夜半の伴
kakapo!
夜半の伴
今年の十五夜も、よく晴れた。
マンションのベランダから見上げる月は、去年より少し丸く見える気がする。
テーブルの上には、徳利と小皿を二つ。
片方は、もう使う相手がいない。
部屋の中は、いつもより少し散らかっている。
観葉植物の鉢には水をやった形跡がなく、カーテンの裾には犬の毛が一本、まだ残っていた。
休日のたびに掃除をしていたはずなのに、ルナさんがいなくなってから、
部屋の空気がどこか沈んで見える。
食器棚の隅には、ルナさんの器がそのまま置いてある。
片付けることができずに、半年が経った。
ルナさんが旅立って、ちょうど半年が経った。
あの子は月を見るのが好きだった。
僕が団子や酒を用意すると、足もとに寄ってきて、
焼き芋の皿を見つめながら、耳だけこちらに傾ける。
「ルナさん、今夜もいい月ですね」
思わず声をかけてから、胸の奥がすこし痛んだ。
返事があるはずもないのに、癖のように言葉がこぼれる。
風がベランダの手すりを撫でていく。
僕はおちょこを手に取り、ひと口含む。
この時期はぬる燗がちょうどいい。
つまみを隠す必要がなくなって、落ち着いて飲める夜――
それなのに、どうしてこんなに静けさが重く感じるのだろう。
思い返せば、あの子と月を見た夜は、どれも賑やかだった。
小さな折り畳みテーブルを出して、おちょこと徳利、それからつまみを少し。
ルナさんの分には、焼き芋を半分に割って皿に盛った。
「ルナさん、まだ熱いですよ」
そう声をかけると、ぴくりと耳を立ててこちらを見る。
我慢しているように、尻尾をゆっくり左右に揺らしていた。
僕が酒を注ぐ間にも、ルナさんの視線は焼き芋から離れない。
だから僕は、いつも自分のつまみを皿の陰に隠して食べた。
見られると落ち着かなくて、まるで悪いことをしているような気がするのだ。
けれど、ルナさんは賢い。
僕が口を動かす音を聞きつけて、すぐに顔を上げる。
そのたびに僕は、「これはルナさん用ではありません」と言いながら、
視線を逸らしてごまかした。
結局、ひと口分けてやるまで、あの子は諦めなかった。
食べ終えると、満足そうに丸くなり、僕の膝にあごを乗せてくる。
月の光が毛並みを照らし、黄金色に輝いていた。
その温もりを思い出そうとしても、もうはっきりとは浮かばない。
風の匂い、あの子のぬくもり、あの子の寝息。
どれも指の隙間からこぼれ落ちたように遠く、形を失っている。
気がつくと、酒はすっかり冷めていた。
ベランダの隅に置いた焼き芋は、湯気を失って冷えている。
去年までは、ここでルナさんが尻尾を揺らしていたのに。
風が通り抜けるたび、どこかで首輪の鈴が鳴ったような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
けれど、耳を澄ませば、あの子の寝息が微かに聞こえる気がした。
僕は手すりに寄りかかり、夜空を仰ぐ。
雲ひとつない空に、月が静かに浮かんでいる。
あまりにも綺麗で、胸の奥がひりついた。
「月が綺麗ですね」
思わず、声が漏れた。
それは誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
ただ、言葉を口にした瞬間、涙がひとすじ頬を伝った。
――不自由だった夜が、いちばん幸せだった。
つまみを隠し、見つかって笑い、焼き芋を分け合った。
その小さな不自由さの中に、確かにあの子と僕の時間があった。
月の光がベランダに差し込み、冷えた焼き芋を淡く照らす。
その隣に、もうひとつの影が並んで見えた気がした。
「……ルナさん」
そう呟いたとき、風がやさしく頬をなでた。
まるで返事のように、静かに。
ベランダから部屋へ戻ると、窓際に置いた小さな写真立てが目に入った。
月明かりが差し込み、ガラスの奥でルナさんがこちらを見ている。
写真の中のあの子は、首をかしげるようにして笑っていた。
その表情を見つめながら、ふと思った。
――夜半の伴、という言葉がある。
夜の静けさに寄り添うもの。
それは灯か、音か、それとも大事な記憶か。
僕にとっては、あの子の存在こそが、夜半の伴だった。
今もなお、こうして月の下で一緒にいる。
姿はなくとも、記憶はここにある。
「おやすみなさい、ルナさん」
声に出すと、部屋の空気が少しだけやわらかくなった気がした。
今夜も、あの子と同じ月を見上げている――そう思えるだけで、
心の奥の静けさが、少しだけ温かく揺れた。
夜半の伴 kakapo! @patori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます