第3話 擦れる二人

 潮の香りを含んだ風が、古びた木造旅館「潮音館」の格子戸を揺らしていた。

 外観はところどころ板が褪せ、瓦もいくらか歪んでいるが、玄関をくぐれば磨き込まれた板の床が鈍い光を放ち、懐かしい時間の層が染み込んでいることがわかる。ここは岬大和が生まれ育った場所であり、今では町の人々が自然に集まる拠点となっていた。


 その日も、夕刻になると灯りがともり、町内の顔ぶれが次々に暖簾をくぐった。

 漁に出た帰りの漁師たち、商店街で店を閉めて駆けつけた商人、子どもを寝かしつけてから合流する若い母親、そして町議会の一部の古参議員まで。誰もが厚手の上着や作業服のまま、気負いなく座敷に上がり込んでくる。


 六畳二間をぶち抜いた広間には、ちゃぶ台と座布団が並べられ、壁際には手書きのポスターや地図が貼られていた。「守ろう! 碧浜の海」「開発で町は幸せになるか?」そんな文字が、墨痕鮮やかに書かれている。手作り感があふれていたが、その分だけ熱量も感じられた。


 大和は、上座に腰を下ろしていた。背筋を伸ばし、両手を膝に置くその姿は、いつもの柔らかい笑みを封じ、代わりに強い眼差しを宿している。幼い頃から彼を知る人々にとって、その表情は珍しいものだった。

 だが今や、彼が先頭に立たなければ町の声は届かない。そういう役目を、本人も自覚している。


「みんな、今日はありがとう」

 大和は深く頭を下げてから顔を上げた。

「先日の説明会、聞いたろう? 都会から来た会社の人間が、数字を並べ立てて『町の未来』を描いてみせた。でも俺たちはどうだ? あの数字の中に、俺たちの暮らしの匂いや声は一つでもあったか?」


 ざわつきが広間を満たした。漁師の田村が、ごつごつした手を膝に置いたまま低く唸る。

「海を壊されちまったら終わりだ。魚が減れば、漁も観光もへったくれもねぇ」


 商店街の菓子舗の女将が続いた。

「観光客なんて、流行り廃りに左右される。昔、温泉ブームの時もそうだったじゃない。儲けたのは都会の会社ばかりで、残ったのは借金だけ」


 声はやがて重なり合い、熱を帯びていく。大和は頷きながら、一人一人の言葉を拾い上げた。


「そうだよな。俺たちはこの町で生まれ、この海で育ってきた。子どもたちだって、この砂浜を駆け回って大きくなるんだ。数字やグラフに描かれた未来より、目の前の暮らしを守ることが、何より大事だろう」


 その言葉に、座敷の空気が一層強固なものへと変わる。まるで一本の太い縄に、ばらばらの糸が撚り合わさっていくかのように。


 やがて大和は紙束を取り出した。署名用紙だった。

「町に提出する署名を集めたい。これが大きければ大きいほど、会社も行政も無視できなくなる。俺たちが一枚岩であることを、数字じゃなく“人の数”で見せてやろう」


 商店主の一人が立ち上がり、力強く言った。

「うちの店先にも置かせてくれ。客にだって書いてもらえる」


 漁師たちも次々に手を挙げる。

「港でも集めよう。漁協の仲間にも声をかける」


 場は一気に活気づき、声が飛び交う。紙にペンが走る音が、潮騒と重なるように広間を満たした。


 そんな熱気を見守りながら、大和は心の奥で小さな葛藤を抱いていた。

――俺は正しいのか? 本当に、この道しかないのか?

 しかし、その疑念を打ち消すように、子どもたちが無邪気に署名の真似をしている姿が目に入る。未来を守らねばならないという思いが、彼の背中を押していた。



---


 翌朝、灰色の雲が町を覆っていた。海風が湿り気を含んで路地を抜け、古びた商店街のアーケードの骨組みを軋ませる。休日でもないのに人通りは少なく、ところどころシャッターが降ろされたままの店が目に入る。その佇まいは、遼にとって都会の喧噪に慣れた目に、ひどく静かで、そして閉ざされた印象を与えた。


