第2話 でもね。だって。

冬の夕暮れは、どうしてこんなに早く訪れるんだろう。

校舎の窓から見えた空は、すでに薄紫に沈んでいて、どこか重たく街の色さえ吸い込んでしまっているようだった。

窓ガラスに映る私の影の向こうの教室の中は異様に明るく見えた。

肩で息を吐いて、私は机の中の教科書をカバンにしまう。

「じゃあね、梨花」

声を掛けてきたクラスメイトに手を振り微笑み返す。

ブゥー、ブゥー……

机の上で震えるスマホを手に取る。

画面に表示されていたのは、親友の美瑠みるからのメッセージ。

『梨花、今日バイト休みだよね。夕食一緒しない?』

あれ?

今日は駿介くんとデートって、昨日言ってなかったっけ?

また、けんかでもしたのかな。

はいはい、話し聞いてあげるよ。

「うん、いいよ、どこにする?」

返信を送ると、すぐにメッセージが飛んでくる。

『北万住駅のいつものとこに18時でどう?どう?』

「はあい。じゃあ後でね」

『後で~』

スマホケースを閉じようとした時、間に挟んであったパウチがスッと床に落ちた。


「あっ……」

椅子を引いて、拾おうと屈んで手を伸ばそうとした時、私より先にそれを大きな手が拾い上げた。

「日日草だったんだ」

爽やかな鼻から抜けるような声の主は、クラスメイトの宮本翔みやもと かけるくん。

バスケ部で、背が高くてスラッとした体型のクラスの人気者。

いつも誰かに囲まれて笑っている宮本くんが、その笑顔のまま、私の前にそっとパウチを差し出してくれた。

そのブレザーの袖口からは、ジャージの青い袖がちらりと覗いている。

「ありがとう、宮本くん」

両手でそれを受け取ると、私はついていた埃を払う。

「よく見てるよね、それ。大切なんだ」

宮本くんはなめらかに片手を動かし、スマホを操作していた。

「……ああ、うん」

パウチ越しに見る日日草は、生きていた頃のふくよかな丸みこそ失ってしまったけれど、花びらの一枚一枚、葉脈の繊細な筋に至るまで、あの日の記憶を鮮明に宿している。

掌ほどの小さなパウチをそっと撫でると、乾いた花びらの下に、潮風の匂いや、夕凪島の熱い空気が今も息づいているような錯覚に陥る。

「へー。倉科知ってた? 日日草の花言葉。楽しい思い出、友情、生涯の友情、優しい追憶。……そして、永遠の愛だって。いい言葉ばかりだな」

「そう、だね」

花言葉はずっと前から知ってるよ。

その日の夜に、おばあちゃんが教えてくれたし、後々自分でも調べたから。

あの時、何気なく二人の間にあったこの花を摘んで、彼が私の麦わら帽子に挿してくれて、押し花にしようって話をした。

でもあの日、弟くんが熱が下がらないって彼はちょっぴり元気なくて。

生まれてはじめて誰かのために、何かをした、特別な日の想い出だから――

彼から貰った宝物たちを見るたびに、あの頃の、宝石のように、満点の星空のようにキラキラした記憶が眩しく呼び起こされる。

でもね――。


「いい思い出なんだ」

宮本くんの声に我に返る。

「え……。ああ、うん……」

ひとり、にやけていたのかもしれない。

私はパウチをスマホケースにそっと差し込む。

「……倉科ってさ、彼氏いるの?」

「へ?」

思いがけない言葉に手に持ったスマホを落としそうになって、あわあわする私。

クスッと小さく笑う宮本くんは、軽く咳払いをした。

「あ、ごめん、いまのかわいくて」

「……え?……ああ……」

私は髪を耳に掛け、ブレザーのポケットにスマホをしまい、カバンを手に取り立ち上がる。

「じゃあ……」

軽く頭を下げて、足早に教室を後にした。

少しだけ鼓動が早い。

けど、あの頃のようなときめいたものじゃないのはわかる。

ドキドキの居場所が違うから。

廊下の空気はひやりとしていて、私はカバンの中からマフラーを取り出す。

そして、歩きながらカバンを肩にかけてマフラーをざっくりと巻いた。


タン、タンと足音を鳴らし、一段一段階段を下りていくうちに、徐々に冷え込みが増していく気がする。

でもね。

あれから5年が経って。

