを友達と認めている。その事実に気づいて顔が思わずとろけた。目に入る全ての景色の明度が高くて眩く感じる。差し込む日光がスポットライトのようで、ヒロインになった気分だ。はっとなってからスマホのメモを開いて、次の予定を確認する。

 一通り、クラゲやペンギン、色んな魚たちを見て回ったあとに早めのディナーとして水族館の中にあるちょっとお高めのレストランに入った。天井には荘厳なシャンデリアが輝き、真っ白なテーブルクロスの敷かれた席の横には小さい水槽、それは小っちゃな熱帯魚が好き勝手に泳ぐミニ水族館。

「ワニ肉の唐揚げ……サメのカツ……どうせ水族館に来たんだしこういうの食べないとね」

 楓ちゃんがメニューをかぶりつくように見ている。

「あはは、別に無理しなくてもいいんだよ。まあ、私はサメのカツカレーにしようかな」

「私はこのクロコダイルカレーってやつにする。何事も挑戦だからね!」

 大学の単位がどうとか、いつものように他愛もない話をして料理が届くのを待っていた。



 料理が届いて、お互いのクロコダイルとサメを見比べる。匂いはカレーにかき消されてあんまり感じられない。サメカツとはいうものの、意外と見た目は普通だった。一方、クロコダイルはまさにワニという感じでものものしい雰囲気を醸し出している。楓ちゃんと一個ずつお肉を交換して食べた。

「あ、サメ結構いけるかも!」

「こっちも噛み応えがあって中々おいしい」

 肝心のカレーを食べる前にカツだけ食べ終わってしまって、おかしくて顔を見合わせて笑いあった。

 それから、お互いに無言で食事をしながら、私は少し踏み込んだ話をする時機をうかがっていた。

「楓ちゃんは、どうしてこんなに良くしてくれるの? 私なんて何もかもがダメダメなのに……。ごめん、いきなりこんなこと言いだして」

「どうしてって言われても答えにくいけど……私はただ私の信頼に応えてくれる友達に尽くしたい、大事にしたいと思っているだけだよ。だから桜ちゃんと一緒にいるの。これが理由だよ」

 その言葉を聞いた瞬間、今まで心の隅でゆっくり膨張していた不安が洗い流された気がした。楓ちゃんを無理して付き合わせていないか、私だけが楽しんでいないか、それらはただの杞憂だったのかもしれない。

「……ありがとう。楓ちゃん」

 楓ちゃんにバレないよう、俯いて涙ぐむ目元を拭いた。

 夕食を食べ終わって会計を済ませたあと、お土産を買うためにグッズショップに寄った。ペンギンやクジラのぬいぐるみをはじめ、大昔の潜水服をモチーフにした変なグッズも売っていた。楓ちゃんはイルカのストラップを、私はペンギンのストラップをそれぞれ買って、出口で交換しあった。



 冷えた冬の海風が、前髪を撫でる。寒さを緩和するために腕を組み合って駅に向かった。彼女の体温が伝わってきて心の芯まで温まる気がする。少しでも長く、彼女と一緒にいられるように、する意味もないチャージをしたり、自販機で紅茶を買ったりした。必死の抵抗もむなしく、電車が来てしまったので仕方なく乗り込む。

「今日は一日ありがとう。楓ちゃんが良かったらでいいんだけど、またどっかにお出かけしたい」

「もちろん! 予定が空いてればだけど、どこでも行く!」

 その甘い言葉が頭から離れず、しばらく満悦していた。



 最寄り駅から一人で家に向かって歩く。スマホの画面に表示された時刻は、二十時三分。家の門限を少し超えていた。家に帰るのが億劫だ。玄関を開けてリビングに向かうと、父は酒に酔ってすっかり爆睡していて私の帰宅にも気づいていない様子だった。軽く胸を撫で下ろした。長い一日で疲労も溜まっていたので、お風呂だけ入ってから、自分の部屋に向かって眠りにつこうとした。楓ちゃんから貰った、というより交換したイルカのストラップを顔の前に持ってきて眠りにつくまでぼーっと眺めていた。


§


 その次の日の夜。私は部屋で、楓ちゃんとのクリスマスの予定を立てていた。まず、楓ちゃんが誘いに乗ってくれるかも分からないけれど、私はすっかり冬休みの空気に浮かれていた。