 「では、ここから一軒ずつ当たってみましょうか」


 隣で明るい声を出したのは、桐谷友里だった。まだ二十代半ばの若手社員で、社内でも「現場に強い」と評判を買う存在だったが、この町に降り立ったばかりの彼女の表情には、不安と緊張が交じり合っている。白いブラウスにベージュのカーディガンという柔らかな装いは、威圧感を避けようとする意図の表れだろう。対して遼は、いつもの濃紺のスーツにきちんと締められたネクタイ。数字と合理を背負った人間として、鎧を脱ぐつもりはなかった。


 「無理に聞き出さなくてもいい。とにかく足を運んで、顔を合わせることだ」


 遼が低く言うと、友里は小さく頷いた。二人は最初の店、町の入り口近くにある小さな八百屋の前に立った。店頭には季節の野菜が並んでいるが、どれも数は少なく、都心のスーパーに溢れる規格品とは違い、形も大きさもまちまちだった。だが、その歪さにこそ土地の息遣いが感じられる。遼はそんな感慨を心の奥に押し込み、扉を開いた。


 中から現れたのは、腰の曲がった老婦人だった。白い割烹着に手ぬぐいを頭にかぶり、年季の入った手には土が染みついている。遼が名刺を差し出すと、老婦人は目を細め、無言で受け取った。その視線は冷たくもなく、かといって歓迎でもなく、ただよそ者を測る目だった。


 「町のリゾート開発について、ご意見を——」


 遼が切り出すと、老婦人は言葉を遮るように首を振った。


 「悪いけどねえ、うちは関係ないよ。忙しいんだ」


 言葉は柔らかいが、明らかに線を引く響きだった。友里が「少しだけでも」と口を開こうとした瞬間、老婦人はもう店の奥へ引っ込み、戸口を閉めてしまった。二人の間に風がすり抜け、紙袋が路地を転がっていった。


 「……仕方ない。次だ」


 遼は表情を変えずに呟き、隣の店へ足を向けた。


 魚屋、文房具店、古びた雑貨屋。どこへ行っても似た反応だった。名刺を出せば受け取るが、話を切り出す前に断られるか、あるいは「用事がある」と言って背を向けられる。ときには、店の奥から聞こえる声がぴたりと止み、ひそひそ話に変わるのがわかる。冷たいというより、徹底して拒む空気。町全体が一つの意思で結束しているようだった。


 「……都会じゃ考えられませんね」


 何軒目かで店の扉を閉められたあと、友里がため息交じりに言った。彼女の頬にはうっすら汗がにじみ、唇を噛みしめる仕草があった。


 「都会なら、メリットを提示すれば必ず食いつく。雇用だの収益だの……でも、この町はそうじゃない」


 遼は短く答えたが、内心は揺れていた。自分の言葉が、まるで空気に吸い込まれていくように何の手応えもない。そのことが、想像以上に重くのしかかる。合理の世界では、数字が人を動かす。しかしここでは数字が人々を遠ざけている。皮肉だった。


 二人は商店街の端まで歩いた。海へ続く道が視界に広がり、遠くで波の音がかすかに響く。遼は立ち止まり、深く息をついた。


 「……この町は、俺を拒んでる」


 その独白に、友里は小さく首を振った。


 「拒んでるんじゃなくて、試してるんだと思います。外から来た人が、本当にこの町を見ているのかどうか」


 遼は彼女の言葉に目を向けた。友里の瞳は真剣で、都会育ちの若さと未熟さを超えた真摯さが宿っていた。その視線に一瞬、遼は居心地の悪さを覚え、言葉を返せずに視線を逸らした。


 そのとき、背後の路地から子どもの笑い声が響いた。振り返ると、小学生くらいの子らが手作りのプラカードを掲げて走っていく。「海を守れ」「町を売るな」と拙い字で書かれている。無邪気な声が空気を切り裂くように響き、遼の胸に鈍い痛みを残した。


 友里はその様子をじっと見つめ、「……強いですね、この町の人たち」と呟いた。遼は返す言葉を持たなかった。冷たく閉ざされた商店街の風景が、いつまでも心に焼き付いて離れなかった。



---



 昼下がりの商店街を抜け、遼は書類の束を抱えたまま足を止めた。

 陽射しは強いが、潮風を含んだ空気はどこかざらついていて、都会の乾いた風とは違う。行き交う住民たちの視線は相変わらず冷たく、挨拶を返す者はほとんどいない。彼らにとって自分は「外から来た開発会社の人間」でしかないのだ――そう理解はしていても、胸の奥に刺さる棘は鈍く疼き続けていた。


