仮面
夜の風は、ゲッセマネの丘を下るユダの頰を容赦なく打ちつけた。熱い涙はすぐに冷たい筋となり、そのまま乾いていく。振り返れば、師ヨシュアの悲しみに満ちた顔と、彼に託された地獄の使命が焼き付いていた。
「私が悪の象徴に、千年先まで続く不名誉の炎に身を投じる薪に…。」
ユダは心の中で繰り返す。歩を進めるごとに、ヨシュアの言葉が彼の魂を縛り付けていった。彼は知っている。この夜から始まる一連の出来事は、師の教えを単なるユダヤの一派の運動ではなく、全世界の魂を救済する普遍の信仰へと昇華させるために、絶対に必要不可欠な儀式なのだと。そして、その儀式で究極の悪役となる役割は、愛や情熱といった人間的な動機を超越した、冷徹な献身を必要とする。それは、愛する師から最も遠い場所にいると師自身に認められた、自分にしか果たせない役回りだった。
ユダは顔を上げ、虚空を見つめる。ここからは、イスカリオテのユダではなく、サタンに魂を売った裏切り者、金の亡者としての役を演じきらねばならない。
彼は深呼吸をし、顔の筋肉を無理矢理動かして、強欲で軽薄な笑みを作り上げた。その笑みが定着するまで、何度も何度も、孤独な夜道で練習した。これでいい。師の光を輝かせるための完全な闇の仮面が完成した。
彼の歩みは、サンヘドリン(ユダヤの最高法院)の大祭司カヤパの屋敷へと向かっていた。
カヤパの屋敷の巨大な門は、夜にもかかわらず、厳重な警備によって固められていた。ユダは臆することなく門衛に進み出た。
「緊急の、重大な告発がある。大祭司カヤパ様にすぐに面会を願いたい。」
ユダの口調は冷静沈着でありながら、ただならぬ緊迫感を滲ませていた。門衛は怪訝な顔をしたが、彼の尋常ならざる様子に、すぐさま報告のため奥へ走った。
待つことしばし。ユダは屋敷の石壁の前に立ち、己の心臓の鼓動だけを聞いていた。彼の中では、使徒として師に仕えた三年間と、今から始まる千年の裏切りとが激しくせめぎ合っていた。
やがて、屋敷の中庭に通されたユダの前に、大祭司カヤパが姿を現した。夜着の上に儀式用の豪華な外套を羽織っている。彼の側には、数人の祭司長と長老たちが、興奮と猜疑の入り混じった表情で立ち並んでいた。彼らは長らくヨシュアの台頭に危機感を抱いており、その抹殺の機会を虎視眈々と狙っていた。
カヤパは静かにユダを見つめた。彼はヨシュアの熱心な弟子の一人であったことを知っている。その弟子が、何の用で、この深夜に自分たちの前に現れたのか。
ユダは、強欲の仮面を完璧に保ち、静かに、しかし明確な言葉で切り出した。
「私は、ナザレのヨシュアについて、あなたがたに有益な情報を提供できる。」
カヤパの目が僅かに光った。その背後に控える祭司長たちの間に、かすかなざわめきが起こった。
「その情報とは、どのようなものだ?」カヤパが慎重に問うた。
ユダは声を低め、自らの魂を深くえぐるような言葉を吐き出した。
「私が彼をあなたがたに引き渡したら、どれだけくださるか?」
その言葉は、まるでサタンと結ぶ悪意の契約を刻むかのように、中庭の冷たい空気に重く響いた。
カヤパはユダの目をじっと見つめた。そこにあるのは、弟子としての愛情ではなく、計算高い冷酷な光だった。彼はユダの心の内を探ろうとはしなかった。彼にとって重要なのは、手段ではなく結果だった。
カヤパは無言で、侍従に合図を送った。侍従がすぐに小さな革袋を持って戻ってきた。カヤパはその袋を手に取り、ユダの前に差し出した。
「これが、お前の働きに対する報酬だ。」
ユダは無言でその袋を受け取った。そのずしりとした重みで、中身を数えるまでもなく分かった。それは銀貨三十枚。ユダヤの律法(出エジプト記)において、奴隷一人を誤って殺してしまった場合の賠償金として定められた、屈辱的な値段だった。
ユダの心臓は、鉄の鎖で締め付けられるように痛んだ。師の命の価値が、奴隷一人分。この屈辱こそが、自分が真の裏切り者として見られるために必要な、最初の刻印だと、ユダは理解した。
彼は銀貨の袋を力強く握りしめた。手が震え、強欲な笑みが一瞬崩れそうになる。彼はすぐにその笑みを修復し、カヤパに向けて答えた。
「よろしい。私が群衆のいない場所を見つけ、追って連絡を差し上げよう。それまでは、くれぐれも誰にも話さぬように。」
ユダはもう一度深く頭を下げ、光と闇が混ざり合う夜の中へ再び消えていった。彼の背後から聞こえてくる、大祭司たちの満足げな囁きが、彼の耳には永遠の呪いのように響いていた。
彼は、今、師の愛する教会を建てるための最初の石を、自らの魂の絶望で打ち固めたのだ。
ユダは屋敷の敷地を出ると、早足で人気のない路地を選んで歩いた。銀貨の袋は彼の掌に汗ばみ、その重みが彼の魂を圧迫する。彼は決して金が欲しかったわけではない。彼が求めたのは、この取引の成立と、裏切り者というレッテルだった。しかし、その銀貨三十枚の意味があまりに重すぎた。
「奴隷の値段…。」
ユダは路地裏の壁にもたれかかり、銀貨袋を空に掲げた。月の光を受けて鈍く輝くそれは、カヤパの師へのあざけりを象徴していた。
ヨシュアの顔が脳裏に蘇る。
「お前は私の光を灯すために、自らの魂を燃やし尽くす、最初の火とならねばならぬ。」
ユダは、この銀貨が彼の手に渡った瞬間から、彼の魂は救済の外側へ追いやられたことを理解した。彼の名前は、未来永劫、「裏切り者」の代名詞として、師の教えと対極の存在となるのだ。彼はその恐ろしい運命を、師への究極の愛ゆえに受け入れた。
彼は袋を懐に深くしまい込むと、人目を避けてゲッセマネの丘へと続く道を急いだ。
「もう後戻りはできない。」
ユダは口の中で呟いた。次の段階は、師の命を奪うための場所と合図だ。
彼は、自分がサタンに取り憑かれた者として、裏切りと絶望の最期を迎えねばならないことを知っていた。しかし、その悲惨な終わりこそが、師の伝説を確固たるものにする。
ユダはいつ何をすべきか考えを巡らせ、月明かりの下一人立ち止まった。彼の心には、銀貨の冷たさと、師の愛の熱さが、相容れないまま共存していた。
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