「おい、桜。入るぞ」

 部屋の扉が乱暴にノックされた。父だ。

 悪い予感が、全身の血管を駆け巡る。父は機嫌が悪い時の声色をしていた。心当たりがあるとすれば、門限を破ったことだ。

「どうしたの、いきなり」

「何がどうしたの、だよ。お前、昨日門限を破ったよな。俺が把握してないとでも思ったのか? 玄関のカメラにばっちり映ってんだよ」

 開け放たれた扉から、部屋中の暖かい空気が逃げていくような気がした。

「で、でも本当に数分破っただけで……」

「数分でも門限は門限だ。おい、というかそのストラップどうしたんだ。男でもできたのか?」

「ち、違う。と、友達だよ。ただの」

 こんな場面なのに、楓ちゃんのことをつい意識してしまい、口ごもってしまった。

「男がいるなら報告しろって言ったよな」

「違う! 本当に相手は女の子だし、そんなんじゃない!」

 こうなってしまったら最後、父は私が何を言おうと聞く耳を持たなくなってしまう。父が大股でゆっくり私に近づいてくる。殴られる、と思って反射的に手で身を守ろうとしたが、父は私の横を通りすぎて、机の上にあるストラップを汚らしい手で掴んだ。

「やめて、それに触らないで!」

 自分でも聞いたことのないような怒声が部屋に響く。

「これがよっぽど大事か」

 そう言って、父は薄ら笑いを浮かべながら、手の平にあるイルカのストラップに唾を吹きかけた。それから、私の顔を眺めながら、それをゴミ箱に向かって乱暴に放り投げた。ぽとん、とそれがゴミ箱の底についた瞬間、私の感情をギリギリのところで堰き止めていた堤防が崩壊した。

 私は無言で父に近づき、頬を思いっきり叩いて、軽い防寒着と鞄を手に取って下の階に向かった。父は反撃されるとは思っていなかったからか数秒、呆気にとられたあとに、喚き散らかしていた。きっと近所迷惑だろうな、と思いながら玄関を開けて、鬱屈とした家から去る。父とは二度と、会わない気がした。


§


 夜二十一時に家から飛び出して街灯がまばらな夜道の中で救いの光を求めて楓ちゃんの家へがむしゃらに走る。私の精神を今まで救ってきてくれた彼女のもとに行きたい。その一心で駅に向かう。

 感情を露わにし、交通系ICカードを地下鉄の改札に叩きつけるようにして通りすぎる。普段の私ならそんな事はしないはずだ。他人の訝しむ目を気にしないフリをして電車が来る数分を待つ。彼女がいなければ私はおそらくここで迷惑を考えず、電車の進路に身を投じて全てを終わらせようとしたかもしれない。彼女がいたから、私は強くなれたし、同時に弱くなったようにも感じた。

 雑多な人の波を押し除けるように強引に電車に乗り込んで、席の端っこにもたれるように座り込む。地下鉄の揺れと走行音がやけに煩わしく私の耳を刺激する。大学から一駅離れた場所に彼女は住んでいるため、その道中は日々の通学と変わらない。だというのに、吊り革も人々も座席も全て、その光景は私にとって馴染みが浅く非現実的に感じた。電車に揺られ、目的地に近づけば近づくほど胸が高鳴る。

 なんとなくだが、彼女に会えば全ての悩みが解消するだろうと思った。なぜなら彼女は私にとってのかけがえのない存在であって、おそらくは運命の存在だからだ。いや、そうでなければならない。私がそうする。もう躊躇っている場合ではない。関係が崩れてしまうとかそんなのは私の妄想にすぎないと私が私自身に証明してみせる。私はこの気持ちを全て彼女にぶつける。自暴自棄になった今じゃないと、おそらく一生彼女に言えないはずだ。彼女なら間違いなくこの気持ちを何かしらのカタチで受け止めてくれる。

 そう決意し、地下鉄から力強く地面を踏みつけるようにして降りる。階段を飛ぶように駆け上がり、彼女の家に向かって走り出す。ろくに防寒もしないで家を出てきたせいか、手は凍えて石像のように硬く、頭が異様に冷たく感じる。後頭部がズキズキと痛む。しかし、あと少しだ。