 「遼くん」


 背後から柔らかい声がした。振り返ると、そこに立っていたのは岬波瑠香だった。肩までの黒髪を後ろでひとつにまとめ、白いカーディガンを羽織っている。兄・大和の面影を宿しながらも、その瞳にはどこか違う穏やかさがあった。


 「……波瑠香」


 遼は一瞬言葉を選びかけた。兄の大和が率先して反対運動を進めている以上、妹である彼女も自分を敵視して当然だった。


 「少し、いい?」


 そう言って彼女は商店街の路地裏へと歩き出した。遼は半ば戸惑いながらも後を追う。路地に入ると、潮の匂いが一層濃くなる。木造の建物の壁が風に軋み、遠くで漁船の汽笛が響いていた。



---


 「みんな、協力してくれなかったね」


 彼女は立ち止まると、やや申し訳なさそうに言った。遼は苦笑を浮かべる。


 「あた。扉を閉められるのには、さすがに慣れてきたよ」


 「……ごめんね。町の人たち、警戒心が強いの。都会から来た人に、いい思いをしたことがあまりなくて」


 その言葉には、責める色はなかった。むしろ彼女自身も住民の態度に胸を痛めているのだとわかる。遼は意外に感じた。


 「謝る必要はない。反対するのが当然だと思うから」


 「お兄ちゃんもそう言うでしょうね」


 波瑠香は少し遠くを見つめ、微笑んだ。だがその笑みには影が差していた。


 「お兄ちゃんは、あの性格だから……町を思ってのことなのは確か。でも、意地になってる部分もあるの」


 「意地?」


 「うん。小さい頃から、兄さんは負けず嫌いで。ひとつでも譲ったら全部を失うって思い込んでしまうんだよ。町を守らなきゃって気持ちは本物だけど……都会に出て行った幼なじみ――遼のことも、どこかで許せてないんだと思う」


 遼の胸に、静かな痛みが広がった。彼女が言葉にしたことは、遼自身も感じ取っていた。大和の瞳の奥に潜む、友情と裏切りの記憶。その確執が、現在の対立をより鋭いものにしている。


 「……俺も、大和に許してもらえるとは思ってない」


 吐き出すように言った自分の声が、思いのほか弱々しく響いた。波瑠香はその言葉を否定せず、ただじっと見つめていた。


 しばしの沈黙のあと、彼女はふっと柔らかく笑った。


 「でも、遼が町を思ってないわけじゃない。今日のあなたの姿を見て、そう感じた。数字だけで動いてる人なら、あんなに一軒一軒回らないでしょう?」


 「仕事だから、だよ。成果を出さないと、俺は……」


 「それでもよ」


 彼女の声ははっきりしていた。潮風に乗って届くその響きは、不思議と心に温もりを残す。遼は思わず言葉を失った。彼女が見ているのは、合理の鎧に覆われた自分ではなく、その奥に残った人間としての部分なのかもしれない。


 「兄さんは頑固。でも、町を想う気持ちは本物。遼も、本当はそうでしょう?」


 彼女の問いかけに、遼は返答できなかった。ただ胸の奥に、ほんの小さな灯がともるのを感じた。それは冷たい視線に晒され続けた日々の中で、初めて差し込んだ温かさだった。


 「……ありがとう」


 それだけを言うと、遼は深く息を吐いた。波瑠香は小さく頷き、再び穏やかな笑みを浮かべた。



 路地の先から、子どもたちの笑い声が響いてきた。「開発反対」と書かれたチラシを手に、走り回っている。現実は厳しい。だが、その中でわずかに見えた希望の糸を、遼は胸の奥でそっと握りしめた。



---



 商店街は、静かに息を潜めたかのような空気に包まれていた。軒先に干された魚の匂い、波の気配を含む潮風、舗道に積もった砂粒――都会では味わえない、雑多で素朴な匂いが鼻先をくすぐる。桐谷友里は小さなメモ帳を片手に歩きながら、その匂いのひとつひとつに目を細めた。


 「都会の人には、ここまで肌で感じる町は珍しいんだろうな……」


 都会育ちの彼女にとって、この町は一種の異世界だった。遼と共に商店街を回っている間、住民たちは誰も口を開こうとせず、扉を閉められることもしばしばだった。その反応の冷たさは、彼女にとって予想外ではなかったが、それでも心の奥で少し驚きが湧いた。


