約束の木の下で 風と雪の中に

ぽんこつ

第1話 木枯らしが駆け抜けた日

瞼のスクリーンにはまだ残像が、頭の中にはその断片が、心地良い余韻と共に残っている。

久しぶりに懐かしい夢を見た。

私はベッドのまどろみの中でとろけそうな至福の面持ちに満たされている。

夢の終わりころ、どういうわけか図書室に向かっていた私の前にあの頃の彼が現れて。

声は聞けなかったけど、私の名前を呼んだ気がして。

白い歯と片頬に出来るえくぼを見せてくれたところで目が覚めた。

部屋は薄暗い。

まだ目覚ましは鳴っていない。

手探りで枕元にある筈のスマホを探す。

手を出しただけで部屋の空気がヒンヤリとしているのが分かる。

指先にスマホが触れると、それを掴んで引き寄せながら、布団を頭から被る。

6時11分。

いつもより、20分早い目覚め。


私はスマホケースの中の押し花のパウチを指先でそっと引き抜いた。

画面の灯りに照らされた白い花びらが、私に微笑みかけてくる。

まるであの時の彼の笑顔のように――

あの夏の5日間。

彼と夕凪島の風の中を駆け抜けた、10歳の頃の私。

もうあれから5年。

風を作り出すブランコで出逢って。

おばあさんの駄菓子屋のラムネとビー玉。

二人で一緒に潜った透明な海。

小さい魚にヒトデに空を飛ぶ海鳥、そして彼が取ってくれた宝物の巻貝。

岩場で転びそうになったとき、私を抱きとめてくれた腕の感触。

自転車で二人乗りをして通った見晴らしのいい道。

キャラメルみたいな味の醤油ソフトクリームに小さな花畑。

そして彼の秘密基地で見た金色の海。

女の子と仲良くする彼を見て初めて妬いた焼きもち。

浴衣姿の私が男の子に絡まれたのを助けてくれたこと。

お祭りの屋台の射的で彼が射抜いたクマのぬいぐるみ。

掬えなかったけど、お店のおじさんがサービスしてくれた金魚のひかりちゃん。

虫を追いかけて、ため池で石を投げ合って、山でつんだ日日草。

元気がない彼を励ましたつもりが、私が優しくなれた気がしてしまう、語尾が上がる「ありがとう」の響き。

そして、彼のために何かをしてあげたい、そう思って焼いた、いびつな形のクッキー。

美味しそうに食べてくれた彼の横顔。

そして――

10年後に会おうねって、あの約束の木の下で交わした二人だけの秘密の約束。


あの頃は毎日のように見ていた夢。

でも徐々に見なくなって。

夕凪島に行きたいけど、私一人じゃどうにもならなくて。

島に住んでいた、おばあちゃんも、その年の暮れに亡くなっちゃったから。

家族で行く理由も無くなっちゃって。

親にせがんでも願いは叶わなくて。

物思いに耽っていたら、アラームの音楽が鳴り始めた。

ビックリしてスマホを落としそうになって、慌てて解除ボタンをタップする。

パウチの表面を指先で撫でてから、スマホケースに仕舞った。

正直、布団から出たくなかった。

出てしまったら夢の残り香ごと醒めてしまいそうで。


深く息を一つ吐いて、布団をめくる。

ゆっくりと体を起こし、枕の脇のリモコンを手に取って部屋に明かりを灯す。

一瞬の眩しさに目を瞬きさせた。

体が温まってるせいか、余計に寒く感じて、ベッドから立ち上がり、椅子の背に掛けていたカーディガンを羽織って腕を抱いてさする。

ふいに、ベッドサイドに座っているクマのぬいぐるみと目が合う。

キョトンとした黒い瞳はそのままだけど、耳が少しよれてきていた。

私はしゃがんでその子を両手でつかんで胸の中に引き寄せる。

当初の毛のモコモコ感も少しごわごわになってきていた。

子供みたい……私。

そして、微笑んで見つめ返した後、そっと元に戻した。

「そうだ……」

もう一つの宝物。

机の上のカバンの中からアクセサリーポーチを取り出す。

ファスナーを開けて淡いクリーム色に波の模様が浮かんだ、つややかな巻貝をつまんで掌に載せる。

指先で転がすとつるつるとした肌触りが、波の音、笑い声を運んできてくれるような気がした。

三つの大切な思い出の欠片、その一つ一つを噛みしめるように心の中に抱きしめた。

夢で彼に会えたうれしさと、会えない現実。

分かってる。

分かってるの、子供じみた約束だって。

でもあの約束の木の下で交わした願いは叶うって彼が言ってたし。