 彼女の住むマンションが目に入った。喉の奥に血の味を感じる。マンションの真下に着いたと同時に、いきなり立ち止まると、昂ぶる心臓が飛び跳ねた。反動で膝に手をつき、肩で息をして、耳たぶを触って身体を落ち着かせる。一歩一歩しっかり踏み締めて、ゆっくりと階段を上がり、動悸で震える指でインターホンを押した。

「はい、どちら様ですか?」

 ボタン越しに彼女の澄んだ声が聞こえる。

「ご、ごめんね。楓ちゃん、夜遅くにいきなり。桜なんだけど……なんか突然会いたくなっちゃって」

「……」

 少しの沈黙のあとに彼女が答えた。

「うん、分かった。けど、ちょっと片付けるから一瞬だけ待ってて」

「ありがとう」

 扉の向こうからガタガタと物音が聞こえる。数分ほど待ったあとに扉がゆっくり開いて、部屋の明かりが廊下に漏れ出してきた。

「寒いからはやく入って入って〜。軽く片したけど、まだちょっと汚れてるかも」

「お、おじゃまします」

 初めて入る楓ちゃんの部屋。今まで、マンションまで送っていくことはあったけど、こうして部屋の中に入るとなると、途端に緊張してしまう。

 浮つく心を落ち着かせながら中に入る。白を基調として清潔感のある部屋だ。玄関のすぐ前にある台所には水垢とシミが少しだけ残っていたが、カトラリーはカップボードの中に華麗に整頓されていて、彼女の綺麗好きな性格をそれとなく感じさせる。また、カーテンの薄いベージュ色は純白の部屋によく調和していた。壁に沿って配置されたベッドの上には何個もの可愛らしいクッションが置いてある。

「ごめんね、ちょっと散らかってるけど、ここに座って〜」

 彼女に促されるようにベッドの真横のクッションに座る。

「桜ちゃんって、コーヒー飲めたっけ?」

「うん。それなりに甘いやつなら」

「はーい、分かった。コーヒー淹れてくるからちょっと待っててね」

 そう言って楓ちゃんは扉を閉めて台所の方に向かう。

 私はソワソワしながら、部屋中を見渡す。すると、デスクの上にあるフォトフレームが目に留まった。高校? の制服で、知らない子とツーショットで映っている写真だ。相手は女の子なのでただの友達の可能性が高いけれど、何故かこの子と楓ちゃんはどのような関係なのかについて、無性に気になり焦燥感に駆られた。

「はい、どうぞ〜」

 コーヒーの入ったマグカップが机に置かれた。

「それで、何かあって来たんでしょ?」

 鋭い声に背筋が少し冷える。

「そう、お父さんと色々あって……」

 父とのいざこざを詳細に話す。その間、彼女は真剣な眼差しで私のことを見つめながら話を聞いていた。先ほどまでの緊張は嘘のように息を潜め、この瞬間はただ彼女に自分の悩みを全て打ち明けることしか頭になかった。次第に目から血のような涙がはらはらと頬を伝い始め、自分でも何が言いたいのかよく分からなくなってしまい、同じ話を何回もして、ついには黙り込んでしまった。その数秒の沈黙によって我に帰った。もうマグカップの湯気は消えていた。

「楓ちゃん、ごめん。いきなりこんなこと話して……」

「全然いいよ。ごめん、私はこういうの慣れてなくて、なんて言ったらいいとか、どうしてあげたらいいとかは分からない……。けど、それでも私を信じて、話してくれてありがとう。とにかく、あなたが今ここにいてくれて嬉しい」

「ありがとう……。楓ちゃん、楓ちゃんはこの先もずっと私の味方でいて、私のことを大切に想っていてくれる?」

 どこから聞こえるかも分からないエンジン音のような雑音がやけに気になる。時計の針が三回ほどチクタクと鳴ってから楓ちゃんが口を開いた。

「もちろんだよ。桜ちゃんは私にとって大切な友達だもん」

 友達、それはいい響きであると同時に今の私の期待を裏切る言葉でもあった。

「ありがとう、楓ちゃん……」

「コーヒー冷めたよね? また温め直すね!」

 そう言い放って彼女は扉を開けて台所の方に向かっていった。扉の向こうから薄っすらとレンジの稼働音がする。それを聞きながら、楓ちゃんのことについて考える。楓ちゃんこそが私の生きる意味であり、その存在自体が私にとって大切なものだと今日、再確認できた。だというのに、ここまで来て私は何を躊躇しているのだろうか。彼女に好きですと、一言伝えれば全てが解決することなのに。そう決意したはずなのに。乾いた空気が喉に流れ込む。そうしてる間にレンジの音が止まって、扉がゆっくりと開いた。