 「不器用……」


 友里は独りごちるように呟いた。住民たちの態度は冷たい。しかしその冷たさの奥に、町への愛着や誇りが潜んでいることを感じ取った。若い漁師も、年老いた店主も、口は重くとも目は真剣に彼女たちを見ていた。信頼があるならば、協力はすぐに得られるだろう。しかしその信頼は、容易に得られるものではない――その不器用さこそ、この町の力であり、町の魂そのものなのだと、彼女は直感した。



 遼は冷静に数字を示し、未来の町の姿を語る。雇用の増加、観光収益の上昇、税収アップのシミュレーション。彼は数字の羅列に精一杯の情熱を込めていた。しかし、町の人々の表情は変わらない。冷たく、警戒心に満ちている。


 友里はふと、遼の背中を見た。スーツ姿は整っていて、肩に力が入っている。顔には疲れがにじみ、眉間にはしわが刻まれていた。彼は、数字の羅列の向こうに人々を説得しようとしている。しかし、どこか空回りしているように見える。


 (遼さん……)


 心の中で名前を呼ぶ。彼に悪意はない。ただ、数字と理屈に押し切られようとして、町の人々の心を見落としているだけだ。友里はその視線の先に、町の人々の生活の営みを思い浮かべた。魚を干す手、土間を掃く老人の手、祭りの太鼓に打ち込む若者の汗――数字では計れない、現実の重み。


 その瞬間、友里の中で何かが弾けた。彼女は遼に問いかけたくなる衝動に駆られた。


 (あなたは、この町を数字じゃなく、人として見ていますか……?)


 しかし、言葉にすることはできなかった。今はまだ、遼が耳を傾ける準備ができていないことを感じ取ったからだ。彼の目はプレゼン資料のグラフに釘付けで、町の生活の匂いや温度には気づいていない。



 友里は心の中で、静かに決意を固めた。町を守るのも、開発の現実を示すのも、両方に真実がある。その橋渡しは、自分ができるかもしれない――と。


 (遼さんが本当に見たいものを、伝えられるように……)


 彼女の視線は商店街の奥に向かう。閉じられた扉の向こうに、子どもたちが駆け回り、笑い声を響かせている。町の未来はまだ、手の届くところにある。数字だけで押し切ることのできない、人々の暮らしと想いが、そこに確かに息づいていた。


 友里の心は、揺れながらも、はっきりとひとつの確信を抱いた。遼の合理と町の人々の情熱の間に立ち、両者をつなぐ存在――自分はその橋渡しになるべきだ、と。



---



 夕暮れ時、空は茜色に染まり、港に並ぶ漁船の影が静かに揺れていた。潮の香りが街角まで届き、海面に反射する夕陽が細かく光る。遼は祭りの太鼓の音を耳にして、ふと立ち止まった。


 町の広場では、老若男女が一堂に会して、祭りの練習をしていた。太鼓の響きは力強く、町全体を包み込むように鳴り響く。若者が大きく手を振り、汗を飛ばしながら打ち込む姿に、老人たちが合わせて太鼓を叩く。子どもたちはまだ覚束ない手つきで太鼓の練習に加わり、時折笑い声を上げる。


 遼は、かつて自分が会社で扱っていた数字やデータの列を思い浮かべた。雇用率、観光収入、税収の増減――画面の向こうで淡々と示される未来の計算。しかし、この町の太鼓の音や、人々の呼吸、汗、笑い声の中にある力には、数字では決して換算できない重みがある。


 彼はそっと、広場の端に身を潜めたまま、息を呑んでその光景を見つめる。若者の必死な叩き方、年寄りの指先の微妙な力加減、子どもたちの笑顔――全てが一つの呼吸となって、町を生き生きとさせている。


 「これが……町の力なのか……」


 遼の胸の奥で、何かがざわめいた。数字や合理性だけでは捉えられない、目には見えない結束の強さ。町の人々の生活と歴史、誇りが太鼓の音に宿っている。


 その時、一人の老人が練習の合間に子どもたちを呼び寄せ、手を取りながら「ゆっくりでいい、でも心は揃えるんだ」と教える。若者たちも互いに声を掛け合い、時に笑い、時に叱咤する。遼はその様子を見て、数字の計算では絶対に導けない「共同体の強さ」が存在することを痛感した。


 彼の心の中に、微かだが確かな動揺が芽生えた。これまで、自分は「未来」を数字で示せば、町を導けると信じていた。しかし今、目の前の太鼓の音と町の人々の真剣な姿が、その考えに静かに問いを投げかけている。


