第2話
とりあえず、真木は自分の部屋に若者を連れてきた。
なんとか落ち着いたようだけれど、このまま帰すのは心配だった。
自宅マンションのエントランスの前で、真木は提案した。
「こっちは気楽な一人住まいだし、お茶でも飲んで、少し休んでいけばいい」
真木の誘いに、若者は頷きはしなかったが、拒絶もしなかった。
「とにかく、このナイフは俺が貰っとくから。いいな?」
真木は返事を待たずに、一人でエントランスを入った。
どうするかは自分で決めればいい――そう思い、彼を路上に残してエレベーターホールに向かった。
すると彼は、うつむき加減のまま、とぼとぼと真木の後ろをついてきたのだった。
整然と並んだ銀色の郵便受けの前で足を止め、真木は苗字のプレートを指でトントンと叩いた。
「俺は、真木だ」
返事は、特に何もなかった。
部屋に入ったとき、真木は「心配なら玄関を開けておこうか?」と尋ねた。
その問いに、彼は小さく「大丈夫です」と答えた。
廊下を進み、リビングに入る。ソファーを示すと、従順に腰かけた。
けれどプルオーバーの袖口から覗く指先は、緊張を表すように強く握られていた。
「寒くないか?」
「平気です」
温かい飲み物を出したが、警戒しているのか、口をつけなかった。
真木は苦笑いだけして、無理強いはしなかった。
「どこから来たんだ?」
「……忘れました」
「なるほど」
若者はそこで、ソファから腰を上げた。
「やっぱり帰ります」
そう言って、真木に向かって不器用に頭を下げた。
ぴょこん、と効果音がつきそうな動きだった。
まるで幼稚園児みたいで、状況が違えば真木は笑っていたかもしれない。
「ありがとうございました――って言うのも、なんかヘンですけど」
時刻はもうとっくに0時を過ぎている。
夜中に一人で帰らせるのは、やはりためらわれた。
もちろん下心なんてない。
ただ、どうしても放っておけないだけだ。
「君さえよければだけど、朝までいたらどうかな」
誰かがこの子を追ってくるのではないか――そんな心配が頭をよぎった。
突っ立っている彼は、真木の言葉に「でも……」とためらいを見せた。
まるっきり嫌なわけでもなさそうだと真木は思った。
「朝になって太陽を見れば、気分も変わるさ。このソファは案外寝心地もいいよ」
真木がそう言うと、少し泣きそうな顔をした。
鼻の頭がうっすら赤い。
「いいんですか……?」
尋ねられた真木はわざと軽い口調で言った。
「朝メシ食って、そのあと、もし必要なら警察へ相談に行こう。付き添うよ」
若者は、両方の袖をぎゅっと握った。
それは、先ほどの張りつめたような握り方とは違うように真木には思えた。
彼は黙ったまま、再びソファに腰を下ろすと、握った指をほどいた。
そしてテーブルに置かれた、さっき真木が出した紅茶のカップに手を伸ばした。
カップに手を添え、そこで真木を見て言った。
「あの……真木さんも、一緒に飲みませんか?」
両手でカップを包むように持ち、真木を見上げた。
上目遣いのその様子はとても不安げだった。
大人の顔色をうかがう、愛情に飢えた子どもそのものに思えて、真木の中に断るという選択肢はなかった。
「そうだな。そうしようか」
真木はキッチンに立ち、戸棚から自分のカップを取って、ソファに戻ってきた。
ティーポットから紅茶を注ぐ。
真木が一口飲むのを見届けて、若者はようやく安心したように、自分も紅茶に口をつけた。
「冷めてないか?」
真木が尋ねると横に首を振り、「猫舌だから、ちょうどいいです」と答えた。
ふと胸元に目をやると、古い傷あとが覗いていた。襟ぐりが深く、見ようとしなくても見えてしまった。
「その傷、誰につけられたんだ?」
真木の質問に返答はなかったが、真木は低い声で言った。
「もう二度と元の場所には戻るな」
彼は真木を見たが、真木はそれ以上言わなかった。
真木は紅茶をもうひとくち飲んで、かわりに尋ねた。
「名前はなんていうんだ?」
若者はしばらくのあいだ真木をじっと見た。
そして、小さく唇をひらいて答えた。
「
「友李、か」
真木が声にすると、友李は少しだけ照れたような顔をした。
もしかすると、こんな風に名前を呼ばれることも滅多にないのかもしれない――と真木は思った。
「友李は、どんな音楽を聴くの?」
真木の問いに友李は「え?」と少しの戸惑いを見せた。
「ほら、さっきイヤホンしてただろ? 今の若い子は何を聴くのかなと思ってさ」
友李はポケットからスマートフォンを取り出すと、手早く操作して真木の前に置いた。
スピーカーから流れたのは、古き良きアメリカのポピュラーソングだった。
「プラターズか」
意外そうに言った真木を、友李もまた、はっとして尋ねた。
「知ってるんですか?」
真木の言うとおり、これはThe Plattersというグループの「Only You (And You Alone)」という歌だ。
リードボーカルの甘く情熱的な歌声が、切なくも力強いメッセージを伝えている。
有名な歌なのでワンフレーズを聞いたことがある人は多い。
けれどグループ名まで即答した人に、友李ははじめて会った。
真木はこの時代の曲が好きなのだろうか。心地よさそうに耳を傾けている。
「友李はなかなか渋い趣味をしてるんだな」
真木がなんだかうれしそうにそう言うと、友李は、過去を思い返すように微笑んで言った。
「この曲は特別です。僕の大事な曲だから」
――君だけが、この世界を正しいと思わせてくれる
――君だけが、この暗闇を光り輝かせてくれる
夜更けの部屋に、ドゥーワップの美しいハーモニーが流れる。
時間の進む速度が緩やかになった気がした。
「僕は、捨て子でした」
不意に友李が言った。
真木は少し驚いたが、なんでもない顔を保った。
友李はそのあと、自分の生い立ちをぽつりぽつりと話し始めた。
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