私はあなたの知らない色

大谷丑松

私はあなたの知らない色

潮風がスケッチブックのページをめくっていった。

紙の白が陽光に焼け、俺は目を細める。

鉛筆の先を止めたまま、空を見上げた。


沖縄の空は、どこまでも青かった。

けれど、その青さの中に自分の心は溶け込めなかった。


東京での美大受験に失敗して以来、俺の世界はずっと灰色に沈んでいた。

描くことが好きだったはずなのに、今はキャンバスに向かうのが怖い。

友人に「気分転換に旅行でも」と誘われ、流れのまま来たこの島も、どこか現実味がない。


波の音も、セミの声も、どこか遠くで鳴っているように感じた。


「その絵、なんか悲しいね。」


不意に声をかけられて、俺は振り返った。

そこに立っていたのは、日焼けした肌に麦わら帽子をまとった少女だった。

琥珀のような瞳がまっすぐに俺を見ている。


「……悲しい、かな。」


「うん。海の絵なのに、ちょっと冷たい感じがする。」


俺は曖昧に笑った。

少女は砂浜にしゃがみ込み、俺のスケッチブックを覗き込む。

その動作があまりに自然で、まるで昔から知っている人のようだった。


「名前、聞いてもいい?」


「夏間木彼方(なつまぎ かなた)。」


「“夏間木”? 私は金城夏音(きんじょう かのん)。

夏の音って書いて夏音なの。ふふ、同じだね。じゃあ私たち、夏・夏コンビだね。」


そう言って笑う夏音の笑顔に、俺の心がわずかに揺れた。

明るいのに、どこか寂しげな光を宿している。


その日から、俺たち2人はたびたび顔を合わせるようになった。


---


夏音は島のあちこちを案内してくれた。

昼は白い砂浜、夕方はサトウキビ畑、夜には星が降るような浜辺。


「ねえ、彼方。見て。夜の海って、黒じゃないんだよ。

 光を吸いこんでるだけで、本当は深い青なの。」


波打ち際に立つ夏音の横顔を、俺は見つめた。

潮風に揺れる髪が月光をすべらせる。

その瞬間、俺は思った。――この人の中には、まだ自分の知らない色がある。


夏音はよく笑った。

けれど、笑いながらもどこか遠くを見ているような目をしていた。

それが、俺には気になって仕方がなかった。


ある日、集落のはずれで休んでいると、夏音がふと呟いた。


「私、小さいころからここにずっといるんだ。

 でも、島の外の世界を見たことがないの。」


「出てみたいって、思わないの?」


「ううん、怖いの。

 ここにいれば、季節も、海の匂いも、みんな知ってる。

 でも外に出たら、何もわからなくなっちゃいそうで。」


そう言ったあと、夏音は笑って「変だよね」と肩をすくめた。

その笑顔が痛いほどに儚く見えた。


---


「ねえ、彼方。私をモデルに絵を描いてほしい。」


夕暮れの浜辺で、夏音はぽつりとそう言った。

オレンジの光が、彼女の輪郭を金色に染めていた。


「え?」


「彼方の絵、好き。悲しいけど、優しい。

 だから、私の中にある“色”を描いてほしいの。」


俺は答えられなかった。

それは恐れにも似ていた。

今の自分に、誰かの“色”を描く資格があるのか――。


けれど、夏音の瞳が静かに頷いていた。

その光に導かれるように、俺は筆をとった。


翌日から、俺は毎日スケッチブックを広げた。

海辺に座る夏音。笑う夏音。沈黙する夏音。

何度描いても、同じにはならなかった。

彼女の中の色は、時ごとに違う表情を見せたからだ。


それでも描き続けた。

線が重なり、影が滲み、やがて一枚の絵が生まれた。

それは、光と海と寂しさのすべてを抱いた“夏音”そのものだった。


---


旅行の最終日。

俺は完成した絵を夏音に手渡した。


「ありがとう、夏音。君がいなかったら、もう絵を描けなかったと思う。」


夏音は絵を見つめ、少しだけ目を細めた。


「この絵、あったかいね。私、ちゃんとここにいる。」


「また会いに来るよ。必ず。」


夏音は何も言わずに笑った。

波の音だけが俺たちのあいだに流れていた。


飛行機の窓から見下ろした海は、限りなく青かった。

けれどもう、それはただの「綺麗な色」ではなかった。

夏音の笑顔、風の匂い、潮のきらめき――それらがすべて、その青の中に溶けていた。


---


本土に戻ってからも、俺は絵を描き続けた。

夜になると、アトリエの隅に立てかけられた一枚の絵を見つめる。

その中の少女は、今も鮮やかに笑っていた。


「……ありがとう。君のおかげで、また色が見える。」


俺はそっと筆を置き、キャンバスに新しいタイトルを書き込んだ。


**『私はあなたの知らない色』**


そこには、夏音の面影と、俺自身が取り戻した“生きる色”が静かに息づいていた。


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私はあなたの知らない色 大谷丑松 @otani_ushimatsu

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