 楓ちゃんが、温め直したコーヒーを熱そうに持ちながら、それを溢さないようにゆっくりと近づいてきて隣に座り込む。心拍音が外に漏れ出してしまいそうなほど心臓が鼓動を刻んだ。机の上に置かれたマグカップを人差し指、中指そして親指を用いて不安定に持ち上げて口に運ぶ。過剰な熱量が口内の全体を強かに刺激するが、あまり気にならなかった。喉と食道がコーヒーに満たされて心地の良い暖かさに包まれる。

「桜ちゃん、大丈夫? コーヒー熱くなかった?」

「いや、うん。結構大丈夫なんだけどさ、突然なんだけど言いたいことがあるんだけど、ちょっとだけいいかな?」

「全然いいよ、どうかしたの?」

 可愛い顔で首を傾げて聞き返してくる。それを見るとやりきれない侘びしい愛情が手足の先まで浸透するのを感じた。そして、喉の奥につっかかっていた言葉を半ば無理やり引っ張り出そうとする。


「あのね、いきなりこんなこと言いだして変に思われるかもしれないんだけどさ。数ヶ月まで正直、お母さんはいきなり私を置いていってしまうし、父親はあんなんだし、大学では上手くやっていけないのかなとか思って塞ぎ込んでて、私に居場所なんて無いのかなって思ってたの。そんな時にキャンパスで楓ちゃんが私のことを見つけてくれて、話を聞いて慰めてくれた時は本当に心から救われたと思ったし、あなたが居ないと自分が自分としての形を保てないとまで思ったの。楓ちゃんはその時のことを覚えているのか分からないけど、楓ちゃんはその時から私にとって、無くてはならない存在になったんだよ。楓ちゃんと直接会ってない時でも、楓ちゃんのことを思い出せば、辛いことは吹き飛んだし、憂鬱な朝に彩りをもたらしてくれた。楓ちゃんには重いとか思われるかもしれないけど、楓ちゃんは私にとっての運命の相手だと感じたの。話す時にちょっと上目遣いになるところとか、気まずくなると髪の毛先を人差し指に巻きつけるところとか、たまに見せるおっちょこちょいな一面とか、秋の紅葉のような輝きを放って背中まで流れる髪の艶やさとか、鼓膜を撫でるみたいに癒してくれるその声色も、触ったら溶けてしまいそうな細い指も、全部愛おしくてたまらないし、もうおかしくなってしまいそうになる。楓ちゃんと一緒にいるだけで楽しいし、この先ずっとこの関係のままでもいいんじゃないかなって一時期は思ってたけど、大学の中とかで楓ちゃんが他の女の子と一緒に楽しく話しているのを見ているとどうしようもない焦燥感にさいなまれてダメになりそうで……。私のことだけを見て、私とだけ話してほしいし、私のことだけを大切に想ってほしいってそんなワガママをいつからか抱き始めちゃって。楓ちゃんに数日会ってないだけで嫌われてしまうんじゃないかとか考えたり、私とは違う誰かとさらに仲良くなっているんじゃないかって不安に押し潰されそうで、寝る前には楓ちゃんとの会話を思い出して嫌なこと言ってないかとか心配しちゃって、楓ちゃんは知り合いが多いから私はそのたくさんの中の一人かもしれないけど、私にとっては楓ちゃんは唯一の友達で、唯一の存在なんだよ。だから、もうなんていうか、何がなんだかよく分かんないけど、私は楓ちゃんのことを本当に心から大切に想っているし、出会った時から今まで、いやこの先も永遠に、好き、なんだと思う。いきなりこんなことを、同性の私に言われても気持ち悪いと思うかもしれないけど……どうか、この想いを受け止めて、私と付き合ってほしい」


 ついに言ってしまった。想いを強引に投げつけるかのように。部屋が寸刻の間、静まり返る。刹那のそれは、私にとってはやけに不気味に感じてしまった。

 心なしか楓ちゃんの表情が強張った気がした。

「なんていうか、はあ……ありがとう、桜ちゃん。桜ちゃんがそこまで私のことを想っていたのは意外だったけど、すごく嬉しい。けど……ごめん。私は桜ちゃんの思うほどまともな人間じゃないだろうし、桜ちゃんには見合わないよ。だから、残念だけど、桜ちゃんとは付き合えない」