叶って欲しいって思ってる。

だから、囚われてもいないし、縛られてもいない。

自分が信じているから……


朝食を食べ終えて、身支度を整えている間も、夢の破片がちらほらと浮かび上がっては沈む。

制服に着替えて、鏡の前で私と目が合う。

何か言いたそうな子がそこにはいた。

久しぶりに夢を見たからかな、会いたい気持ちが少しだけ強くなっているのかな。

会えないって分かっているのに。

あの時に似た懐かしいドキドキが胸の中によみがえる。

握った拳を胸に当て、もう片方の手で包み込む。

ぎゅうって苦しくなって身を縮めるように肩を寄せる。

彼も――

こんな気持ちでいてくれているのかな。

そう、鏡の中の私に笑いかける。

ぎこちない笑みが返ってくるだけ……。

目を逸らして、ふう―っと息を吐く。

窓際に歩み寄って、思いっきりカーテンを開ける。

マンションの5階にある部屋からの眺め。

今日はどんよりとした雲が果てしなく埋め尽くしていて、街もどこかぼんやりとして見える。

視線を落とすと、道路脇のすでに葉の落ちたイチョウの枝が風にしなっていた。

「梨花、何か雪降るかもってよ、暖かい格好して行きなさいね」

「はあい」

リビングからの母の声に外を見つめたまま返事をする。

私の息が窓ガラスに白い膜を張って……

さらに息を吹きかけてそれを大きくして、指でなぞってみる。

何かを書こうと思ったわけではないのに……

すぐに息を吹きかけて、それを消した。

ヒューッという音が窓ガラスの外で叫んでいる。

まるであの日々の中で出逢った、夕凪島の風が時を越えて吹いてきたかのように。


「いってきます」

玄関を開けた途端、ドアの抵抗を伴って足元からひやりとした風が入り込んで、寒さに思わず肩に力が入る。

エレベータまでの通路を歩いている時も、容赦なく吹きすさび、ヒュー、ゴーッとマンションに音を反響させ、さしずめ嵐でもきたかのような荒々しさだった。

髪を押さえながら、急ぎ足でエレベーターの前まで行くと、向かいの通路から犬を抱えたおばあさんが歩いてきた。

「おはよう、梨花ちゃん、寒いね」

「おはようございます」

同じフロアの福村さん。

福村さんは風から犬を守るようにコートの懐深くに忍ばせて、その頭を撫でている。

ちょうどエレベーターが着いて、私は福村さんに先に乗って貰う。

頭だけひょっこり顔を出している犬の名前は確か……

マルチーズだからまるちゃん。

まるちゃんは鼻をひくひくさせながら、真ん丸の黒い瞳で私のことをじっと見つめている。

そっとまるちゃんに手を伸ばす。

「まるちゃん、おはよう」

そう言いながらあごの下をさすると、気持ち良さそうに舌なめずりをした。

一階に着いてエレベーターの扉が開く。

私は福村さんの後に続いて降りる。

シーンと静まり返ったロビーの冷たい空気の中に、外の風の騒々しい音だけが聞こえてきた。

「どうしようかね、まるちゃんお散歩無理かな」

子供をあやすような感じで、福村さんはリズムを取りながらエントランスの外を眺めていた。

落ち葉やどこからか飛んできたビニール袋が宙に舞っている。


「梨花ちゃん、気を付けてね」

「ありがとうございます。じゃあ、いってきます」

福村さんとまるちゃんに小さく手を振って、歩き出そうとした時。

「ワンっ」

まるちゃんが吠えた。

何気に見たまるちゃんの瞳が潤んでいる。

福村さんが優しく頭を撫でても、

「くーん、くーん」

と悲しげな声をあげる。

「あら、この子ったら梨花ちゃんが行っちゃうの寂しいみたいだね」

まるちゃんの顔を覗き込む福村さん。

それでも、まるちゃんは私をじっと見つめていた。

「まるちゃん、行ってくるね」

微笑みながら言う私に、

「わん」

さっきより優しい鳴き声で返したくれた。

エントランスの二重の自動ドアを出た途端、横からなぶるような風にバランスを崩しそうになる。

電線の震えや木の揺れ、道を抜ける音、空気のうねりの中にいるようで、呼吸さえしづらい。

まるで、世界が泣き喚いているようで、白や鈍色の空から涙が零れないのが不思議なくらいだった。

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