密約

夜の帳が降り、エルサレムの喧騒が遠い響きとなるゲッセマネの丘。オリーブの木々の影が、石灰岩の地面に不規則な模様を描いていた。


一人の男が、小さな油皿の灯りの下、経理の作業に没頭していた。イスカリオテのユダ。彼は外套を脱ぎ、額に汗を浮かべながら、使い古した皮袋に銀貨を数えては詰めていく。その額は、彼ら一行の旅と活動を支える、あまりにも寂しい資金だった。


「これで、あと三日は持つか…。」


ユダがため息をつき、皮袋の口を紐で固く結び終えた、その時だった。


「ユダ。」


声は低く、しかし驚くほど近くで響いた。ユダは飛び上がりそうになったが、その声の主を知り、すぐに静かに振り返った。


ヨシュア。彼らの師。


師はいつもの白い上着ではなく、藍色の外套を深く被り、その顔は夜の闇に沈み込んでいた。その表情は、ユダが今まで見たこともないほど深く思いつめたものだった。何か恐ろしく大きな苦悩が、師の霊を激しく揺さぶっているのが、ユダには痛いほど伝わってきた。ユダの胸に、冷たい予感が氷のように滑り込んだ。


「先生…どうなされました?今夜は皆で祈りを捧げると仰っていましたが。」ユダは声を潜めた。


ヨシュアは答えず、ただ目を閉じ、深く息を吸い込んだ。まるで、これから口にする言葉が、喉を焼き切ってしまうかのように。


「ユダ、お前に伝えねばならない。お前だけに託さねばならぬ使命があるのだ。」


ユダの喉が詰まった。それは通常の指示とは違う、彼の運命のすべてを塗り替えてしまうような、重い響きだった。


「私は…もう時が満ちたことを知っている。私の教えは今、この国で、この時代で最も輝いている。だが、肉は朽ちる。血は流れれば忘れられる。私の言葉を、この小さな国境を越えて、千年先まで響かせるためには決定的な『儀式』が必要だ。」


ヨシュアは一歩、ユダに近づいた。その瞳は、暗闇の中で激しい炎のように揺れていた。


「その『儀式』とは、私を伝説とし、私の教えを信仰として確立させる、永遠の犠牲だ。」


ユダの握る皮袋から、銀貨の冷たい感触が伝わってきた。ユダは震えながら問うた。


「では…その儀式において、私の役割は?」


ヨシュアの声は、もはやユダの胸に直接響く、霊的な囁きとなっていた。


「お前は私を敵の手に売り渡さねばならない。そして私が処刑される時、お前は自ら命を絶ち、その役割を全うした悪の象徴とならねばならぬ。」


ユダは顔を上げ、師の顔を見つめ返した。その言葉が意味することを、彼はすぐに理解した。


「私がサタンに取り憑かれた裏切り者として、千年後の未来まで語り継がれる悲惨な末路を?」


「そうだ。」ヨシュアは静かに頷いた。


「私の死が贖いの永遠の真実となるためには、それに対立する究極の悪が必要なのだ。お前は私の光をより輝かせるための、完全な闇とならねばならぬ。」


ユダの唇がかすかに震えた。


「私の言葉を信じる全ての人間は、その裏切り者の末路を見て背信の恐ろしさを知り、私への信仰を強固なものにするだろう。お前は、人類の救いのために必要な最初の犠牲となるのだ。その結果信仰は千年の栄光を、お前は裏切り者の烙印を、その名に背負うことになる。」


ユダは、その場で崩れ落ちそうになった。師の口から語られたのは、地獄のような使命だった。彼は、自身の魂の救済を絶望と引き換えに、師の永遠の命を保証させられようとしていた。


ユダは顔を上げ、師の足元に跪いた。彼は涙をこらえるために歯を食いしばっていたが、その声は感情で震えていた。


「先生!お願いです、思いとどまってください!そんな恐ろしい道は選ばないでください!そして…なぜ、なぜ私なのですか!」


ユダは激しく師に詰め寄った。


「ここにいるのは私だけではありません!ヨハネは最も愛された弟子。彼はあなたのために命を投げ出すでしょう!ペトロは情熱的な岩。彼はあなたを地上の王として立たせるために戦おうとするでしょう!彼らにこの役割を命じてください!彼らなら、あなたへの愛から、この使命を殉教として受け入れることができるでしょう!」


ヨシュアはユダの額に手を置き、その冷たい肌を温めようとした。


「ユダよ。ペトロは愛ゆえに、私を三度否認する。彼は私への個人的な愛と忠誠が動機となり、私の死後に許されて立ち直るだろう。彼の役割は、『赦された罪人』として、教会を導くことだ。」


「ヨハネは純粋過ぎる。彼は私を裏切ることなど、魂が許さないだろう。彼は私を売る代わりに、この計画自体を武力で阻止しようと、私を説得し続けるだろう。」


ヨシュアは目を閉じ、深い悲しみを滲ませた。


「だが、お前は違う、ユダ。お前は私を最も深く理解している。お前は、私を地上の王にするという夢を持っていた。お前は、私がその道を拒んだ時、私を裏切る理由を、自分で見つけ出した。」


ユダは驚愕した。師は彼が銀貨を貪ったこと、彼が不満を抱いていたことの全てを知っていたのだ。


「そして、お前は論理の人だ。お前は、私の教えが人類全体の救済という、より大きな目的に達するためには、個人の犠牲と悪という役割が必要だと、誰よりも早く理解し、受け入れることができる。お前は、私と最も遠い場所にいながら、私の最も深い目的を理解し得る、唯一の弟子だ。」


ヨシュアはユダの手を取り、その掌に自分の頬を押し付けた。


「この使命は、ペトロやヨハネの愛では成し遂げられぬ。これは使命の冷徹さを理解し、自らの救いを諦める勇気を持った者でなければ、受け入れられぬものなのだ。」


「ユダ…私がお前を愛するからこそ、お前を裏切り者という永遠の闇に閉じ込める。お前は私の光を灯すために、自らの魂を燃やし尽くす、最初の火とならねばならぬ。」


ユダの心臓は張り裂けそうだった。愛と絶望、そして師への途方もない献身が、彼の全身を支配した。彼は、師の顔に流れる涙を見た。それは、ユダへの別れと感謝の涙だと、直感的に悟った。


「私を…思いとどまらせないのですか?」ユダは最後の抵抗として問いかけた。


ヨシュアは首を横に振った。


「お前は、私の教えの永遠の礎とならねばならぬ。さあ、夜はもう深い。すべきことを、今すぐ、しなさい。」


ユダは立ち上がった。その目は涙で濡れていたが、もはや迷いはなかった。彼は、師の前に深々と頭を下げ、とめどなくあふれる涙をぬぐった。その冷たい感触こそが、彼が背負うべき呪いの重みだった。


ユダは振り向かず、夜の闇へと姿を消した。彼の背後には、オリーブの木陰で、独り天に向かって祈りを捧げる師の姿があった。


その夜、裏切り者の道が始まった。それは、千年後の信仰の栄光のための、たった一人の魂の地獄だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る