「え……」

 付き合えない、その言葉を聞いた瞬間に私の中の何かが瓦解するのを感じた。もともと、返事はどうだっていい、と覚悟していたはずなのに、いざその現実に直面すると視界が真っ暗になり、言われたことが信じられなくなる。呼吸が浅くなって、身体の至るところにぎこちなさを感じて、姿勢を変えた。時間が凍てついたように酷くゆっくりと流れる。

「あのさ、今更言いにくいんだけど、実は私、もう彼女いるんだよね。言ってなかったのは本当にごめん……」

「そう……だったんだ」

 楓ちゃんに恋人がいる。しかも同性の、という初めて知る事実に愕然として、時間が止まったかのように姿勢そのままに固まってしまう。相手は誰で、どのような人で、どこまで関係が進んでいるのかとか、余計なことばかりを頭に思い巡らせていた。

「けど私が桜ちゃんのことを大切な友達だと思っているのは変わんないしこれからも仲良くしてほしいな」

「ありがとう、これからも引き続きよろしくね……」



 そこからはいつものように、大学の授業やサークルなどのいつも通りの話をしていた。いつも通りじゃないのは私の胸中だけだ。あれからずっと心の奥底で、モヤモヤと霧が立ちこもっていて、悪い夢を見ているようだった。心なしかカーテンから漏れる夜はさっきより深くなっていた。

「桜ちゃん、お風呂とかってもう入った?」

「うん、一応家で入ってきたよ」

「良かった〜、うち今お風呂壊れてて……。今から銭湯行ってくるから、ちょっとだけ家空けるね」

「分かった、留守番は任せて」

 そう言ってから、彼女は私に背中を向けて、忙しなくゴソゴソと支度をし始めた。その小さくて丸い背中を見て、なんとなく名状しがたい悪い予感がした。



「じゃ、行ってくる〜。本棚にある漫画とかは全然勝手に読んでいいからね」

「ありがとう、いってらっしゃい」

 玄関の扉がカチッと閉まり彼女は夜の闇に消えていった。きっと彼女が私に留守番を任せてくれたのは私のことを友達として認め、信頼してくれているからだろう。いつもの私なら、その信頼に応えるべく、部屋で座って漫画でも読みながら、彼女をじっと待っていたはずだ。その信頼を裏切ってまで、今は楓ちゃんの恋人のことについて調べたいと思ってしまっている。今日の私はなんだかおかしい気がする。かといって、この欲望を他で発散することもできないので、楓ちゃんの家を見て回ることにした。