約束の日までも5年。

ちょうど折り返し。

色々調べたよ。

夕凪島のこと。

東京から一番早く着く飛行機でも、バスとフェリーを乗り継いで3時間はかかる。

新幹線なら倍の時間。

夜行バスなら12時間。

意外に遠いんだって分かった。

でも調べながら思うんだ。

私だけかもしれないって、あの約束を覚えているのって。

彼はもう、約束の事なんか忘れてしまっていて。

彼はものすごく優しいから……

私なんかより可愛い彼女がいて……

なんて、余計な事を考えちゃうんだよ。

あんだけ行きたいって親にせがんでいたのに、今年は口にすらしなかった。

ううん、出来なかったのかも。

行きたいって気持ち。

行けないって虚しさ。

会いたいって想い。

怖いって思い。

シーソーみたいに行ったり来たりしてるんだ。

最近、ずっと。

まだ一人で行く事すらできないのに考えちゃうの。

だって――。


生徒たちが笑い合いながら昇降口を出ていく声が遠くで響く。

カバンの紐を肩に掛け直して靴を履き替えていた。

そのときだった。

「倉科、ちょっと待って……」

肩で息をしながら、宮本くんが急いで靴に履き替えている。

「どう、したの?」

さっきの問いかけに答えたくなくて、あの場から立ち去ったのに。

「え……?あ、いや……駅まで一緒に帰ろう」

「ああ……うん……」

宮本くんはニコッと白い歯を見せると、私を促すように歩き出す。

なんか断り切れなくて、少しモヤッとしながらも宮本くんの隣を少し遅れてついていく。

校舎をでると、遠く建物の向こうに、雲に滲んだ橙色の帯が微かに広がっている。

頬を刺すようなキーンとした空気が、風で揺れるたびに、その痛みが増して、目を細め顔をマフラーにうずめる。

白い息が宙に溶けるのを見ると、体の芯まで冷えていくようだった。

「倉科はさ、いつもどんな本読んでるの?」

「……なんでも読むよ」

答えになってるのか分からなかったけど、それは事実だから。

それと、さっきの話題じゃなくて内心ほっとする私。

「そっか……なんかオススメってあるかな?」

「うーん。ないかな」

「え?ないの?」

ビックリして少し体を逸らす宮本くんがおかしくて、私は思わず肩をすくめる。

「……だって、本なんて、読み手によって解釈違うから、100人読んだら100通りの感想、その人たちの正解があるから、気安くは勧められないんだよ」

「ああ、はあ、そうなんだ……」

それから、宮本くんは黙りこくってしまった。

私にとっては好都合だけど。


街路樹のつらなる通学路。

他の生徒たちと同じ方向に歩みを進める。

落ち葉が風に舞って、小さな渦を作ってはカサカサと音をたてて、またアスファルトの上に寝そべる。

同じ風なのに、冬って……哀しいな……。

音も景色も。

私たちは信号待ちで立ち止まる。

この大通りを渡ったらもう駅前の広場に着く。

私は変わらず半歩後ろ。

なんか隣に並ぶのが嫌だったから。

そういえば、夏休みに一度だけダブルデートなんてものをした。

美瑠と駿介くん、そして駿介くんの親友の航太くんと。

テーマパークに行ったんだけど。

美瑠が手つなげとか、航太くんと二人きりにされたり、ちょっとしんどかった。

航太くんはそんな私を見かねて、しっかり距離を取りながらも嫌な顔を一つしないで、優しくしてくれた。

連絡先は交換してるけど、今まで一度も遣り取りはしていない。

小さくライトを灯し始めた車がビュンビュンと音を立て通り過ぎる。

近くのガードを渡るゴーッという電車の音が聞こえていた。


信号の黄色が灯る。

「なあ、倉科、ちょっとだけ寄り道しない?」

少し身を屈め私の目線に合わせるように、宮本くんは覗き込んできた。

照れ笑いなのか苦笑いなのか、その表情は普段見たことがない、少し緊張感を帯びたものに思える。

「……どこ?」

「すぐ、そこの楠見くすみ公園なんだけど……」

目でどうかなって訴えるように、宮本くんは眉を上げる。

美瑠との待ち合わせの18時までには時間があるけど……