 遼はポケットの中で握ったメモを指で揉みながら、波の音と太鼓の音を同時に聞いた。合理だけでは動かせないものがある。人の心、町の誇り、守るべき営み――それを無視して数字を押し付けることが、どれほど虚しいことか。


 遠く、港の方で夕陽が海に沈む頃、遼は自分の胸に、これまで感じたことのない重みを抱えたまま立ち尽くした。町は一つの生き物のように息づいており、彼はその中に、自分の居場所を計算で割り出すことはできないことを悟ったのだった。



---



 狭い路地の角を曲がった瞬間、遼は思わず足を止めた。夕暮れの柔らかい光に照らされて、大和が立っていた。風に揺れる大和の髪と、背中をまっすぐにして立つ姿は、以前よりも少しだけ精悍に見えた。


 「……お前にこの町をいじらせない」


 大和の声は低く、しかし確かな決意に満ちていた。言葉は鋭く、遼の胸に刺さる。目の前の路地の狭さと、二人の間に漂う空気の緊張感が、息を詰まらせるほどだった。


 遼は咄嗟に言葉を探した。論理的に説明すれば納得させられるはず、数字で未来を示せば理解させられるはず――しかし、声は出なかった。口の中で言葉が絡まり、乾いた空気だけが二人の間に残る。


 大和は遼の目をじっと見据え、微かに眉を寄せる。その視線には、怒りだけでなく、失望と諦めが混じっていた。遼はその複雑な表情を受け止め、胸の奥で何かが崩れ落ちる感覚を覚えた。


 「……」


 遼はただ黙って、視線を反らすこともできず立ち尽くした。数字や資料、会社の指示――全てがこの瞬間、無力に思えた。大和の一言が、これまで自分が信じてきた合理の世界を揺るがしている。


 大和は少しの間、遼を見つめたまま立っていたが、やがて背を向け、路地の奥へ歩き出す。その背中に、揺るがぬ信念と町への愛情が滲んでいた。


 遼はその後ろ姿を見送ったまま、息を整え、心の奥に小さな痛みを抱えた。大和との再会は短く、言葉もほとんど交わせなかった。しかし、その瞬間、遼の中で何かが変わり始めていた。


 数字だけでは測れないものがある――町の人々の営み、大和の情熱、守るべきものの重み。路地の狭さと夕暮れの空気が、遼にそれを静かに教えていた。


 「……俺は、どうすればいいんだ」


 呟いた声は、自分自身にも届かないほど小さかった。ただ、胸の奥で芽生えた揺れは確かで、これからの選択を重くしていくのを、遼は感じていた。



---



 遼は路地から歩き出し、潮騒の残る海辺を背にしたままスマートフォンを取り出した。

 画面に表示されたのは橘の名前。呼び出されると、胸の奥で緊張がひそかに膨らむ。


 「……はい」


 遼が応答すると、向こうから低く、冷たい声が響いた。


 「進捗はどうだ、遼。感情に流されるな。数字で押し切れ」


 声の端には、苛立ちとも催促ともつかない緊張感が漂っている。

 遼は咳払いをし、視線を海に落とした。夕陽に照らされた波は、穏やかに揺れている。なのに、胸の奥は重苦しい。


 「……順調です。ただ、住民の反応が想定よりも……」


 言葉を濁すと、橘の口調がさらに厳しくなる。


 「数字は説明しただろう? 感情の揺れで計画を曲げるな。君の仕事は未来を示すことだ。人の意見に流されるな」


 遼は握りしめた手の中で、スマホが熱を帯びるのを感じた。数字では測れない現実が目の前にある。商店街の冷たい視線、大和の背中、祭りの太鼓に込められた汗――これらすべてが、合理の世界の外側に存在していた。


 「……はい、わかりました」


 声は小さく、しかし彼自身に届くような強さはなかった。心の奥では、揺れが止まらず、合理だけでは埋められない空洞を感じていた。


 通話を切った後も、遼はしばらく海を見つめて立ち尽くした。

 光に照らされる町の屋根や路地、祭りの太鼓の音が遠くに響く。数字と計画だけでは割り切れない、町の人々の息づかいが、胸の中でざわめいている。


 「……俺は、本当に、これでいいのか」


 小さく呟いた声は、波の音に飲まれて消えた。

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