 最初に、デスクが目についた。その上に置いてあるフォトフレームのツーショットの写真は、楓ちゃんと恋人とのものであると推測しているが、まだ決定的な証拠はない。

「ごめんね。楓ちゃん……」

 小声でそう呟いて、デスクの引き出しを思い切ってガッと開ける。中は、古い文房具や汚い紙くずが散らかっている。その奥に、新しめのレザーの日記帳を見つけた。

 日記の表紙には、油性ペンで「もみじ」と書かれている。

 なんとなく、私にはその「椛」というイデアが楓ちゃんにとって、とても重要なものであるように思えた。

 私は、それに吸い寄せられるかのように、一頁目を捲り始める。


§


 私には愛おしい人がいます。私の生まれ育った地域は山奥の辺鄙な田舎で、高齢化が理由で、十数人ほどしか同学年の生徒がいない、そんな今の日本にはありふれた町です。大型のショッピングモールのようなものは車で五十分ほど進まなければなく、駐車場が無駄にだだっ広いコンビニができた時は、それはもう町中がお祭りのように大騒ぎでした。学校は小中学校しかなく、高校に行きたいならば山を超えて通うしかないので、小中までは良くも悪くも必ず顔見知りがいる環境で学生生活を送らされます。そんな中、山崎椛さんと喋るようになったのは小学五年生になった頃でした。私はもともと人と話したり、群れたりするのは得意な方ではありませんでした。何かと一人の方が都合の良いことが多く、気が楽に感じた訳です。なので、彼女のことは認知していたものの話すことはあまりありませんでした。一方、椛さんは私とは正反対の性分で、いつも友達に囲まれていて、いつも笑顔で、悩みの一つも無さそうな、口汚く言えば能天気のように感じていました。今思えばこれはある種の嫉妬だったと言えるかもしれません。しかしながら、そのレッテルは、小学五年生に上がってから一週間ほどで塗り替えられました。その日、私は先生に頼まれて体育館裏にある物置に何か(忘れてしまいました)を取りに行っていました。いつも生徒や清掃員によって掃除されている綺麗な教室や廊下とは違って、手入れが行き届いておらず、雑草が茂る薄暗い世界に、彼女は一人でいました。コンクリートの上に座り込みながら右手にカッターナイフを持ち、いつも着ていた長袖を捲って、腕を露わにしていました。華奢で今にでも折れてしまいそうな腕には赤い鮮血といくつもの自傷の痕がありました。私は喫驚きっきょうと同時にその場をあとにしましたが、走り去りながら、みんなの前では明るい雰囲気の彼女にもあんな弱い一面があるのかという悦びと、容姿端麗な彼女のボロボロな姿とその魅力的な血液に扇情をあおられ、得体の知れぬ興奮を覚えてしまったのです。翌日、私は彼女本人にこのことを伝えに行き、動揺する彼女に、私なら分かってやれる、と説得して半ば無理やり仲良くなりました。これが椛さんを好きになったきっかけでしょうか。日頃から椛さんは日々の苦悩を私にぶつけていました。彼女のことは世界で一番大事に想っていましたので、話を聞いてる時間も椛さんの私に対する暴力も苦痛ではありませんでした。それからは特筆するような出来事はありませんでしたが、椛さんに対する想いは徐々に積もっていきました。高三の受験生になる頃、私の想いを彼女に伝えました。椛さんからの好意、または依存心には薄々勘付いていたので、失敗することはないと信じていましたが、やはり緊張しました。それから正真正銘、椛さんと恋人同士になった私は、気を負わずに彼女と一緒に県外の大学に行けたのです。


§


「なにこれ……」

 そこまで読んだところで、自分の思うように体勢が安定しなくなり、椅子から崩れ落ちるようにして床に座り込んでしまった。あえぐように息を吸って、なんとか荒ぶる心臓の鼓動を収めようとする。自分の知っている楓ちゃんに、この手記を描いた人物がいつまで経っても重ならない。筆跡からでは、これが楓ちゃんのものかどうかは判別できないが、本人のものであると断定し得る材料が散りばめられていた。その現実が信じきれなくて、何回も頬を乱暴に擦る。だけれども、この日記によって、楓ちゃんの彼女は、山崎やまざきもみじという名前であることと、同学年であることが判明した。

 一つだけ気かがりなのは、一緒に県外の大学に行けた、という文章だ。この記述からして山崎椛は、私たちと同じ大学の可能性が高い……が、たった数ヶ月の仲とは言え、いつも一緒にいてかつ隅々まで楓ちゃんを観察していた私にそれを一切悟らせないのは、同大学である限り不可能なはずだ。フォトフレームにあるツーショットの相手(おそらくは山崎椛)は、少なくとも大学内で楓ちゃんと話したことのある人の中にはそれらしき人は見覚えがなかった。ということは、楓ちゃんは山崎椛の存在を、他人から隠したい何かしらの理由があるのではないかという推測に至った。その推測をより盤石なものにするためにも、引き続き楓ちゃんの家の中を漁る。

 まず扉の目の前に立って部屋中を見回した。右の壁に沿ってベッドがあり、その向かい側にデスクがある。デスクの上にはフォトフレーム、横にはゴミ箱と本棚、そしてクローゼットとポールハンガー(何着かのコートがかかっている)、カーテンのある方の奥側にハンガーラック(楓ちゃんがよく着ている服がかかっている)と丸テーブル、さっきまではあそこでコーヒーを飲んでいた。ここにもう山崎椛に関する手かがりはない気がして、左回りに振り返ろうとしたその瞬間、死角となっていた埋め込み型の別のクローゼットと目があった。何故、クローゼットが二つもあるのか。日常茶飯に使うはずのクローゼットの前には、不自然に透明プラスチックの直方体の衣装ケースが二段ほど積まれていて、中に何かを封じ込めている、または閉じこめているようだった。ここに楓ちゃんの恋人の手がかりがあるに違いない、そう思ってプラスチックのケースを退ける。クローゼットの窪みに、震える指をかけて心の準備が整う前に強引に開け放った。