どこか、断りにくくて、うまく立ち去れる方法はないかと考える。

「……何があるの?」

「それは、行ってからのお楽しみ……」

何がそんなに嬉しいのかってくらい笑うその顔に、行ってからのお楽しみという言葉が、私の記憶の中を容赦なく、くすぐった。

こんな時でも。

思い出しちゃうんだよ。

「じゃあ、行こう」

きっと今、笑ってたんだね私。

返事をする間もなく、そう切り出した言葉に連れられ、宮本くんの半歩ずらした横をついていく。

すっかり暮れなずんだ世界に、街灯、ビル、家々のともし火が、街に色化粧を施して、賑わいさえも醸し出していた。


楠見公園。

その名の通り、公園の中央に大きなクスノキがある。

噴水や遊具がそろっていて、ジョギングや犬の散歩とか、この辺りの憩いの場所だと聞いたことがある。

植栽の脇にある公園の入口には、こんな時間にも関わらず多くの人がいた。

何かあるのかな?

宮本くんの後を追って、公園に足を踏み入れる――

そこには噴水を中心に電飾で形作られた、いくつものイルミネーションが夜の帳の中で色を変え、人々の歓声と嘆息を呼んでいた。

中には気の早いクリスマスツリーを象ったものもある。

「うわ、キレイだね……」

ふいに零れた私の言葉。

「……よかった……」

ホッとしたような、宮本くんの声色。

「何が?」

「いや……」

小さく顔の前で手を振る宮本くん。

「うん、寄り道した甲斐あるね」

そっとブレザーの襟元を掴んで、私は瞳に点滅するイルミネーションを焼き付けた。

音や匂いはないけれど、光の瞬きが、どうしても、あの夏の日のお祭りや花火に思えてしまって――。


「どうしたの?」

ふいに耳に届いた声の方を見る。

宮本くんの顔に、青色、黄色、赤色……光が通り過ぎていく。

「え……?」

「いや、何か今、笑ってたから……」

私は頬に手を添えた。

わずかに頬のが冷たくて、熱が伝わるのが心地よかった。

「倉科、ちょっとこっち来て……」

そう言って手招きをする、宮本くんの後を追う。

マフラーに顔をうずめながら吐く息の白さは、あっという間に闇に溶けていく。

公園の象徴、大きなクスノキのそばに来た。

その幹に宮本くんは片手で触れると、肩で大きく息をして、ゆっくりと振り向いた。

街灯の灯りが宮本くんの顔を白く浮かび上がらせていて、光に揺れる瞳が私を見つめている。

恥ずかしい訳じゃないけど、合わせられない私の視線は、その後ろにあるクスノキの幹に注がれていた。

「……倉科のこと、好きなんだ。俺と付き合ってほしい」

木の枝葉がざわわ、ざわわと音を立て、吹き抜けた木枯らしが私の髪と制服のスカートをふわりと持ち上げる。

私は唇に残った髪をそっと指で払う。

少し強張った表情をしている宮本くんを、見つめ返すことが出来ないから自然と足元を見てしまう。

落ち葉が靴に当たって止まったけど、次の風の波に乗って流れていった。

私は深く息を吸い込んで、ゆっくりと息を吐く。

だって。


「……ごめん。宮本くんはいい人だし、優しいと思う。でも、私……」

何か言いかける宮本くんの息遣いを感じながら――

「私……好きな人がいるの……だから……付き合えないです」

私が頭を下げたその先で、大きなため息がもれた。

「……言ってくれて、その、ありがとう」

変わらない爽やかな声だった。

顔を上げたその瞬間、またざわざわと梢が叫び出して、私の髪も靡く。

さらに、ヒュー、ゴーッという音を立て、体がよろめくような強い風が抜けていく。

周囲から上がるキャーという声すら、空気を切り裂くそれが勢いよく攫う。

身を屈めながら片手で髪を押さえる。

クスノキの根元に出来た小さなつむじ風が、落ち葉を掬い上げながら幹を伝って上っていく。

枝と葉を大いに騒がせて、ザザザザーッという音を残して、天に消えていった。

見上げた夜空には、行先の分からない飛行機の赤い光がチカッ、チカッ――

ゆっくりと横切っていった。

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