§


「ただいま、ごめんね〜いきなり家空けちゃって。コンビニで夜食買ってきたから食べる?」

「ありがとう、ちょうどお腹空いてたんだよね。

 それと、楓ちゃん、話したいことがあるんだけど」

「どうしたの? そんな怖い顔して。桜ちゃんらしくないよ……」

 そう言ってから彼女は部屋中を見渡し、クローゼット周辺の物色された痕跡を見て、その紅葉のように綺麗だったはずの目から光が無くなった。

「何をしていたの?」

 初めて聞くその低い声は私の背筋を凍てつかせた。

「ごめん、つい魔が刺しちゃって」

「私は何をしていたのと聞いたの」

 記憶と結びつかない楓ちゃんの様子に一瞬だけ怯む。

「ご、ごめん、楓ちゃんの彼女について色々調べさせてもらったの。勝手に部屋の中を見て回ったのはごめん。けど、まずは、山崎椛という人物について、聞かせてほしい」

「まあ、これは桜ちゃんなんかを信頼した私のミスか。それにしても桜ちゃん彼女について知っちゃったんだ、なら話がはやいね。確かに山崎椛、もみじは私の彼女だよ。それで、それを知って何がしたいの。私はこれ以上彼女について何も言うつもりはない。あなたなんかよりよっぽど私にとって大事な人だから。クローゼットの中にある冷凍庫も見たんでしょ? 私を警察にでも突き出すつもり?」

「ち、違う。本当に。確かにクローゼットの中は見たけど、そんなことは絶対にしないよ」

「そう。それで私がどうして今更、桜ちゃんのことを信じれると思ったの?」

「そ、そうだよね。でも私をとにかく信じてほしいの。簡単に信じてもらえるとは思ってないけど、絶対にこの世界の誰にも言わないって約束する。楓ちゃんが望むなら、私は全力であなたの味方をする。だって、私は本当の楓ちゃんを知った今でも、あなたのことが愛おしくて愛おしくてたまらないの! むしろ、本当のあなたが知れてより一層好きになった。だから、私を受け止めてほしいとまでは言わない、でも私を道具としてでもいいから頼ってほしい」

「本当の私? あなたみたいな出会って数ヶ月程度の人が何でも知った気にならないで!」

 部屋中が真空のように静まり返る。

「はじめに私を裏切ったのはあなたの方だよね? 友達としては少なくともあなたのことを信頼していたのに部屋の中を探し回るような真似をして私の信頼を壊したのはあなたでしょ! あなたが告白さえしなければ、あなたが余計なことさえしなければ、私たちはあのままの良好な関係でいられたのに、あなたのやる事なす事、結局は自業自得でしょ? あなたの無駄な告白で、私がどう感じるのかとか、私の気持ちを少しでも考えたの? 正直言って、気持ちが悪いよ。私があなたのことを好きだとか本気で思っていたの? なんで友達のままじゃ、納得がいかなかったの? 薄っすらあなたの好意には気づいていたけど、何もしてこなかったから放っておいたのに。本当にめんどくさい。なんであの関係のままじゃ、ダメだったの? あなたみたいなのを友達にしようとした私が馬鹿だった。そうだ、桜ちゃん、自分を頼ってほしいって言ってたよね。私のためを思うなら、死んで。それで証拠は全て無くなるから。それが私の頼み」

 気づけば意識が朦朧としてずっと立ちほうけていた。

 静寂が耳を痛く刺激する。目に見える全てのものがうっすら掠れ、輪郭が無くなって周りに溶け出し始めた。楓ちゃんの言葉を反芻するが、いつまで経っても消化しきれない。自業自得。私は結局、楓ちゃんを愛してると言いながら、いや実際この世界の全てより愛していながらも、この愛情は、どこまでも独りよがりでしかなかった。私が築いてきた楓ちゃんとの仲を、私自身がめちゃくちゃにしてしまったのだ。

「え、えっと……私は楓ちゃんが本当に好きだから、頼りになろうとして……」

 何を言えばよいのか分からなくて喉に言葉が詰まる。

「何? 自分から言いだしたのに私の頼みが聞けないの?」

「わ、分かった……」

 楓ちゃんの顔は変わらず美しかった。


§


 これから死にに行くというのに、防寒着をまとって寒さから身を凌ごうとしているのが少しおかしくて、心の中で笑ってしまう。今はただ、楓ちゃんと少しでも一緒にいられればそれが一番幸せだった。

「じゃ、行こう」

 楓ちゃんが顔を覆うほど大きいフードを被っている。

 彼女が好きという色眼鏡を通しても未だ不恰好な装い。

 それでも私はどんな楓ちゃんでも愛することができる。どこまでも独りよがりだけど、私の中ではそれが変わることはない。私自身が壊したこの関係を完全に崩壊して消え去るまでは楽しみたい。その端麗な横顔を見るのも今日が最後であると気づいたら、途端に死ぬのが怖くなってきた。



 扉を開けると、小雨のような雪が夜の闇の中を舞っていた。鈍色の重い雲がこちらを見ている気がした。

 私たちはこれから大学に向かう。私がせめて大学で死にたいと、わがままを通したからだ。大学までの道を無言で歩く。こんな時間に外をこうやって出歩くのは、あの過保護な親を持つ私にとっては人生で初めてだ。その初めての相手が楓ちゃんであることが嬉しくて、「ありがとう」とぼそっと呟いたが、楓ちゃんは一瞬、目線を私にやっただけで、すぐに前を向き直した。巡回中のパトカーが信号を待っている私たちの前をゆっくり通りすぎていく。彼女の顔が強張るのを見て、意外に人間らしいと感じた。楓ちゃんはどうしようもない偏愛を山崎椛に対して抱いていて、私の愛を頑なに拒絶した、それでも私は長谷川楓、楓ちゃんのことを好きでいた。楓ちゃんは認めないだろうけど、少なくとも私にとって彼女は運命の相手であるのは間違いない。

 ただ、運命の方向が違っただけだ。



 閑寂とした住宅街の中に、大学の一号館が見える。半年と少し、やっと大学に慣れてきたぐらいだが、既にここは思い出深い場所になっていた。楓ちゃんとの出会いの場で、楓ちゃんとの久遠の別れを果たすことになる。

「まあ、やっぱり門は閉まってるか」

 大学の目の前に着いてすぐ、楓ちゃんがぼやいた。

「乗り越えて入ろう」

 小学生の頃ぶりに冒険をする気分で胸が躍る。

 雪はまだ積もっていないが、このまま降れば朝までには何センチか積もりそうだ。歩いていると、ベンチが見えてくる。私たちが再会したベンチは工事に伴って撤去されたが、そこになるべく近いところで私は終わりたかったのだ。最近は外気が冷え込んでいるせいで、ここに座っている人を見かけない。風に揺られた木々が泣いていた。荷物を地面に捨てるように置いて、私だけベンチに座った。

「じゃ、桜ちゃん始めて」

 私は軽くこくっと頷いてから鞄の中からおもむろに包丁を取り出した。思えば、楓ちゃんと再会した時も、私がベンチに座っていて楓ちゃんを見上げるこの構図だった。彼女は無言で私を見下ろしている。雪が大降りになって、露出した肌に斑点のようにまとわりつく。もっとも、肌はとっくに凍てついていて、その感触はない。


「ごめんね、楓ちゃん」


 首から温かい液体が流れ出るのを感じる。冷えた手が首に触れた。不思議と痛みは感じない。それよりも楓ちゃんに看取られて死ねるのが何よりも嬉しいのだ。嬉しい? いや違う。私はただ強がっているだけだ。楓ちゃんにこれ以上、みっともない姿を見せたくないのだ。あのまま告白しなければ私たちは、楽しい日々を送ることができたのだろうか。いや、遅かれ早かれこうなっていただろう。だって私はどこまでも独りよがりで、自業自得なのだから。あー、きっと、お母さんもこんなに早く再会できるとは思ってないだろうな。目を薄く開けて楓ちゃんの顔を見る。その目は、この世界のどんなものよりも冷酷で、この世界のどんなものよりも美しかった。楓ちゃん、楓ちゃん、楓ちゃん、楓ちゃん。せめて最後になんでもいいからあなたを感じたい。

 薄れゆく意識の中で楓ちゃんの声が聞こえた。


「あなたの血は、全く美しくないな」

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季節外れの桜 緋櫻 @NCUbungei

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